ホンダのオートバイ、NSR250で終わった!

オートバイ、日本の1位から4位は、そのまま世界の1位から4位だと習った。大排気量オートバイはあまり得意でないが、中小排気量のオートバイが優秀で、日本と言わず東南アジア中心で大量に売れていたりする。

特に、機構がシンプルで馬力&トルク効率の高い2サイクルは、原チャリから125ccや250ccまで、高い能力と信頼性を誇っていた。

オートバイ世界GPなどの二輪レース、ホンダは80年代まで出てなくて、ヤマハやスズキやカワサキらが占めていた。ヤマハはRZ⇒TZR、スズキはRGΓ、カワサキはKRと市販モデルを出していた。ホンダは後発ながら、NS⇒NSRと市販モデルを展開し始めた。86年頃の話だ。後発な分、必要なスペックを見極めたモノを展開した。

シングルクランクV型2気筒、クランクケースリードバルブ、RCバルブ、88モデル以降はPGMキャブレターまで、ワークスマシンNSR250や市販レーサーRS250からフィードバックされた技術をフル投入した。86・87年に初代を出したが、90年までワークス/市販レーサーイヤーモデルの如く、市販NSR250も90年まで毎年フルチェンジした。

流れが澱んだのは、本田宗一郎が亡くなった91年から。90年モデルを子供ダマしのカラーチェンジし、93年まで凌ぎ続け、市販レーサーRSやワークスレーサーNSRが右側片持プロアーム&右側チェーンや狭角V型2気筒や倒立フロントフォークなのに、乖離した。

更に、決定的にガッカリしたのは、94年モデル。VFR400同様の左側片持プロアームに左側チェーンやエキセントリックシャフトや、誰も求めていない日立マクセルカードエントリーを出して来た。フロントフォークは正立のまま。

ホンダというメーカー、クルマは80年代終盤に本田宗一郎が経営から引いたトコからゴマ化したクルマ作りに変わり、オートバイは91年本田宗一郎亡くなるトコから子供ダマしのオートバイ作りに変わった。

このメーカー、何の期待もデキない。

だから、中古車NSR250、新車価格の数倍以上で取引されている。

ヤマハやスズキやカワサキも覆す気概はない。

 

 

*************************************

販売台数は11万台超!?「ホンダNSR250Rはどれだけ売れたのか?」伝説的2ストレプリカの真実
7/31(月) 17:01 Yahoo!ニュース
  18
  
NSRは性能だけでなく、売れ行きもすごかった
 
後に伝説となる「ハチハチ」。市販二輪車として例を見なかったコンピューター制御の「PGMキャブレター」など高度なシステムが新規導入された
ホンダ NSR250はいったい何台作られて、何台売れたのか? とある雑誌によると、1987年から1994年までの8年間の登録台数は10万6250台だそうだ。また、86-88モデルで車体PL、89-94モデルでLPLを務めた青木柾憲さんによると、1986年から1996年の11年間の生産台数は合計11万6736台だとおっしゃる。

【画像32点】ホンダNSR250R(1986→1994)全年式、全カラーバリエーション、29モデルを写真で解説

では、イヤーモデルごとの内訳はというと、なにぶん最初の発売から30年以上も経っているので、なかなか確信的な根拠が見つからない。そこでホンダに問い合わせたところ、年度別の生産台数を教えてくださった。それとともに、各方面への調査を行った結果が次の表で、合算すると確かに11万6736台という数字が現れた。

ホンダ調べに対し、赤字部分が調査の反映を行った箇所。

*1:レース用F3車は通常、その年式の市販NSR250Rを完成車として製造した後に、それをHRCによってF3車へと換装して販売する段取りだったが、1989年のF3車NSR250RK-K(NH3M)は、最初からキットパーツを組み込んだF3コンプリート車として400台が製造されていた。上記表には、その点を反映している。つまり、1989年のNSR250Rは計19,488台となる。

*2:最終モデルのKV3Sの生産台数はホンダ調べに対し、当時の記録には65台少ない記載があったため、その点を反映している。

 
ホンダNSR250Rの年式、開発コード別の生産台数(1986年から1994年まで、編集部調査)
こうしてみると、88-89のMC18は合計4万6000台以上と圧倒的な人気で、1980年代終盤を駆け抜けたことがわかる。1992年も繰入れたMC21全体でも、まだ届かないほどだ。そんなNSR250Rも、1994年から始まった40ps出力規制には抗することができず、94モデルMC28の極端な生産台数減少は、モデル自体が非常に高い完成度を持っていただけに、少々物悲しさを感じさせる。

ともかく、NSR250Rはトータル11万6000台以上売れたのは間違い無いだろう。何しろ、販売されても登録されずに、そのままサーキット直行というような車両も少なくなかったはずなので、データの根拠が生産なのか、販売なのか、登録なのかで、その数は微妙に揺れ動くのである。

さて、イヤーモデルで見ると、やはり88モデルが圧倒的な数字だ。これに続くのが90-91のMC21で、ここでは3種類の開発コードが載っているが、これは90モデルのスタンダードとSP、そして91モデルに当てはまるSEモデルの合計ということになるので、単独グレードでは86モデルが2番目ということになるのだろう。

ちなみに当時の2ストローク250ccのレーサーレプリカの販売台数では、1986年がピークで(この時はTZR250が他を圧倒していた)、1989年がそれに肉薄する勢いで、ここではNSR250Rが圧倒的な比率を占めている。そのほかにも、当時の軽二輪(125超~250cc)と二輪車全体の、ホンダ及び国内合計の出荷台数(また違う基準だ)もじっくり眺めてほしい。

*以降、各表は画像ギャラリー参照

80~90年代の販売動向
■2ストローク250ccのレーサーレプリカの国内販売台数推移と、4メーカーの比率をまとめたもの。1989年を最後に全体が減少傾向にあるのは、カワサキのゼファーの登場と、Z1を中心としたカスタムブームの到来によるものだろう。1986年に他を圧倒していたヤマハ TZR250は1987年にあっさりとホンダ NSR250Rに王座を譲り渡しているが、グラフの変化の割合を見ると、前年までTZR250に乗っていたユーザーが、一斉にNSR250Rに乗り換えたと思われる。また、ヤマハは1989年に後方排気のTZR250を登場させるが、スズキを逆転できてもホンダの勢いには届かなかったのである。

■この当時の二輪車全体の国内出荷台数の大半は、原付一種・二種のスクーターによるもの。1982年からホンダ軽二輪が増加しているのは、もちろんVT250Fによるもの。その1982年をピークに緩やかにホンダと国内の出荷台数が落ちているのは、HY戦争の終結と無関係ではない。そういう環境の中にあって、1988年の軽二輪が盛り返しているのは、2ストローク250ccのレーサーレプリカというより、88モデルNSR250Rの影響なのだろうか。

レポート●関谷守正 写真●ホンダ/八重洲出版 編集●上野茂岐

当記事は八重洲出版『11万6000台以上を販売したレーサーレプリカの実像 NSR250Rその進化と軌跡』の記事を編集・再構成したものです。

 記事に関する報告

*************************************