大学の4年間のモラトリアムを活かせなかった斎藤佑樹

よく、野球と言わず他のスポーツと言わず各分野のプロで成功するために、中卒高卒でプロになるのと、大学や社会人を経てプロになるのと、どちらが良いかと賛否両論分かれる。

競技により、テニスやサッカーのようなカラダの成長期たる10代中盤で活動すべきモノもあれば、もう少しタクティクスや戦況駆け引き要素ある野球やバスケットやラグビーみたいなモノもある。今は将棋でも高校中退してプロになり、最年少七冠を窺っている。

斎藤佑樹の場合、高3夏甲子園を制したとはいえ、体格的には174センチ、似た体格の桑田真澄とは、スキルも鍛練度合いも不足は見えていた。大学は、確固たる自我を築き、スタイルを決め、アイデンティティーや自己バランスを取るためのモラトリアムであるべきだった。

だが、早大に甲子園など実績ない大石や1浪していた福井などがいて、カレらの球威に焦った。"自分は自分!"そう言えるようになるための大学4年間が、周囲に煽られた4年になった。

例えば、慶大から巨人入団した高橋尚は、当時第2期の長嶋茂雄監督から5キロのスピードアップを指示されたが、毅然と拒否し、優勝に貢献、日本シリーズまで活躍した。スピードアップしなかったコトで、MLBでは全く通用しなかったが。

斎藤佑樹の場合、入団前に野村克也との対談機会もあり、"投手はコントロール!"と諭されていたのに、日ハム入団後は高身長強身体の吉井コーチらにフツ~の投げ方を押し付けられ、すっかり去勢された投げ方になった。ソレでスピード出そうとして故障し、20代中盤からではカラダの補強は追い付かなかった。

カレが、(西鉄⇒太平洋⇒クラウン⇒)西武東尾みたいなストライクボールの出し入れを磨いていたら、せめて、右ヒザを折りサイドハンドみたいなテークバックから、溜めた右ヒザの反発と左半身の掻き出しで、右打者外角低め/左打者内角低めに全力投球するスタイルを貫徹していたら、もう少しマシな結果になっていたと思う。

カレに関して、野球に関して、大学4年間のモラトリアムは活きなかった。

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斎藤佑樹が悔やむプロ1年目のつまらない葛藤「自分はすべてにおいて中途半端だった」
8/18(金) 10:20 Yahoo!ニュース
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プロ1年目、前半戦で3勝をマークした斎藤佑樹
連載「斎藤佑樹、野球の旅~ハンカチ王子の告白」第36回

 ルーキーイヤーの6月21日、左わき腹を痛めて登録抹消されていた斎藤佑樹は、イースタン・リーグジャイアンツ戦に先発、3失点で勝利投手となった。7回を投げ切って、ジャスト100球──小刻みな失点は重ねるものの、終わってみれば斎藤に白星がつく、そんなピッチングだった。

【貴重写真】甲子園を彩ったスター選手たち

プロ1年目、前半戦で3勝をマークした斎藤佑樹

 

【自分を見つめ直せたミニキャンプ】

 一軍で投げている時は力み返って投げていたのに、あの日は不思議なくらい力が抜けていました。スッと投げて、キレのいいボールがいくんです。フォームから力みが消えたのは、いろんな意味でリセットできたからじゃないかと思います。プロに入って注目を集めて、僕にもそれなりのプレッシャーはありましたからね。

 初登板で初勝利を挙げて、2試合目もまあまあの内容(6回3失点)で2勝目。3試合目は勝敗こそつきませんでしたが、4度目の先発で左わき腹を痛めてしまい、一軍登録を抹消されます。

 実際、僕はプロに入ってからバッターを相手にギリギリのところで戦っていました。高校や大学の時とは違って、ほんのちょっとのミスで打たれてしまうことを痛感していたんです。その一方で、ちゃんと投げられたら打たれないという感覚もあって、ずっと気を張りながら投げていました。それが力みとなってケガにつながったのかもしれません。

 ただ幸か不幸か、僕が戦列を離れた時期に交流戦が始まって、吉井(理人/投手コーチ)さんから「ここは先発ピッチャーがひとり少なくても済むから、焦るなよ」と言ってもらって、気持ちがラクになったことを覚えています。

 ファイターズの投手陣は絶好調で、その時点で防御率は12球団でトップでした。コーチ陣も皆さんもプレッシャーにならないように接してくれましたし、個人的にはシーズン中でも集中して励むことができたんです。

 プロのレベル、一軍のバッターの能力、公式戦の雰囲気を何も知らない時期に臨んだ春の名護キャンプと、すべてをひととおり経験してから必要なことを吟味して鍛えられるシーズン中の鎌ヶ谷でのある意味"ミニキャンプ"では、その意味合いはまったく異なっていました。あの一カ月半、自分を見つめ直す時間に充てることができたのは、僕にとってはラッキーだったと思っています。

まずはわき腹のケガを治す、プロの一軍を体感した自分を客観的に見つめ直して、さらに成長するために何が足りてないのかを見極める......そう考えた時、自分はすべてにおいて中途半端だったことに気づきました。力感、スピード、フォームはこうでなくちゃいけないという固定観念を捨てたほうがいいと思ったんです。フォームがよくないから勝てないわけでもないし、フォームがメチャクチャでも勝てばオッケーになる。だから、いろんな声が耳に入ってきましたけど、そういう声に対して、そうかもしれないとは思わないようにしようと意識しました。それが、力みなく投げられるようになった大きな理由だと思います。

【1年目でオールスター出場】

 ケガが治って一軍に復帰したのは6月末(29日)のことでした。札幌ドームのマリーンズ戦で久しぶり(52日ぶり)に先発しましたが、その日、ものすごく気持ちのいいピッチングができたんです。ボールがアウトローに集まって、出し入れもうまくいっていました。きわどく外れたボールを、次はわずかに中に入れて審判に右手を上げてもらうこともできていましたし、そもそも投げる瞬間、真っすぐを押し込めている感じがありました。

 それでも、この試合はプロ初の黒星がついてしまいます。5回、ワンアウト満塁から岡田(幸文)さんに真ん中高めのカットボールを左中間へ弾き返されて、これが走者一掃のスリーベースヒットになってしまいました。

 開幕から内容に満足できないピッチングで勝ちがついたかと思えば、手応えのあるピッチングができたのに負けがつく......次の試合(7月11日、イーグルス戦)では5回を投げ切れずに2敗目。2勝2敗となって、僕は前半戦、最後の先発マウンド(7月17日、札幌ドームのライオンズ戦)に向かいます。

 何とか悪い流れを断ちきりたい、もう一度、いい流れを取り戻したいという強い気持ちで投げた試合でしたが、毎回のようにランナーを背負う苦しいピッチングになりました。それでも5回をゼロに抑えて、6回からは谷元(圭介)さん、榊原(諒)さん、増井(浩俊)さん、(武田)久さんが好投、1-0で勝つことができました。

僕は3勝目を挙げて、初めてのオールスターゲームに出場することになります。名古屋での第1戦では1回3分の1、仙台での第3戦では1回を、いずれもリリーフで登板してゼロに抑えました。後半戦へ向けて、いい流れができたと思いました。

 そもそもプロ1年目の前半戦、僕のストレートは144~145キロが出ていて、ツーシームも思うように操れて、スライダーはいつでもストライクがとれる自信があって......いま思えばそれで十分、プロで戦えるピッチングができていたと思うんです。吉井さんも「フォーシームはアウトコースなら高さは気にせんでいい、変化球は低めならコースはアバウトでいい」みたいな感じでしたし、そういうピッチングはやろうと思えばできたはずです。

 たしかにストレートでもスライダーでも初球からバンバン、ストライクゾーンへ投げ込まれたらバッターは絶対にイヤですからね。でも、そこに気づけなかった......もし、今のようなデータが当時もあったら、バッターが初球から振ってくるケースは意外に少ないとか、自分の感覚と実際のズレに気づけたと思うんです。

 あの頃の僕は、初球、簡単にストライクをとりにいったら間違いなく打たれると思い込んでいて、やたらと慎重になっていた。初球がストライクになるのと、初球が外れてワンボールになるのとでは、その後の配球がまったく変わってきます。

 僕は初球から真っすぐはコーナーいっぱい、ギチギチに投げようとしていましたし、変化球は低めいっぱいを狙っていました。それが外れて、次はもっと際どいところを狙っていた。自分で自分のピッチングを苦しくしていたんです。データによって野球が変わる......というか、野球を変えてくれるデータがあるということを知ったのは、僕が引退する2~3年前のことです。このバッターはこの球種の初球は振ってこないとか、このバッターは振ってきてもけっこう打ち損じるという細かいデータが当時もあれば、投げるうえでの安心材料になったのにな、という思いはあります。

【野球を難しく考えてしまっていた】

 プロに入ってすぐの頃の僕は、野球を難しく考えてしまっていました。大学までは当たり前のようにとれていた三振がとれなくなって、そこにすごく苦労していたんです。当時の感覚で言うと、ワンストライクはミットに向かって投げる、ツーストライクはミットを狙わずにアバウトに投げる。そうするとツーストライクまで追い込めるんですけど、三振まではあと一歩......いや、二歩くらい足りない感じ。

 スライダーのキレにしても、大学までのスライダーはもっとキレがよかったのか、それとも大学時代と同じキレなのにプロのバッターのレベルが高いから空振りがとれないのか、それがわからなかった。

 そんな時、今のような詳細なデータがあれば、「スライダーの球質は大学時代と同じ数字だから、気にせずそのまま投げていけばいい」と思えたはずです。そこがわからないままだから、スライダーが投げられない、だったら違う球種が必要なのかな......とか、フォームが変わってしまったからなのかな......とか、余計なことばかりを考えてしまいました。

 ファイターズの(武田)勝さん、多田野(数人)さんも「ツーストライクに追い込めば、バッターは三振したくないからフルスイングしなくなる。そうすると内野ゴロで打ちとる確率が高くなるから、三振をとりに行くよりゴロを打たせることに取り組んだほうがいい」とアドバイスしてくれました。

 でも僕は、その切り替えができなかった。それは、今まで三振がとれていたのに内野ゴロでは悔しいという、つまらない葛藤があって、自分の特徴を生かしたピッチングができなかったんだと思います。

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 プロ1年目の斎藤は、前半戦を終えて7試合に先発、3勝2敗、防御率3.18──迎えた8月、誰もがあの甲子園の夏を思い起こす。18歳のハンカチ王子が躍動して5年──高校時代、決勝で投げ合ったイーグルス田中将大との対決はまだ実現していなかった。そしてふたりが投げ合う舞台は9月、ついに整うこととなる。

(次回へ続く)
石田雄太●文 text by Ishida Yuta

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