ランボルギーニ・ミウラ

ランボルギーニミウラ、当時はダラーラがヘッドでスタンツァーニがいた。それまで生産を任せていたカロッツェリア・ツーリングに委ねられなくなり、退社したジウジアーロに代わりガンディーニがチーフになったカロッツェリアベルトーネに委ねた。

デザイン自体は、ジウジアーロがデザインしたFRのアルファロメオ・カングーロをモチーフとして、ガンディーニの手により突貫で作業されたモノと推量される。本来、FRとミドシップが類似するハズはないが、エンジンとミッションが短く横方向2列に配置され、後方にデフとトランク、前方に2座のキャビンとスペアタイヤのスペースを重量配分50:50に近くなるよう割付した結果のプロポーションだ。ミドシップとはいえ、キャビン直後の狭いスペースに横置エンジンと並行するミッションと重量バランスを取るには、意外に長いフロントが必要だった。

カウンタックを奇跡のスタイリングと言われるが、ミウラはそれ以前に奇跡のプロポーションだ。

当初、ミウラの難点はミニを真似てオイルをエンジン潤滑とミッション潤滑とデフ潤滑に共用してしまったコトだが、それもSやSVで分離し解決した。

元々、第1期ホンダF1も横置V12を使用し2勝している。ダメなレイアウトだとは思えない。フェラーリは息子アルフレッドの発案でディノや308GTBでV6やV8横置ミドシップの優れたハンドリングカーとして出した。フェラーリが横置V12を出していたら、レイアウトの歴史も変わっていたかも知れない。しかし、フェラーリはやらなかった。ディノ風デザインの365Pは縦置V12だった。

実際、ランボルギーニミウラの熟成改善は、B・ウォレスに与えられたJがテストベッドだった。ダラーラやウォレスのレース指向を挫くため、フルッチオはJを取り上げ、顧客に売ってしまった。ダラーラの離脱、スタンツァーニの昇格で、次期モデルはミウラとは異なる縦置レイアウトのモノにするコトで、フルッチオはウォレスを納得させた。

もし、ダラーラ離脱しようと、フルッチオがJをウォレスから取り上げなければ、ミウラの熟成改善が続いたかも知れないし、スタンツァーニのカウンタックも準備期間を長く取れたかも知れない。

ウラッコやシルエットなんかより、ミウラとカウンタックを並行して売る会社の方が、引き立ったように思う。

ガヤルドやウラカンより、今からでもアヴェンタの縦置V12以外に横置V12を再開する選択はないだろうか?

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車名は「牧場の名前」! 伝説のスーパーカーランボルギーニミウラ」とは何者なのか?
8/12(木) 18:07 Yahoo!ニュース
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モーターショーに持ち込んだシャシーが運命を変えた 
目標はフォードGT40としていたランボルギーニミウラ。日本でのスーパーカーブームでは大人気だったら製造へ漕ぎ着けるまでは前途多難だったという。
 ランボルギーニミウラ。このクルマのことについては、当時開発の現場にいた、ジャン・パオロ・ダラーラ、パオロ・スタンツァーニ、そしてベルトーネのチーフ・デザイナーであったマルッチェロ・ガンディーニのすべてに、直接誕生までのストーリーを取材したことがある。

【写真】ミウラの流麗なリヤスタイリング!

 とくに故スタンツァーニ氏とは、夜を徹して、ならぬ昼を徹してミウラのストーリー、メカニズム、そして日本のスーパーカー・ブームではもうひとつの主役となった、イオタについても多くの質問を投げかけたことを鮮明に覚えている。

 V型12気筒エンジンをミッドシップするという基本設計を持つミウラのプロジェクトを立ち上げたのは、レースに傾倒し、またフォードGT40のようなクルマを設計することを夢としていたダラーラ氏だった。だが、ランボルギーニ社の社長であるフェルッチオは、断固としてレースの世界に参入することを許さず、ならば最初にプロトタイプを製作して社長にプレゼンしようという力技に挑んだのが、ダラーラの作戦だった。

 ダラーラはまず、「プロジェクト・ミニ」の名前で、ミニのパワートレインを用いたミッドシップカーを机上で設計。そしてさらにボディを持たないシャシーV型12気筒ユニットのみの「TP400」というプロトタイプを完成させる。

 しかし、それでもフェルッチオは12気筒ミッドシップの生産を許すことはなかった。だが一方で、1965年のトリノショーにこのシャシーとエンジンのみのプロトタイプは、ランボルギーニのブースへと持ち込まれ、もしかするとランボルギーニから近く12気筒ミッドシップが登場するのではないかという期待を大いに高めてくれたのだ。当然多くのカロッツェリアがこのシャシーに独自のボディを組み合わさせてくれとフェルッチオに懇願するが、そもそも生産計画事自体がないTP400だから、フェルッチオは貸す耳を持たなかったそうだ。

 トリノショーが終わってもランボルギーニのもとには同様の連絡が続々と舞い込んだ。結局、フェルッチオはその中から350GTなどの初期モデルをデザインしたツーリングを選ぼうとするが、ツーリングはすでにその経営が末期的な状況。そこで選択されたのが、当時チーフ・デザイナーがジョルジョット・ジウジアーロからマルッチェロ・ガンディーニへと変わっていたベルトーネだった。

 最終的にガンディーニによって仕上げられたミウラのスタイリングは、現代の目で見てもこのうえなく美しい。だが、スタンツァーニによれば、完成したプロトタイプを見てもなおフェルッチオはそれをシリーズモデルではなく、せいぜい限定車として売ることしか考えていなかったのだという。

 問題はその数で、スタンツァーニはその日のことを鮮明に覚えていた。会議室にはフェルッチオを筆頭にランボルギーニの重役が、その対面にベルトーネから訪れた面々が座っている。議題はミウラをいつデビューさせ、何台生産するかが中心で、前者は1966年のジュネーブショーで一致したが、後者はいつまでも答えが出ない。ならば双方が紙に数字を書いて生産台数を決めようということになったという。開かれた紙に書かれていた数字は、いずれも「30」程度ものだったという結果だった。

 それでもミウラは、着実に開発と製作のプロセスを歩み、予定どおり1966年に発表された。オーダーは30台の限定車などというボリュームにとどまらず、ランボルギーニミウラに乗ることがひとつのステータスであり、またミウラはフェラーリを超越した存在であるという意識さえセレブリティの中で生まれる結果となったのだ。

美しさと高いコーナリング性能を併せ持つスーパーカー
4リッターV12エンジンから発生させられるパワーは350馬力。当時としてはハイパワーかつその前衛的なスタイルは見るものを魅了した。
 ちなみにミウラとは、スペインの闘牛(ファイティング・ブル)の生産牧場の名で、ある日ランボルギーニのカスタマーとともにこの地を訪れたフェルッチオが、ミウラを車名に使用して良いかどうかを聞いただけで、金銭的な負担はまったくなくその使用が許可されたものなのだという。実業家としてのフェルッチオの腕はなかなかではないか。

 ミウラのミッドに搭載されたエンジンは、4リッターのV型12気筒DOHC。正式な車名である「P400ミウラ」の400という数字はこの排気量を意味し、またその前のPは、イタリア語でPosteriore、エンジンが後方に搭載されていることを示している。P400ミウラの最高出力は350馬力。そのハイパフォーマンスと優雅なスタイルから人気を博し、1969年までに475台が生産されたとされる。以後ミウラ・シリーズは、「P400ミウラS」(370馬力)、「P400ミウラSV」(385馬力)へとマイナーチェンジを行っていく。

 Sまではヘッドライトのまわりにまつ毛のようなフィンが、またSVではそれがなくなった代わりに、よりワイドなリヤフェンダーが与えられたのが外観上の特徴となっている。生産台数は各々1971年までに140台、1973年までに150台というのが定説とされている。

 筆者は2016年、つまりミウラ生誕50周年の年にランボルギーニに招かれ、「ザ・イタリアン・ジョブ・リローデッド」のタイトルのもとで開催されたイベントに参加することができた。これはミウラが登場する映画、「イタリアン・ジョブ」の再現版ともいうべきもので、北イタリアのサンベルナール峠、その山の通行を完全に封鎖して、ランボルギーニミュージアムが所有する2台のミウラを自由に楽しむことができるという、実に刺激的なイベントだった。注意事項はただひとつ、「ドライブに集中しすぎてガス欠にならないこと、ここに戻ってくれば、ガソリンはいくらでもあるからな」だった。

 そんな言葉で送り出された不肖ヤマザキ。なんかこの展開はいつかのグッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードにも似ているけれど、今回はミスって落ちたら笑いものになるばかりか、命さえ危ない。しかもクルマはランボルギーニのクラッシックカー部門、ポロ・ストリコが仕上げたビッカビカのP400SVだ。冗談で済むわけがないだろ。

 というわけで、最初はビクビク運転していたP400ミウラSVだが、こいつはやはりミッドシップ。そのコーナリング性能はとても魅力的だ。でも正直スピンしなくてよかった。スピンなんかしたら、クルクル回って絶対に後ろからドーンだもの。いやはや貴重な経験をさせていただきました。
山崎元

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