平成の怪物、松坂大輔。

平成の怪物、松坂大輔。横浜高・渡辺監督下で鍛練した貯金を、第2回WBCまでで食いツブした。江川がそう呼ばれたみたいに、別に、甲子園春夏制覇しなければ"怪物"称号がつかないワケではない。しかし、"昭和の怪物"江川の成果に物足りなさを感じたのは、ワタシだけではないハズだ。

横浜高時代、渡辺監督は松坂大輔に託す前提のチーム作りをした。とにかく走らせた。2年までの苦い経験や、トレーニングの裏付が春夏甲子園でのビッグマウスに表れた。春はストレートに縦/横2種類のスライダー、夏は準決勝までをストレートとカーブだけで勝ち上がり、決勝だけスライダーにシュートにチェンジアップにバントフィールディングまで封印を開放し、ノーヒットノーランで終えた。

高卒ドラ1で入団したのは西武、風紀もトレーニングもユルい球団だ。東尾監督の下で、個人は3年連続最多勝したが、ロクにトレーニングせず、ピッチングは足腰から上体依存に変わった。メジャーを見据えたタマ数削減やコントロールへの対策もせず、リーグ優勝も日本一もフルシーズン働けなくなってからだ。(ドジャースの小島が"松坂より黒田を獲るべき"と推したのは、それに依る。)

横浜高での鍛練の貯金は、2度のWBCのMVP受賞とワールドシリーズ制覇で尽きた。西武時代は5回で100球投げてても完投していたが、メジャーではキチンと契約までに取り決めてなければ、加味されない。投げ込み禁止のメジャーでは、コントロールもキレも磨けず、トレーニング嫌いランニングしないツケがタマり、肩ヒジ手術し放出された。

本人はわかっていたろう。4年12億提示を3年12億にリクエストした上でソフトバンクへ移籍、NPBに戻った。まるで、一昔前の食わせもの外人みたく、1軍で1試合も投げずに12億儲けた。

反省のなさは、あのカラダつきに現れていた。

中日で1年投げた。上体を揺すって力感出すが、タマは御辞儀していた。数勝しただけでカムバック賞!翌年はオバチャンに触られたからだと、ヤクザの因縁付けみたいに、肩の負傷を噴いて、キャンプを無断で離れアメリカへ行ったりした。投げる気のなさはミエミエだった。

そのザマを中日以外の球団も見ていた。岩隈を獲得した巨人すらオファーせず、西武に戻り、1年鎮座して引退した。

 

 

 

 

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まさに伝説...「〇〇の怪物」の系譜(2)最強世代を牽引した日本のエース
4/22(金) 11:51 Yahoo!ニュース
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”怪物”と呼ばれる選手たちを振り返る【産経新聞社提供】
 千葉ロッテマリーンズの佐々木朗希投手が10日、オリックス・バファローズ戦に先発登板。高卒ルーキーの松川虎生捕手とバッテリーを組み、28年ぶりとなる完全試合を達成した。さらに快進撃は続き、17日の北海道日本ハムファイターズ戦でも8回完全投球。身体への負担を危惧するベンチの判断もあり、2試合連続の偉業はお預けとなったが、プロ3年目を迎えた“令和の怪物“が、驚愕の投球を続けている。

【写真】NPB最高のタイトル選手は?<投手編>

 プロ野球史を振り返ると、昭和、平成にも“怪物”の異名を取った投手がいる。今回は彼らにフォーカスし、その活躍を振り返っていく。

“平成の怪物”
 
現役時代の松坂大輔。【産経新聞社提供】
松坂大輔(まつざかだいすけ)
投打:右投右打
身長/体重:182センチ/92キロ
生年月日:1980年9月13日
経歴:横浜高
ドラフト:1998年ドラフト1位
沢村栄治賞:1回(2001年)
〇新人王(1998年)
最多勝:3回(1999-2001年)
最優秀防御率:2回(2003-04年)
最多奪三振:4回(2000-01、03、05年)
ベストナイン:3回(1999-2001年)
〇ゴールデン・グラブ賞:7回(1999-2001、2003-06年)
カムバック賞(2018年)
オールスターゲーム出場:7回(1999-2001、04-06、18年)
シドニーオリンピック出場(2000年)
アテネオリンピック出場(2004年)
ワールド・ベースボール・クラシックWBC)出場:2回(2006、09年)
※タイトルはすべてNPB時代に受賞。

 “平成の怪物”として球界を席巻した松坂。横浜高3年時には、数々の激闘を制して春夏連覇を達成。特に夏の甲子園勝戦では、無安打無得点試合(ノーヒットノーラン)で有終の美を飾る偉業を成し遂げた。その圧倒的な活躍から、同世代の選手は「松坂世代」と呼ばれることとなる。

 大きな注目を集めたドラフト会議では、3球団(横浜・日本ハム・西武)競合の末に西武へ入団。150キロを超える速球、切れ味抜群のスライダーを武器に高卒1年目から開幕ローテーション入りを果たし、16勝5敗、防御率2.60をマーク。いきなり最多勝ベストナイン、ゴールデン・グラブ賞、新人王に選出される鮮烈デビューを飾った。同年から3年連続最多勝を戴冠。特に01年には、33試合(240回1/3)を投げ、15勝、214奪三振防御率3.60、完投数もリーグ最多の12(うち2完封)を数え、沢村栄治賞などに輝いた。その他にも、8シーズンで最優秀防御率2回(2003、04年)、最多奪三振4回(2000-01、03、05年)を獲得し、04年には日本一の立役者に。06年シーズン前に開催された第1回WBCでは、エースとして日本代表を世界一に導き、大会MVPを受賞。国際大会でも十分な実績を残し、同年オフに満を持して海を渡った。

 争奪戦の末、6年総額5200万ドル(当時約61億1000万円)でレッドソックスと契約。メジャーリーグでも初年度から躍動した。同年のレギュラーシーズンでは、防御率4.40ながら15勝、201奪三振の成績で、地区優勝に大きく貢献。ポストシーズンでも日本人初勝利を含む2勝(リーグチャンピオンシップシリーズ1勝・ワールドシリーズ1勝)を挙げ、いきなりチャンピオンリングを手にした。翌年には18勝3敗、防御率2.90をマーク。09年に開催された第2回WBCでも連覇の原動力となり、2大会連続MVPを受賞した。しかし、同年のレギュラーシーズンでは成績不振に陥ると、その後は2桁勝利に届かず。14年オフにソフトバンクと3年契約を結び、日本球界復帰を決断した。

 ソフトバンク時代は度重なる故障に泣き、3シーズンでわずか1試合の登板。期待に応えることはできなかったが、18年に中日へ移籍すると、ツーシームカットボールなど動くボール主体の投球へモデルチェンジ。11先発で6勝を挙げ、カムバック賞を受賞した。その後は再びけがに苦しみ、20年に古巣・西武へ14年ぶり復帰。昨季限りで日米通算23年間の現役生活を終えた。

 NPB通算成績は、219試合(1464回1/3)を投げ、114勝65敗1セーブ、1410奪三振防御率3.04。

 MLB通算成績は、158試合(790回1/3)を投げ、56勝43敗1セーブ3ホールド、720奪三振防御率4.45となっている。
ベースボールチャンネル編集部

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