松坂大輔、全盛期はいつ?プロ1・2年目!

松坂大輔、全盛期は本来プロ入り1・2年目だった。横浜高渡辺監督から、ありとあらゆる練習を課され、走らされた。指導者は甲子園制覇した経験から、必要な足腰鍛練度合がわかっているが、松坂大輔にとってはやらされたシゴキでしかなかった。

だから、結果が出ている選手には日本一甘い西武の練習に甘え、怠惰に過ごした。カラダの乱れはココロの乱れ、ココロの乱れはカラダの乱れ。柴田倫世のマンション前にセルシオ放置しヤりまくった末、駐車違反でレッカーされると堤オーナーの"日本のヒーロー"黒岩彰を替玉出頭させる腐りようだった。

渡辺監督下で鍛練し、上地のサイン無視などで敗退の末、高3で甲子園春夏制覇した。最後の夏決勝、京都成章戦はしなやかな力みないフォームから、ストレート・カーブ・縦/横スライダー・シュート・フォーク・チェンジアップの全球種と抜群のフィールディングで、ノーヒットノーランまで達成した。そのしなやかさが残ったプロ1・2年目が、カレの全盛期だった。

以後は、MLB志向を前面に出した、力押しピッチング。足腰から肩ヒジへ、高校時代の鍛練したカラダの貯金は、徐々に尽きて行き、第2回WBCで底をついてしまった。肩ヒジ手術し、MLBをお払い箱にされ、投げられないのに王会長をダマくらかし12億踏んだ食った。中日と西武の5年は利息みたいなモノだ。

高校時代から鍛練の恩恵を一番受けたヒトなのに、その価値を自覚せず食いツブした。

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18歳なのに“プロ野球で敵なし”状態…松坂大輔の全盛期はいつだったのか? 21歳の沢村賞に反対の声も…「あの日、選考委員が語っていたこと」
9/24(日) 11:02 Yahoo!ニュース
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1999年12月、プロ1年目を終えた契約更改時の松坂大輔 photograph by JIJI PRESS
 球史に残る大投手の「生涯ベストシーズンの成績」を比較して、日本プロ野球史上No.1投手を探る旅。沢村栄治江川卓野茂英雄らに続く第13回は、“甲子園史上最強投手”松坂大輔(西武-レッドソックス他)だ。当企画の現チャンピオン・山本由伸と比較した。

【画像】「えっ、トム・クルーズと松坂が会話してる…」「結婚会見ツーショットでデレデレの松坂さん」伝説的ピッチャー・松坂大輔の“知られざる姿”(WBC優勝会見で一人だけ私服…)を一気に見る

「甲子園史上最強投手」に松坂大輔を上げる人は多いだろう。実際、Number Webが今年8月に実施したアンケート企画「あなたが選ぶ夏の甲子園“史上最強ピッチャー”」でも、3位の江川卓(作新学院)、2位の桑田真澄(PL学園)に大差をつけて、1位に選ばれている。

甲子園で激闘後…じつはボウリング場で遊んでいた
 思えば横浜高時代の松坂は、記録にも記憶にも残る“怪物”だった。高校2年夏の神奈川県大会。横浜商業との準決勝で、自らの暴投で9回裏に逆転サヨナラ負けを喫して「3年生たちに申し訳ない」と号泣。それ以来、「これから僕の投げる試合では絶対に負けない」と奮起して、2年秋の新チーム結成から3年秋に引退するまでの秋季神奈川県大会、春の選抜、夏の甲子園、秋の国体と、最終学年を無敗で走り抜けてみせた。

 この間の横浜高の公式戦44連勝中、松坂の登板は37試合で、32勝0敗、投球回270、奪三振324(奪三振率10.8)、防御率1.13という圧倒的なものだった。

 これらの数字は江川が残した高校公式戦通算成績、44試合登板、33勝6敗、投球回354、奪三振531(奪三振率13.5)、防御率0.41と比べても、奪三振では後れをとれど、6敗した江川に対して“負けない投手”という点では圧勝している。

 3年生の春の選抜を制した松坂は、無敵の150キロ超投手として大きな注目を集めて登場した夏の甲子園で、PL学園との延長17回250球の熱投、翌日の明徳義塾戦8回6点ビハインドからの大逆転、そして翌日の決勝・京都成章戦でのノーヒットノーランという“平成の怪物による奇跡の3部作”を演じきって春夏連覇を達成したのである。

 筆者もリアルタイムでこれらの試合を見ていたが、酷暑の中での連投で疲労困憊のなか、気力を振り絞っての力投とばかり思っていた。全国の高校野球ファンも同じように見ていたに違いない。ところが、実際は違ったようだ。

『夢を見ない男 松坂大輔』(著・吉井妙子/新潮文庫)によれば、松坂はPLとの激闘後、チームメイトたちとボウリング場に遊びに行ったという。さすがに左手で投げたそうだが……。

ジムで出した「異常な数値」
 最終学年になった松坂は、巨人のクロマティや大相撲の曙も通っていたジム「ライフ・サイエンス・ラボラトリー」に週3ペースで通い、基礎的な体力を鍛えていた。このジムは独自の方法で個人の運動能力を数値化しており、一般の男性の数値が300で松坂は通い始めたころは480。それが3年の終わりには7000に達して曙の5500を遥かに上回っていたという(同上『夢を見ない男 松坂大輔』より)。

 大谷翔平や佐々木朗希などに比べれば体格に恵まれているとは言えないが、松坂の肉体はやはり怪物的だったのだ。奇跡の3部作は、作られるべくして作られたといえるかもしれない。

 甲子園の優勝投手は大成しないとよく言われるが、松坂は違う。ドラフト1位で西武に入団して以降も快進撃を続けた。

高卒1年目の成績がスゴかった…
 新人の開幕当初からローテーション入りして、その年16勝5敗で最多勝ベストナインゴールデングラブ賞、新人王を獲得。高卒新人の最多勝は、1954年の宅和本司(南海)以来45年ぶり、高卒新人のベストナインは史上初、高卒新人投手の新人王も堀内恒夫(巨人)以来33年ぶりというプロ野球史に残る活躍だった。

 松坂の偉業を振り返る際に頻繁に使われる、日本ハムの3番・片岡篤史が高めの155キロのストレートを空振りして片ひざをつく映像は、プロ初登板となる1999年4月7日の初回に記録されたものだ。

 さらに、当時オリックスプロ野球最強打者・イチローとの初対決で3打席連続三振を奪って「プロでやれる自信から確信に変わりました」の名言を放ったのが、同じく1年目の5月16日。これらのシーンを見ていた野球ファンは「この投手が去年の夏の甲子園で投げていたのだから、高校生に打てるわけない」と納得したものだった。

日本シリーズWBCワールドシリーズ…すべて制した男
 松坂は、その後もプロ入り以来3年連続最多勝を獲得するなど活躍を続け、日本のエースとして2004年のアテネオリンピックで銅メダル、2006年と2009年のWBCを連覇して2大会連続のMVPに選ばれている。

 加えて、2004年に西武で日本シリーズ優勝、2007年にレッドソックスワールドシリーズ優勝と、甲子園、日本シリーズMLBワールドシリーズWBCを制した史上初の投手となった。 

ベストシーズンを山本由伸と比較
 そんな松坂は、果たして「日本プロ野球史上No.1投手」といえるのか。生涯ベストシーズンの成績を比較して決める当企画。現チャンピオン山本由伸(オリックス)との対決である。

 松坂のベストシーズンは、レッドソックスに移籍する直前の2006年だ。この年の松坂は、自己最多の勝利数17、自己最高勝率.773、さらに防御率とWHIP(投球回あたり与四球・被安打数の合計)でも自己ベストを記録している。

 同年の成績を、山本のベストシーズンである2021年の成績と比較してみよう(赤字はリーグ最高、太字は生涯自己最高)。

【2006年の松坂】登板25、完投13、完封2、勝敗17-5、勝率.773、投球回186.1、被安打138、奪三振200、与四球34、防御率2.13、WHIP0.92

【2021年の山本】登板26、完投6、完封4、勝敗18-5、勝率.783、投球回193.2、被安打124、奪三振206、与四球40、防御率1.39、WHIP0.85

 1試合当たりの四球数は、松坂1.64に対して、山本は1.86と松坂がリード。松坂にはさほど制球力が優れたイメージがないので少し意外な結果だが、メジャーに移籍した2007年に204.2回で80四球(1試合当たり3.52)、2008年に167.2回で94四球(1試合当たり5.04)と数が増えている。このあたりにメジャーで苦戦した原因がありそうだ。

 当企画で重視する打者圧倒度――1試合あたりの被安打数、9イニングあたりの奪三振数、防御率、WHIP――を見てみよう。同被安打数は、松坂6.67に対して5.76の山本がリード。同奪三振数は、松坂の9.66に対して山本9.57と、こちらは松坂がわずかに上回る。

 防御率は、松坂2.13に対して山本1.39と山本が大きくリード。WHIPも松坂の0.92に対して山本は0.85と、山本の圧勝。これらの結果から、山本の王座防衛とする。

沢村栄治を連想した「あの姿」
 現役時代、鮮烈な印象を残した松坂だが、沢村賞の受賞は、プロ3年目2001年の1度だけ。しかも、この年の成績は15勝15敗の勝率5割、防御率3.60、WHIP1.25と、“文句なしの成績”ではなかった。選考委員会でも反対意見が出たが、当時の藤田元司選考委員長が「松坂の150キロを超える豪速球は沢村(栄治)さんを彷彿とさせる。将来の松坂に対する期待を含めて選んだ」とコメントしたとされる。

 事実、沢村栄治を実際に見たことのあるオールドファンの中から、高校時代の松坂を見て「雰囲気が沢村に似ている」と聞いた覚えがある。筆者自身、沢村栄治を調べる過程で「マウンドに立つ姿が誰よりも美しかった」という表現を何度も見ており、松坂から沢村を連想したことがある。とくに、1998年の夏の甲子園の準決勝・明徳義塾戦で4対6とリードされた試合の9回表、全国の野球ファンに感動を与えたあのマウンド姿に……。

 沢村の全盛期は17歳から20歳までの4年弱。松坂も夏の甲子園優勝が17歳、沢村賞を受賞したのは20歳のシーズンだった。

 沢村が戦死せずに戦後のプロ野球でプレーしたら。もしメジャーに行っていたら。沢村が戦死して55年後にプロ入りした松坂は、そんな想像を掻き立ててくれる存在でもあった。
(「プロ野球PRESS」太田俊明 = 文)
 
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