明日4/27カーグラ、高橋国光特集!

高橋国光、二輪でも四輪でも、日本と言わず世界と言わず活躍した、レーサーだ。

村上もとかのマンガ「赤いペガサス」でも、主人公赤馬研の父親が、オートバイ世界GPドイツ・ホッケンハイム優勝に喜び、オートバイを買い与え"レーサーになれ!"と言ったのが、レーサーを目指すきっかけになった。赤馬研の最初に乗ったSV007はコジマKE007に似ていた。SV01はKE009に、SV01改はロータス風、SV11はオリジナルっぽい。)

オートバイはホンダだったが、マン島で大ケガしたんだっけ?クルマの始まりは、ニッサンじゃなかった?KPGC10スカイラインGT-Rも、カレと共にあったハズ。F2やGCらでも活躍、富士の日本GPではタィレルで出たハズ。以後、グループCでは主にポルシェ959⇒962らでル・マンにも出走した。グループAで、R32スカイラインGT-Rが復活した時、カレもニッサンドライバーで走った。しかし、ホンダがNSXをレース使用する時点では、ホンダのドライバーとして、土屋圭一らと共に走り、ル・マンGT2で優勝した。以後、鈴木亜久里らとホンダのチーム監督をしていた。

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レース界のレジェンド・高橋国光さんを偲ぶ 国産初のF1を走らせたコジマエンジニアリング・小嶋松久氏が「国さん」を語った
4/27(水) 12:31 Yahoo!ニュース
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日本のレジェンド・高橋国光さん
 
写真左:KE008、右:KE009。1978年11月5日に鈴鹿で行われた全日本F2選手権で高橋国光さんが優勝したKE008と同型。
今年3月16日、日本の二輪、四輪レーサーとして、偉大な功績を残した高橋国光さんが逝去された。
高橋国光さんの輝かしい記録を挙げれば、数えきれないほどだ。

10代の若さで、日本を代表するオートバイレーサーの一人となり、1960年代前半にホンダのワークスライダーとして出場したロードレース世界選手権で、日本人初の優勝を飾った。
1964年には、四輪レーサーに転向し、日産のワークスチームである追浜ワークスに加入する。1977年F1日本グランプリへの出場をはじめ、海外レースも含めたさまざまなカテゴリーで活躍したことは周知のとおりである。

1978年11月5日に鈴鹿で行われた全日本F2選手権では、コジマKE008に乗り、優勝している。
高橋さんの訃報の後、KE008を造り出したコジマエンジニアリング代表・小嶋松久氏に、高橋さんの思い出を語っていただいた。レーサーとしての功績はもちろん偉大だが、高橋さんが際立っていたのは、その人格だったという。

コジマエンジニアリング・小嶋松久氏が偲ぶ「国さん」
 
1976年、日本で初めて行われたF1に出場したコジマエンジニアリング・小嶋松久氏。
(※以下は小嶋氏の言葉であるため、高橋さんは愛称の「国さん」と呼ばせていただきます。また、各選手のお名前も敬称略となっております)

小嶋氏―― 『僕は人間的にも、レーサーとしても、いろんな意味で日本のモータースポーツの世界の中に、「この人がいたから、ものすごく良かったな」というのは、国さんです。人間的にものすごく好きなタイプの人やったね。

国さんは1940年(昭和15年)生まれで、僕より4歳上。もちろん先輩やし、彼はロードレースで、僕はダートとモトクロスだから、オートバイ時代に一緒に走ったことはなかった。
自動車の時代になってから親しくなって、「KEのも乗ってみる?」っていうようなことになった。付き合いとしては、長谷見(昌弘)とか、星野(一義)とか、ガンさん(黒澤元治)などから比べたら、5年、6年ほど遅いと思う。

国さんが乗ると、クラッシュするまでペースを上げてしまう率が多かった
ウチでの勝率でいえば、長谷見や片山(義美)に比べたら、国さんは低かった。でもそれは、国さんの責任ではなく、ウチに優秀なクルマがあったときと、そうでなかったときがある。全体のウチのチーム力が不足やったから、負ける時期もあった。その時期にも、国さんは乗ってくれてたからね。

ただ、国さんが乗ると、クラッシュするまでペースを上げてしまう率が多かったよね。サーキットでテストしてるときも、最後は「破損テストしてるんちゃうんやから(笑)」って。ホンマは潰さないで持って帰ってきて、いろんなとこをチェックしたいんよね。それが、だいたい国さんは最後まで行ってしまう。ペースをどんどんどんどん上げて行ってね。
テストする以上は、ある程度限界まで出してあげないといけないという気持ちも、国さんの場合はあると思うね。

1978年、全日本F2選手権でKE008に乗りチャンピオンを獲得
 
完璧主義の長谷見選手。
これが長谷見の場合だと、メニューどおり、必ずっていっていいほど一つ一つのステップで結果を出して、次のテスト時間に入ることができた。
レースの前から京都まで来て、持って行くフォーミュラーに乗って、コックピットに乗って、ブツブツブツブツ言って、今度のレースにどうしよう、ああしようと。クルマから降りてきたら、事務所で「1回目はこれをやろう、2回目はこれをやろう、3回目もこれをやる。で、予選に入ろう」というサイクルをずっとやってたんですよ。
長谷見は典型的な神経質で、その通りのラップが出る。せやから、速いクルマをこしらえるということに関しては優れている。

それに比べたら国さんは、そこまで細かい打ち合わせをやったっていうレースは少ない。普段、遊びに来るとか飯を食いに来るとかはありますよ。しかし、レースの前の打ち合わせというようなことは、意外と少なかった。

それで、1978年にF2で国さんが初めてチャンピオンを獲った。KEのクルマを「スピードスター」っていうチームへ出したんです。一緒にメカニックも派遣して、それで勝ってくれました。

国さんの場合は一発勝負が多い。それが結果的にいいとか悪いとかよりも、行くとこまで行ってしまうわけやね。
でも、1977年のF1の後にケケ・ロズベルグ(1982年のF1ドライバーズチャンピオン)を呼んでタイヤのテストした時、国さんはケケと同じラップで走っている。ドライバーとしては速い人です。

100%マシンを自分のモノにしてしまってから勝負をやろうっていう長谷見と、ダメでも行くとこまで行くよというのが、国さんと片山だった。
その差っていうのは、長谷見と国さんの差やと思うね。

この人がいたから、モータースポーツの地位はものすごく上がったと思うのは国さんです
国さんはものすごくソフトで、後輩にもものすごく丁寧で、アドバイスをしなければならないことについては、ものすごくちゃんとアドバイスもする。
後輩の面倒見もそうやし、人間関係の付き合いをものすごい大事にする人だった。
この人がいたから、モータースポーツの地位はものすごく上がった。ああいう人材をたくさん育てていかないと、モータースポーツの人気は上がらないかなと思う人でしたね。』

4月12日、NPO法人日本モータースポーツ推進機構は、高橋国光さんに『旭日小綬章』が授与されることが決定したと発表している。
偉大なるドライバー・高橋国光さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。

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