未だに伝説!高校時代の江川卓。

初めて銚子商が関東大会で対戦する時、他校の監督から、「記録、作られない方がいいョ!」と囁かれたとか。今みたいな情報もなく、その時銚子商監督は全く意味がわかってなかったらしい。しかし、練習を見て血の気が引いた。パーフェクトゲームを食わないコト?!

確か、昔、雑誌numberに書いてあった話だ。ただ、当時、甲子園に限らず、野球放送はバックネットアングルからのカメラで、スゴさが伝わらなかった。

その後、野球放送がセンターバックスクリーンややレフト側からのカメラになり、タマ筋がわかりやすくなった。スピードガンの初速と終速の表示も出るようになった。

しかし、その頃の江川は、巨人入団までに法政大での4年間に肩を壊したり、怠惰な生活で太った上にクラウンからのドラフト指名を拒否し、更に1年遊んだ。挙げ句、巨人オーナーや船田代議士らを巻き込み、空白の1日騒動や金子コミッショナー契約却下に依る巨人ドラフトボイコット、阪神と巨人小林でトレードまでして、漸く入団できた。

出場停止明けた1年目、どんなモノかと見たら、ストレートが130キロくらい。キレイなストレートとカーブ。挙げ句に、王が先頭に立って「江川の試合は打たない!」をやった。

2年目、痩せて少し変わった。初回に135~140キロなのに、終盤に150キロ出した。大半はクルージング、要所に力を入れるスタイルと悟った。クルージングは悪く言うと手抜き、いつしかエガワる=三味線を引くと同義語になった。

クルージングのストレートでも素晴らしいストレートだった。良い投手のストレート、全力でなくても、3塁側や1塁側から見て、投手と打者の中間辺りから加速するように見える。それが、前に伸びたり、上にホップして見えたし、速くないストレートの方がより空気抵抗を受けてホップして見えた。

NPBどころかMLBにも少ない、トムシーバーのライジングファーストボールを見たような気がした。

もし、故障する前、高卒で阪急に入団していたら、カレの野球へ試合への取組方やチーム内での関係も違い、山田や足立を見習って野球に集中し、山口高志と競って高めストレート合戦をしたのではないだろうか?巨人V9を超える、阪急黄金時代が来たのではないのか?NPBにとっての、莫大な損失だったのではないだろうか?

 

 

 

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高校野球史上最高」18歳江川卓の怪物エピソード…甲子園で対戦した“九州No.1バッター”の証言「バットに当てる自信はありましたが…」
8/13(土) 6:02 Yahoo!ニュース
巨人で活躍した江川卓。「高校野球史上最高ピッチャー」ともいわれる作新学院時代を振り返る photograph by BUNGEISHUNJU
いまからおよそ50年前。作新学院江川卓は、記録にも、記憶にも残る異次元の投手だった。いかに圧倒的だったのか。当時対戦した打者の証言などから、“元祖・怪物”の正体に迫る。(全2回の後編/前編へ)

【この記事の写真】怪物が甲子園デビュー…スゴすぎた江川卓の投球カット&銚子商業に敗れてうなだれる姿、大学時代“原辰徳との貴重ツーショット”~プロ時代の写真まで、すべての記事写真を見る

全国の強豪校が「打倒・江川卓
 1973年(昭和48年)の春、「ヒットを打つのはもちろん、バットに当てるのすら難しい怪物投手」の出現を目の当たりにした全国の強豪校は「打倒・江川なくして全国制覇なし」と、江川対策に知恵を絞った。

 前年秋の関東大会で1安打20奪三振と完ぺきに封じられた銚子商業の闘将・斉藤一之監督は、江川を分析して対策を練った。その徹底ぶりは後にNHKにより「甲子園の怪物を倒せ!」というドキュメンタリー番組が作られるほどだった。

「天候的には曇天の日に一番力を発揮し、暑い日はやや力が落ち、雨の日は苦手」
「カーブを投げる時の腕の上げ方にクセがある」
「蹴り足の上がり方で力の入れ具合がわかる」

 同じ関東大会の決勝で16三振を奪われて完封された横浜の名将・渡辺元智監督は、「力には力で対抗するしかない」と、特注の重いバットを1日1000回振らせ、守備練習を削ってほとんどの時間を打撃練習に費やしたという。

 事実、打倒・江川で力をつけた横浜は、73年のセンバツで初の全国制覇を達成。銚子商業も74年の夏の甲子園を初制覇した。

 ちなみに、横浜の渡辺監督は、教え子である平成の怪物・松坂大輔と、高校時代の江川卓のどちらが上か問われて、こう答えている。

「江川ですね。高校時代の江川は、別格に凄いと思いました。松坂もキレ味がありましたけど、江川の場合は低めからグィ~ンとホップしてくる。合わないんですよ、バットが。カスらない」(松井優史「真実の一球」竹書房)

江川3年時の夏…栃木大会の伝説
 江川は3年の夏も、圧倒的な成績で栃木大会を制して甲子園出場を決めた。2回戦から登場して、この試合をノーヒットノーラン、21奪三振。3回戦もノーヒットノーラン、15奪三振。準々決勝は、1安打完封、15奪三振。準決勝、1安打完封、10奪三振。決勝戦は大会3度目のノーヒットノーランで14奪三振……。

 結局、5試合、44イニングを投げて、3試合がノーヒットノーラン、被安打わずかに2、失点0、奪三振75、奪三振率15.3という現実離れした数字で甲子園に駒を進めたのである。

 迎えた1973年夏の甲子園は、江川の登板日にはテレビの消費電力が跳ねあがって停電の恐れがあるとして、関西電力が大手企業に節電を呼びかける異例の事態の中で始まった。

初戦の相手は“異色の戦術”で挑んだ
 実際に対戦したバッターは、怪物をどう見たか――

 甲子園1回戦で江川擁する作新と対戦した柳川商業の4番打者、当時九州No.1スラッガーと言われた徳永利美氏(法政大-新日鉄八幡)に話を訊くことができた。

 徳永氏が初めて江川を見たのは、先述したセンバツ北陽戦だった。

北陽の有田も速かったが、江川はもっと凄かった。小倉捕手のミットに突き刺さるボールの速さとその響きは、いまも鮮明に覚えています」

 柳川商業は、徳永氏を除く全員がバントの構えからバットを出す「バスター」で江川に挑み、見る者を驚かせた。

「初戦で江川との対戦が決まり、松下電器から二人の“仮想・江川”に来てもらって特訓しました。一人は球が速く、一人は背が高かった。背の高い方の投手は、正規のプレートより2メートルくらい前から投げてもらいました」

「実際に打席で見た江川の球は…」
 バスターは、この試合で初めて使ったわけではなく、打撃の基本練習として日頃から取り組んでいたという。一人の投手を打つためにほぼ全員がバスターで臨んだというのはこの試合だけだったが、徳永氏だけは監督から『九州一の打者のプライドを持ってぶつかれ』と言われ、普通に打った。

「カーブはほとんど投げないので、最初からストレートだけを狙って打席に立ちました。バットに当てる自信はありましたが、実際に打席で見た江川の球は、それまでに体験したことのないものでした。監督からはベルトより低いボールを狙えと言われましたが、ホップしてくるのでつい高めの球に手が出てボールの下を振ってしまう」

 初打席は三球三振。それでも特訓の成果を出すべく「必ず打ってやる」と闘志をたぎらせた徳永氏だが、6回の第3打席で江川の全力投球を体験する。この回、2死一塁から3番打者がバスターで右中間を破る三塁打。柳川商業が1点をリードして、2死三塁のチャンスに徳永氏が打席に入った。

「ここで自分が打ってもう1点入れば、かなり有利になる。しかし、江川も追加点を与えないように、すべてストレートでこれまで以上の剛速球を投げ込んできたんです。高めの球に手が出てあえなく三振でした」

 結局、この試合は作新が7回に追い付いて延長戦になり、延長15回に柳川商業はサヨナラ負けを喫する。徳永氏は6打数で3三振、1安打。最終6打席目でストレートを引っ張ってライト前にはじき返した。

 徳永氏は、法政大学で江川とチームメイトになるが、一塁手として見守った江川は「よく高校の時の方が速かったと言われますが、高校はトーナメント、大学はリーグ戦ですからね。ここぞという場面で投げる球は速かったですよ」そう語ってくれた。

2回戦・銚子商戦。“江川が苦手とする雨”だった
 さて、江川からすれば柳川商業戦は、15回完投、7安打、3四球、1失点、23奪三振。バスターでボールに当てる戦略の相手打線に対して23奪三振はさすがだが、15回まで投げさせられたのだから、苦戦したのは間違いない。このように、未知の怪物に圧倒されたセンバツと異なり、多くのチームが“江川対策”をして、夏に臨んできたのだ。

 つづく2回戦で当たったのが、前年秋の関東大会で20奪三振と捻られ“打倒・江川”に燃える銚子商業だった。この試合も0対0のまま延長戦にもつれ込み、銚子商業が分析した“江川が苦手とする雨”、それも激しい雨が降る中、12回裏1死満塁から江川が痛恨の押し出しでサヨナラ負けを喫した。

 筆者は、この試合もテレビで見ていた。敗戦が決まった瞬間、雨の中、マウンドに立ち尽くす江川の姿を鮮明に記憶している。こうして、江川の夏が終わった。

高校時代のピークは2年時だったのか?
 最後に、極めつけの怪物伝説をひとつ挙げたい。

 高校時代の江川をずっと見続けてきた作新学院の関係者や、当時の作新と5試合を戦ったライバル・銚子商業の関係者などは、口を揃えて「高校1年秋から2年の秋季大会までの江川が一番速かった」と証言する。

 その要因に挙げられるのが、以下の点だ。

 ・江川の2年夏まで作新の監督を務めた渡辺富夫が、江川に徹底的にランニングをさせて下半身を強化するスパルタ指導を行ったために、もともと強かった地肩に鍛えられた下半身が加わり、非常にバランスがよくなった

 ・2年生までは、後ろで守るチームメイトが上級生なので、力を抜くことなく全力投球する場面が多かった

 つまり、全国の野球ファンを驚嘆させたあの「1973年センバツの江川」は高校時のピークではなかった、と。

高校野球史上最高の投手」の正体は、いまだに深い霧の中にある。
(「甲子園の風」太田俊明 = 文)

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