雑誌ナンバー、ちゃんと分析デキないのか?

報じるコトの難しさと言うとソレまでか?インタビューした内容をそのまま書き起こすなら、ソレはフツ~というか最低限だ。記事を書く者の分析はないのか?

投手のタマは、直球と変化球とに分類される。昔、MLBにT・シーバーという投手がいた。極度に強いバックスピンをかけた、ライザーボールというホップする変化球を投げていた。

ピンポン玉にバックスピンかけて投げると、ある程度の低さまでならホップするのと同じ原理だ。

江川卓のストレートは、直球のようで直球ではない。前へ強く速いバックスピンのかかったタマは、空気抵抗の受け加減により、前に伸びたりホップしたりシンクする。低めへ狙ったタマは下成分が勝りやや落ち、釣り合うと前方へ伸び、上成分が強いとホップする。緩急上下の変化球なのだ。

野球場で三塁側や一塁側から観た、投手の投げたスピンの利いたタマは、マウンドとホームの中間から、加速するような錯覚を起こす。

江川卓のタマは160キロ?物理的に出ているハズがない!日米見ても、最低限190センチ前後の上背と手足の長さ、踏み出し足の前方への速く広く強いステップ、ソレを補助する蹴り足の強さが要る。あと、スピン型リリースより射出型リリースの方が、スピード数値は出やすい。一番鍛練されていた高2頃でもムリだ。

もし、江川卓が高卒で阪急に入団して、山田久志足立光宏山口高志とチームメイトになっていたら、アンダースローオーバースローと本格派と技巧派の競演、また山口高志江川卓、全く質の違う高めストレートの競演が観られたのに。

今のトラックマンの回転数、アレは回転速度を推計しただけで、捕手までの回転を数えたワケではない。極短い計測区間の縫い目のズレを積分したモノだ。射出型大谷翔平とスピン型藤浪晋太郎の回転数が、現実に一緒のハズはない。

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江川卓のナゾ…“普通ならありえない”ストレートを受けた名捕手「本当にホップしていた」怪物が顔色を変えた“岡田彰布原辰徳”「伝説の対戦」
8/28(月) 11:06 Yahoo!ニュース
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怪物・江川卓はどんなボールを投げていたのか? 大学時代にバッテリーを組んでいた袴田英利が明かした photograph by JIJI PRESS
 高校野球の歴史には3人の“怪物”がいる。昭和の江川卓、平成の松坂大輔、令和の佐々木朗希だ。その異名を初めて浸透させた男は一体、どんなボールを投げていたのか。「プロの頃よりも速い」と言われる法政大学時代にバッテリーを組んだ袴田英利がNumber Webの取材に応じた。※敬称略。名前や肩書きなどは当時

【画像】「ありえないストレート…高校で160キロの声も」これが江川卓“リアルな投球フォーム”連続写真。「まるでアイドル」「貴重なツーショット」江川と対戦した原辰徳の大学時代と合わせて一気に見る(15枚)

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「理論上ありえないと言われますけど、本当にホップしていたんですよ。打者がベルト付近のボールだと思って振ると、浮き上がってくる。だから、高めのストレートを空振りしてしまう。3年の時が一番速かったかな。回転数が多くて、160キロぐらい出ていたと思います」

 法政大学で2年生の時からバッテリーを組んできた袴田英利江川卓のストレートをこう証言する。ロッテで村田兆治伊良部秀輝などの剛速球を受けてきた名捕手は、擬音で表現した。

「卓は打者の手元でパーンと伸びてくる。村田さんや伊良部も速くて重かったけど、ポーンと来るようなストレートでした。卓のような球質のピッチャーはいなかったですね。僕が見た中では、西武時代の岸(孝之)が調子のいい時、似たようなボールを放っていました。スピードがあまりなくても、バッターはすごく速く感じる。結構伸びていたんですよ」

「動けるのかな?」受験勉強後の江川
 作新学院高校の江川は“怪物”の異名に相応しかった。公式戦でノーヒット・ノーラン12回、完全試合2回。甲子園では3年春に2試合完封、計4試合で60奪三振。夏の初戦は23三振(延長15回)を奪った。栃木県大会では、相手チームがバットに当てるだけで歓声が上がるほど無敵だった。袴田が言う。

「そのままプロに入っていたら、すごい成績を残したでしょうね。本人は高校の時が速かったと言ってました」

 1974年、袴田は静岡の自動車工業高校から法政大学に入学。一方、中学3年の秋に初めて早慶戦を観に行った江川はその魅力に取りつかれ、阪急ブレーブスのドラフト1位指名を断り、慶応大学の法学部、文学部、商学部を受験。しかし、合格には至らず、同じ東京六大学リーグに所属する法政大学の法学部第二部に入学した。

「(川崎市木月の)合宿所で初めて会った時、だいぶ体が大きかったんですよ。これで動けるのかなと思いました」

 受験勉強のため5カ月以上も練習ができなかった江川は92キロまで増えていた。ベスト体重を8キロもオーバーしていたが、グラウンドに立つと怪物は健在だった。

「初めてキャッチボールをした時…」
「初めてキャッチボールをした時、徐々に離れていって遠投になりました。100メートルを超すと、助走なしでは放れない。でも、彼は勢いをつけないで簡単に投げました。これは凄いなと思いました」

 江川は体作りを優先するため、1年春は1試合の登板に終わった。しかし、秋は防御率1.14とほとんど打たれず、6勝を挙げてベストナインに輝いた。袴田は2年春からレギュラーになり、江川とバッテリーを組んだ。試合が終わると、『ドカベン』など数々の野球漫画を生んだ水島新司の家に足を運んでいた。

「卓が先生と親しかったんです。ビデオを見ながら、反省会をしていました。(キー局では)六大学野球のテレビ中継はあまりなかったのですが、テレビ神奈川では毎週放送していたんですよ。バッターの癖や配球について話しました」

ベンチの敬遠策を「拒否」
 袴田にはこんな記憶がある。2年の時、ベンチから敬遠のサインが出た。すると、江川が手招きでマウンドに呼んだ。

 江川:どうする? 
 袴田:どうするもなにも、おまえ敬遠したくないだろ。
 江川:しなくていいか? 
 袴田:いいよ。

 袴田はベンチに向かって、バツ印を作った。怪物には意地と自信があった。

「江川は得点圏にランナーを置いた時だけ三振を取りに行く。一度、水島先生に『初回からひたすら三振を狙ってみろよ』と言われましたけど、実行しなかった。完投しなきゃいけないので、初めからは飛ばさない。全球全力で投げたら9回持たないですからね。力を抜いてもボールの回転数は多いので、下位打線でも芯に当たるとホームランになるんですよ。その場面をピックアップされて“手抜き投法”と揶揄されましたけど」

「ライバル」の出現
 江川はストレートとカーブだけで野球人生を渡り歩いてきた――。そんなイメージが浸透している。だが、大学時代はシュートにも挑戦していた。編入試験に合格して第一法学部に移った3年春、こう話している。

〈今年は、昨年投げる投げるといって投げなかったシュートの多投を考えています。〉(※1)

 ストレートとカーブで通用していた江川にシュートの必要性を感じさせる打者が現れた。2学年下の岡田彰布(早稲田大学阪神)である。3年秋のリーグ戦、10月17日から優勝候補の法政と早稲田が対戦した。1回戦、岡田は初対決の江川から猛打賞を記録。そのうち2本が二塁打だった。

大学野球は1カード3連戦で、勝ち越したチームに勝ち点が与えられる。いつも卓は初戦に先発、2戦目はリリーフで準備、1勝1敗なら3戦目に先発しました。でも、この時は初戦に負けた翌日も先発したんですよ」

 2回戦、法政は袴田の2ランで先制すると、江川もレフトスタンドに放り込み、5回までに9対0と勝負を決めた。五明公男監督に「休むか?」と打診された江川は、「5回投げるのも9回投げるのも同じですから」と続投を志願。前日、痛い目に遭った岡田を4打数1安打2三振と抑え、完封を飾った。

 3回戦も先発した江川は岡田を3打数ノーヒットに封じ、1失点完投勝利。3連投3完投344球を放る力投で、早稲田との直接対決を制した法政は勢いに乗って2季連続優勝を決めた。

「卓は初戦の猛打賞が頭から離れなかったようで、岡田対策で『シュートに磨きをかける』と言ったんです。インコースに強かったので、シュートで詰まらせようと考えたのでしょう」

「卓は手が小さいんですよ」
 翌春のリーグ戦前、江川は自らの球種を〈ストレート、カーブ、それにシュートとドロップ気味のボール。この四種類です〉と話している。記者に〈シュートを投げる必要があるのか〉と聞かれると、〈いくらなんでもストレートとカーブだけでは打たれますからね。球種はあるぞ、と見せるんです〉(※2)と答えた。

 5月14、17日の早稲田戦で江川は岡田を計7打数ノーヒットに抑え、前年の借りを返した。このシーズン、登板8試合全て完投で8勝、防御率0.50と格の違いを見せ、法政は3季連続優勝を果たした。

「本人はシュートと言っていましたけど、あまり曲がっていなかった。岡田には普通の内角ストレートに見えたと思います。卓は手が小さいんですよ。(手の大きい)僕の第一関節がないくらいの指でしたから。だから、フォークも投げられなかった。カーブ以外の変化球を放れていたら、もっとすごかったと思います」

慶応の“温存策”にカチン
 大学時代、常に冷静沈着な“怪物”が怒りを露わにした試合があった。4連覇をかけた4年秋の慶応との1回戦、江川は打線の援護なく0対2で敗れ、3年秋から続いていた連勝が12で止まった。続く2回戦は5回から救援し、延長15回4対4の引き分けに終わった。後のない法政は3回戦も江川が先発した。

「慶応はこの試合に負けても、明日の4回戦に勝てばいい。さすがに江川の4連投はないから、ガラッとメンバーを替えた。主力を温存した作戦に『大学野球じゃない』と珍しくカチンときていましたね。結局、その日勝って1勝1敗1分のタイに持ち込んだ。(3連投で369球を投げた)卓は次の日投げませんでしたけど、ウチがなんとか勝ち点を奪いました」

伝説の江川vs.原辰徳
 江川は試合前から相手に白旗を上げさせていた。法政は4年秋もリーグ戦を制し、江川は六大学歴代2位の通算47勝を挙げた。3年春以降の4シーズンで防御率0.73、被本塁打は1のみだった。そんな怪物を本気にさせる選手が、大学最後の明治神宮大会で現れた。3学年下の原辰徳(東海大学→巨人)である。

 77年11月6日、決勝で江川と原の初対決が実現する。1年生の原は〈大学に進んだ一番の目標が江川さんに挑戦することだった〉と爽やかに話した。江川は〈明日はボクはいいですよ。ほかにもっと投手がいるじゃないですか〉と無関心を装いながらも、〈初対決は投手の方が打者より有利なんスよ〉(※3)と原への意識をのぞかせていた。

 晴天に恵まれた日曜日、神宮球場には4万3000人の大観衆が集まった。江川は1打席目こそキャッチャーフライに打ち取ったが、2打席目はストレートをレフトスタンドに運ばれ、3打席目はカーブを内野安打にされた。

「最後の4打席目、卓の顔色が違いましたね。三振取りに行くんだなと思いました。3球ともカスらせないほどの見事なボールでした」

 江川の殺気を感じた袴田は全てストレートのサインを出した。初球はど真ん中、2球目は外角、3球目は内角高めに決めて3球三振を奪った。完投で日本一に輝いた江川は試合後、〈最終打席の三振はねらっていた。やはり借りを返さないとね。〉(※4)と意地を窺わせた。

「あんなに手元で伸びる球は見たことがない」
「僕がプロでやっていけたのも、大学で卓のボールを受けていたからだと思います。あんなに手元で伸びる球は他に見たことがありません」

 伝説は時に誇張されがちだ。しかし、袴田は選手、コーチ、スカウトとして37年間もプロ野球に関わり、数多の投手のボールを受け、間近で目撃してきた。実直な性格の捕手が江川卓の球について「160キロぐらい出ていた」「本当にホップしていた」と証言した。

 この話をどう受け止めるかは、あなた次第である――。

※1 76年4月18日号/週刊ベースボール増刊
※2 77年4月10日号/週刊ベースボール増刊 一連の江川コメント
※3 77年11月6日付/日刊スポーツ。一連の江川と原のコメント
※4 77年11月7日付/日刊スポーツ
(「甲子園の風」岡野誠 = 文)
 
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