当時の時代背景や技術究明レベルを無視して、言い過ぎてない?

残念な理由?後で情報を集めれば、確かにそう言えるコトは理解する。しかし、当時の造船技術、色んな意味で情報は隠され、手探りで作っていたゾーンが多かったのではないの?

77年も経って、本人もいないトコで、設計に欠陥?単に、被雷した際の浸水に於いて、縦隔壁あるせいで、水が両弦に流れずバランスを取れないと言うが、それだけを以て欠陥と言うかな?

当時の日本海軍艦艇、小さな艦体の上部に多量多大な武器やデカい艦橋を艤装していた。上部構造物を支える土台たる艦体は、縦にも横にも支柱が必要だったのではないの?実際、左右各弦、細かい防水区画を区切り、ソコで浸水を止めるコンセプトで作っているから、浸水箇所の水を両弦に渡してバランスさせる気はサラサラなかった。むしろ、被雷したら、被雷してない側に注水してたくらいじゃん!

ただの船ではなく、軍艦なのだ。船として海に浮かんでいても価値はない。被雷被弾の浸水は防水区画で止め、反対側に注水してバランスを保ち、撃ち続けるコンセプトだというコトを忘れたら、評価を誤るのではないの?

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太平洋戦争中、日本の軍艦が次々と沈没していった「残念な理由」
8/15(月) 7:02 Yahoo!ニュース
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photo by gettyimages
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太平洋戦争では、じつは日本海軍の軍艦は致命的な欠陥を抱えていた。そのため魚雷攻撃に非常に弱く、いとも簡単に沈没していたのだ。これにより艦隊の編制に支障をきたし、戦艦大和の行動も制限されて、海軍が描いた勝利の方程式は崩壊したのである。
いったい日本の軍艦にはどのような欠陥があったのか? 歴史の謎を科学で解き明かして大好評を博した『日本史サイエンス』の第2弾を著した播田安弘氏が、終戦から77年を機に専門である船舶設計の知見をもとに喝破する。
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【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…!

「常套句」に隠されたもの
 太平洋戦争における日本の敗因は、そもそも米国と戦ったことだとは、よくいわれるところです。たしかに開戦直前の国力の差は、GNPで比べると日本は米国の約9%にすぎませんでした。これでよくも開戦したものと驚くばかりです。

 しかも、日本が乏しい国力を傾けて建造した戦艦大和は、ほとんど出撃しないまま終戦直前に沈没し、戦後になってピラミッド、万里の長城と並ぶ「無用の長物」と揶揄されました。そんなものをつくった海軍は時代遅れの「大艦巨砲主義」に陥っていたと非難され、ただでさえ不利なのにこれでは勝てるはずがなかった、などと総括されています。

 しかし私は、そうした常套句だけでこの戦争を語るのは、何か大事なものを見過ごすことになるように思われてならないのです。もとより歴史や軍事の専門家ではありませんので、戦略や戦術についてのくわしいことはわかりません。それでも船のエンジニアとしての立場から、指摘しておきたいことがあるのです。

世界を驚かせた「造船の神様」
 
世界初の本格的な空母「鳳翔」(ウィキメディア・コモンズ)
 太平洋戦争前の国内工業は、たしかにあらゆる点で欧米先進国より遅れていて、工作機械もすべて輸入品でした。しかし、進取の気性に富む海軍は、航空機時代の到来を世界に先駆けて予見し、1922(大正11)年には航空母艦「鳳翔」を完成させました。これは世界で初めて設計段階から空母をつくる目的で建造された、本格的空母でした。

 さらに山本五十六連合艦隊司令官は海軍航空隊まで設立し、ほとんどの国がまだ航空機の効能を軽視していたなかで、確信をもって飛行訓練を重ねていました。そもそもは、日本の海軍は「大艦巨砲主義」ではなかったのです。むしろ、当時は米国や英国のほうが多くの大型戦艦を建造していました。世界が航空機の重要性に気づいたのは皮肉にも、日本がのちに真珠湾攻撃と、続くマレー沖海戦で大勝利をおさめてからでした。

 1922年、第一次世界大戦戦勝国である米英仏伊日の戦艦建造競争が過熱してきたため、ワシントン海軍軍縮条約によって戦艦保有規模が制限され、日本は米英の6割に抑えられました。そこで日本海軍はやむなく、巡洋艦駆逐艦などの補助艦に活路を見いだす方針を打ち出します。巡洋艦とは、戦艦よりは小さくて速度がある中型の軍艦で、駆逐艦は、さらに小型で俊敏な艦です。

 翌1923年に完成した「夕張」は、排水量3100tと小型ながら、14 cm砲6門、61cm連装魚雷発射管2基を搭載し、なんと速力は34ノットと、5500t型巡洋艦と同等の戦闘能力を装備した画期的な巡洋艦でした。

 公開された夕張を見た各国の海軍関係者は、巡洋艦設計の概念を根本から覆す構想と、その工法に大きな衝撃を受けました。これにより、「夕張」を設計した造船中将・平賀譲の名は一躍、世界に知れわたったのです。平賀はまた、「古鷹」でも、世界で初めて戦艦並みの20cm砲を巡洋艦に搭載してみせました。

 しかしワシントン条約以降は巡洋艦の建造競争が過熱したため、1930(昭和5)年のロンドン海軍軍縮条約によって、巡洋艦排水量や砲の口径を基準に保有数を制限することになり、制限の対象となるものは重巡洋艦、それ以下のものは軽巡洋艦と呼ばれました。

 それでも平賀は、条約による制限のもとで精魂込めて、小型の巡洋艦でも1クラス上の巡洋艦と同じ性能や砲力をもたせようと、特異な設計をして世界を驚愕させつづけました。平賀は「造船の神様」とも呼ばれ、まさに伝説の設計者となったのです。

 なお、『アルキメデスの大戦』には、平賀をモデルにした平山忠道造船中将が登場し、戦艦大和をみずから設計して主人公の櫂直と対立しますが、実際の平賀は大和の設計には指導や助言をするのみだったようです。

 のちに東京帝国大学の総長もつとめた平賀を、私は船舶設計者としても、人間としても非常に尊敬しています。しかし、これから述べようとしているのは、そのような「神様」にも過ちがあったという話です。

巡洋艦に入れられた縦隔壁
 
写真:現代ビジネス
 太平洋戦争で、なぜ日本の巡洋艦駆逐艦が魚雷攻撃に対して異常に弱かったのか。それは、これらには構造上、きわめて大きな欠陥があったからです。そして巡洋艦の欠陥は、平賀の設計に原因があったのです。

 日本の巡洋艦の内部には、船体の中央を縦に走り、左右を隔てる縦隔壁が入っていました。米英の巡洋艦には、そのようなものは入っていません。巡洋艦をとことん軽量化しようとした平賀は、そのために艦を縦に折り曲げようとする力に対する曲げ強度(縦強度)が不足することを懸念し、その対策として縦隔壁を設けたのです。しかし、これは非常に危険な構造でした。

 艦が側面に魚雷を受けて浸水した場合、縦隔壁があると、水が艦の両側に流れず、片舷のみが浸水します。すると横傾斜が大きくなり、復原力が急速に消失して、横転沈没しやすくなるのです。横転には至らなくても、横傾斜すると砲が撃ちにくくなり、速度も低下するので敵に撃沈される危険が高くなります。

 「神様」の設計に対して畏れ多いことですが、縦隔壁を入れたことには大いに疑問があります。というのは、船体の曲げ強度は、縦隔壁を入れても大幅には増加しないからです。

 土木建築の柱、梁、杭などに広く使われているI型鋼は、上下の水平部材と、縦の垂直部材の組み合わせですが、曲げ強度を増やすには垂直部材を厚くしてもあまり効果がありません。しかし水平部材を厚くすれば、曲げ強度は非常に大きくなります。

 したがって巡洋艦の曲げ強度を増やすには、縦隔壁を入れずに甲板と船底を厚くすべきだったのです。縦隔壁を入れたことは、平賀の致命的な設計ミスでした。縦隔壁がなかった米英の巡洋艦は、魚雷を受けても沈下はするものの、横転することはありませんでした。

 太平洋戦争において沈没した日本の重巡洋艦と、その原因を表に示します。艦名を太字にしたものが、縦隔壁が原因とみられる沈没です。戦前、海軍では沈没は砲撃によるものが最も多くなると想定していましたが、それは11%にすぎず、じつに18隻中13隻、約72%が、航空機や潜水艦からの魚雷攻撃による横転沈没だったのです。

 なお、検証しきれていませんが縦隔壁は空母にも入っていましたので、同じ問題があったと思われます。だとすれば、それが多数の空母、そして航空機の喪失につながり、さらには制空権を奪われる原因ともなった可能性があります。

駆逐艦の動力系配置
 
写真:現代ビジネス
 もう一方の駆逐艦における問題は、平賀の設計ではありません。それはボイラー室とタービン室の配置にありました。ボイラーとは燃料を燃焼させて熱エネルギーをとりだす機関で、タービンは熱エネルギーを回転エネルギーに変えて動力を生みだす機関です。この二つは船の動力系で、いわば心臓部です。

 日本の駆逐艦は、タービン室が2室連続し、そのあとボイラー室が2室連続するという基本構造でした。つまり、機能ごとに連続配置したのです。この配置では、機能が同じ2室の間に魚雷攻撃を受けたときは、両側2室とも浸水し、ボイラーあるいはタービンの機能は完全に失われます。つまり動力系が停止し、艦は動けなくなります。

 これに対して、米国の駆逐艦はタービン室、ボイラー室、タービン室、ボイラー室と交互に配置していたため、どこかの2室が浸水してもどこかは残るので、動力は低下するものの艦は動くことができたのです。その差は生死を分けるものでした。

 コストを考えれば、日本の駆逐艦のように区画ごとに機能をまとめるほうが、工事は容易で費用も安くすみました。機能を互い違いにすると、どうしても工程が煩雑になるからです。

 しかし米国の設計思想はそもそも、損傷したときにいかに被害を小さく抑えるかというダメージコントロールを重視していました。この違いが結果的に、太平洋戦争での1等駆逐艦の沈没数が日本は128隻、米国は71隻という差となって現れたのです。

駆逐艦は見直されたが…
 
レイテ沖海戦に出撃する艦隊。右から戦艦の長門、武蔵、大和、重巡洋艦の摩耶、鳥海、高雄、愛宕、羽黒、妙高といわれる(ウィキメディア・コモンズ)
 太平洋戦争における海軍の基本戦略は「アウトレンジ作戦」でした。国力が違いすぎる米軍とは四つには組まず、前哨戦で戦力をできるだけ削ってから艦隊決戦に持ち込み、リーチの長い大型戦艦で遠くから決定打を放つという構想です。大和が建造されたのは、そのためでした。

 ところが、大和の周囲を固めるべき巡洋艦や空母、駆逐艦などが欠陥によって次々と沈められ、艦隊決戦を挑む前に艦隊の編制が難しくなっていったのです。

 1944(昭和19)年10月のレイテ沖海戦は、敗色濃厚となった終戦前年にようやく訪れた、艦隊決戦の機会でした。しかし結局は、武蔵ほか戦艦3隻、重巡洋艦6隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦9隻、空母4隻が沈没し、帝国海軍はこれをもって事実上、壊滅しました。

 さきほど表に掲げたように重巡洋艦では「愛宕」「摩耶」「鳥海」「筑摩」の沈没と、「妙高」「那智」「熊野」「青葉」「高雄」の航行不能は、縦隔壁が原因と思われます。大和はついに艦隊決戦を戦うことが不可能となり、ここに海軍の基本戦略は完全に潰え去ったのです。

 じつは、その少し前に、駆逐艦はあまりにも沈没が多いことから遅まきながら設計が見直され、米国のようにボイラー室とタービン室を交互に配置した松型駆逐艦がつくられました。コストを切りつめた二級品でしたが、魚雷攻撃への耐性はかなり高くなり、「これで生きて帰れる」と乗員には好評だったようです。

 巡洋艦にも欠陥があることに、誰も気づいていなかったとは考えにくいところです。しかし、「神様」が入れた縦隔壁が撤去されることはありませんでした。私はあの戦争には、こうしたことがいくつも積み重なっていたような気がしてなりません。そして、同じようなことは戦後75年以上たったいまも、あちこちで起きているように思われるのです。
播田 安弘

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