前田健太までトミー・ジョン手術になるとは・・・。

前田健太、高校時代PL学園だったハズだが、桑田真澄らのように甲子園で勝ち抜いた投手ではなかった。

大所帯野球部でのエースとして勝ち抜く上でかなりのトレーニングを積んでいたが、ソコまで使い減りはしてなかったハズ。

元々のピッチングスタイルとして、桑田真澄らもそうだが、ストレートとカーブとスライダーがメイン球種、目先の空振り欲しさにフォークを乱投したりしない。

野茂英雄を筆頭に、NPBからMLBに行った投手達、皮革の加工が悪くて滑りやすく、縫製技術が低くて縫い目が高く、製球技術が低くて重量マバラでキレイな球体でないコトもある粗悪球ローリングスボールをコントロールしつつ目先の空振りを取るため、軒並フォークを多投し、ヒジの腱断裂を起こしてトミー・ジョン手術を受けた。

それは、日本でフォークを武器にしていた野茂英雄大魔神らに限らず、和田毅藤川球児前田健太までトミー・ジョン手術のお世話になった。

カレらは、MLBに移籍した時点で、NPBでもやってないパワーピッチを、ムリヤリやってしまっているのではない?重量マバラなボールを、日本並の球速で投げるのもヒジに負担の来る話だが、MLBに来たからと日本以上のスピードを出し、日本より練習やトレーニングしない環境で、週イチの日本より短い中4日インターバルで投げるコトが効いているのではない?

 

 

 

 

 

 

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カープ・エースの魂を考える~ 「エグい!と思った」・・・海を渡った天才エース・前田健太【2020年・再録記事】
6/27(火) 12:02 Yahoo!ニュース
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6月23日(現地時間)のデトロイト・タイガース戦で復帰登板を果たし678日の勝利投手となった前田健太(写真は2010年撮影)
 2023年6月16日、カープ球団初の200勝投手であり、コーチ・野球解説者としても愛された北別府学氏が旅立った。“精密機械”と呼ばれる抜群のコントロールカープ投手王国を支えたエースの訃報に、多くのファン、関係者は悲しみに暮れた。

【写真】20世紀最後の200勝投手となった、故・北別府学

 ここでは、北別府氏の魂を受け継ぐカープの“エース”たちのインタビューを再編集して掲載する。(初出は広島アスリートマガジン2020年6月号)

◆背番号18の重圧を力に変えて

 前田健太が背番号34を背負っていたルーキー当時の2007年、チームには18年目の大ベテラン・佐々岡真司、絶対的エース・黒田博樹と新旧のエースが在籍していた。そして、2007年限りで佐々岡は引退、オフに黒田はメジャー挑戦を決断。カープ投手陣は急速に世代交代が進み始めていた。

 新たなエース育成が急務となった球団は、一軍登板経験のない高卒2年目の前田に、佐々岡が背負ってきたエースナンバー・背番号18を託した。ここから前田はエースへの道を歩み始めることになる。

「『エグい!』と思いました(苦笑)。背番号が変わるということも1ミリも考えていなくて。しかも18番。でも光栄ですね。僕もその意味は分かっていますし、来年こそやってやる、という気持ちが強まりました。自覚を持ってやらないとダメだと思うし、この番号をもらったことが良い方向に行くと思います」

 負けん気が強く、底抜けの明るさを持つ19歳の若武者は、背番号変更に重圧を感じることもなく、むしろ意気に感じていた。当時のカープは低迷期の真っ最中。投手陣の精神的支柱・佐々岡、エース黒田が抜けたことで大幅な戦力ダウンが懸念されていた。だが、プロ2年目を迎える直前の前田はどこまでもプラス思考だった。

「(佐々岡、黒田が抜けたことを問われ)やっぱりチャンスだと思います。上の人たちはチーム事情が気になると思いますが、自分たち若手としてはチャンスですから。口では寂しいですと言っても、心の中ではチャンスだと思っています(笑)」

 そして迎えた2008年、序盤から一軍で先発の機会を得た前田の初勝利は6月の日本ハム戦。7回2死まで無安打の快投でプロ初勝利をマーク。お立ち台では「初めまして! 前田健太です!」とファンに挨拶するなどインパクト抜群のデビューを飾った。そして後半戦からは完全に先発ローテに定着し、9勝を記録。背番号18・マエケンの名は完全にファンに認知された。

 前田が頭角を現す中で印象的な勝利が2つある。旧広島市民球場最後の公式戦ではプロ初本塁打を放つなど旧市民球場最後の勝利投手に。翌2009年にはマツダスタジアムでのカープ初勝利試合で完封勝ちを収めた。節目での印象的な活躍は新たなスター誕生を予感させるものだった。

◆広島から、世界のマエケン

 プロ3年目にして先発の柱へと成長した前田が大ブレークを果たしたのが2010年。シーズン前に目標をこう語っていた。

「何でも良いのでシーズンが終わった後にタイトルを手にしていたいですね。そうすれば気持ち的にも、投手としてのイメージも全然違うと思います」

 前田は発言を現実のものとした。当時先発1番手であった大竹寛(現巨人)がケガで出遅れ、自身初の開幕投手を託されると見事勝利で好スタート。その後5月に月間MVPに輝くなど、前半だけで初の二桁勝利を記録。オールスターにはファン投票両リーグ最多得票で初出場を決め、マエケンの名は全国区になった。最終的に15勝8敗、防御率2.21、奪三振174で史上最年少、球団史上初の投手三冠を獲得。さらに沢村賞にも輝き、一気に球界を代表する投手に上り詰めた。

 自身初のノーヒットノーランを達成した2012年には自己最高の防御率1.53で2年ぶりの最優秀防御率のタイトルを獲得し、3年連続となる200イニングをクリア。さらに2013年WBC日本代表に選出され、侍ジャパンのエースとして活躍。大会公式ベストナインにも輝き、その名を世界に轟かせた。だが、カープが低迷期を抜け出せない責任を誰よりも感じていた。

「僕もみんなも優勝したいし、CSに行きたいと思っているんですけど、どんな感じなのか分からないんです。その経験があるかないかはモチベーションの違いに出てしまうので、そろそろ経験しておかないといけないと思います。いくら良い経験をしても、CSに行けなければ、ただ悔しいだけで良い経験とは言えません。でも、1回でも行けば何かが変わると思うんです」

 2013年、チーム成績と比例するように前半こそ苦戦したものの、後半戦に快進撃を見せた。前田はCS争いの中で後半に8連勝とまさにエースとして奮闘。球団初のCS進出に大きく貢献した。そしてオフの契約更改ではメジャー挑戦の意向があることを表明。投手として充実期に入った前田はかつてのエース・黒田と同様に一人の投手としてさらなる高みを目指していた。

 前田の日本最終年となる2015年には黒田がカープに電撃復帰。エースとして黒田と同時にプレーする機会がついに訪れた。

「僕が1年目のときは一軍で一緒にやることができなかったので、一軍で一緒にプレーできて光栄でした。黒田さんの野球に対する姿勢などいろいろ学ぶことができました。アメリカで長くプレーされた方なので、日本とは違う感覚も持たれていて、そういう話も聞くことができました。僕だけではなく、他の投手にも良い刺激をもたらせてくれる大きな存在でした」

 優勝が期待された2015年だがチームは4位に終わる。しかし前田は2度目の最多勝沢村賞に輝き、エースとしての意地を見せつけた。そしてオフ、ポスティングシステムを利用したメジャー挑戦を球団は了承。前田は世界へと旅立っていく。

カープを優勝に導けなかったことが僕の中では唯一の心残りです。このチームで優勝したかったし、広島でパレードをしてみたかったので……」

 奇しくも翌2016年、カープは25年ぶりの優勝を果たす。黒田が話していたように『マエケンが抜けた危機感』がチームを後押しした一面もある。それは前田が、周囲が認める絶対的エースだったという証明に違いない。
広島アスリートマガジン編集部

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