大谷の高校時代が挫折?美談本位に挫折と書くな!

さすが女性セブン!高校時代に甲子園に高2夏と高3春出たヒトを、挫折と呼ぶのか?甲子園未勝利が挫折?甲子園だゾ!全国大会だゾ!夏は県予選だけだが、春は地方大会もある。2度も出て、何が挫折だって?ライターとして名前も出せない運痴だろ!イヤ、運動でなくても、全国大会がドレだけ大変なコトか、勉強しかしてなくても文化部でも、わかって然るべきじゃないの?記事を書く上で、必要な理解はしておくべきだ。

早熟する必要はない?大谷翔平と佐々木監督は、チームの甲子園と個人の160キロ達成を目標設定した。高3夏こそ、県決勝で敗退したが、挫折が適切な言葉ではない。

言葉の使い方を考えるべきだ!

 

 

 

 

 

 

 

 

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大谷翔平“甲子園未勝利”の挫折を経験し精神的に成長 高校時代の恩師は「早熟する必要はない」と才能を育んだ
8/24(木) 16:15 Yahoo!ニュース
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ホームラン王争いを独走する大谷(時事通信フォト)
「ぼくの中では花巻東以外にはあり得なかったです」──菊池雄星に憧れ進路を決めた心境をこう語っていた大谷翔平。しかし、母校の校歌を甲子園で歌うことは叶わなかった。高校時代の苦い経験は大谷をどのように成長させたのか。

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 宮沢賢治の生誕地や「わんこそば」発祥の地として知られる岩手県中西部の都市・花巻市花巻空港から車で15分ほどの場所に、大谷翔平(29才)が高校時代を過ごした花巻東高校は位置する。

 慶應高校の優勝で幕を閉じた今夏の甲子園。惜しくも準々決勝で敗退したが、大谷の母校・花巻東高校の健闘も記憶に新しい。大谷が花巻東に入学したのは2010年の春。当時のあだ名は、細長いチョコレート菓子に由来する「トッポ」だった。

「入学時に身長は185cmを超えていたけど、体重は65kgくらい。選手としてはガリガリでそう名付けられましたね。“増量組”に指名され、余ったお弁当を2個、3個と食べさせられていました。

 翔平くんの姉と結婚し現在は義理の兄になっている当時の担任が、手足が長すぎて既製品が体に合わない翔平くんを見かねて、机と椅子の脚を7cm伸ばしたものを特注したことも知られています」(学校関係者)

 中学時代から県内では注目の選手だった大谷は、学業も優秀だった。

「全教科の平均で85点はとっていて、成績上位者として表彰されたこともあります。『授業中はあんまり興味なさそうに聞いているんだけど、テストでは90点近い点数をとるんだよな(笑い)』と話していた先生がいたのを覚えています。当然、校内では女子の注目の的で、歩いているだけでキャーキャーと黄色い声が上がっていました。でも、野球部は恋愛禁止だったし、翔平くんに彼女はいなかったと思いますよ」(前出・学校関係者)

 2年生に上がる直前の2011年3月、東日本大震災が地元・岩手を襲う。

「チームメートの中には実家が津波に流されるなどの被害を受けた仲間もいた。翔平くんは“岩手、東北を背負って戦う”と闘志を燃やし、室内練習場に震災の記事を貼って練習に励んでいました」(前出・学校関係者)

 だが、そんな大谷も、甲子園では思うような活躍はできなかった。初めて出場した2年夏は初戦で敗退。3年春のセンバツでは、初戦で藤浪晋太郎投手(現オリオールズ)擁する優勝候補・大阪桐蔭高校と対戦。大谷が打ち込まれ、2対9で惨敗した。3年夏は県大会の決勝で敗れ、甲子園の土を踏むことさえ叶わなかった。

 卒業後はメジャー挑戦を表明したが、土壇場で日本でのプロ入りを決断。注目されながら、聖地では輝けなかった高校時代から一転、多くの関係者が「無理だ」と口を揃えた二刀流を貫き、メジャーリーグへと飛躍していった。

坊主じゃない方が普通になる
 そんな大谷がいまも大事にしているのが、「先入観は可能を不可能にする」という言葉だという。この言葉を大谷に授けた人こそ、花巻東高校時代の指導者・佐々木洋監督(48才)だ。菊池雄星(32才)、大谷という2人のメジャーリーガーの恩師にして、花巻東を強豪校に導いた佐々木監督の担当科目は日本史。趣味は盆栽で、カラオケの十八番は浜田省吾だという。

「プロを目指して岩手県の公立高から国士舘大学に進学した佐々木監督ですが、2年生のときに当時は“戦力外通告”にも等しい退寮を命じられました。その経験から“夢を具体的な目標にする”ことの大切さに気づいたそうです。指導者になってからの経営学の知識を指導に生かす手法は斬新で、『革新的すぎて周囲が追い付けない部分もあった。勝海舟みたいな人』と評されたこともあります」(前出・学校関係者)

 今夏の甲子園では、慶應を筆頭に「坊主頭でない」球児たちの姿が話題になったが、花巻東も5年前に坊主頭をやめている。

「当時、佐々木監督は『5年後には坊主じゃない方が普通になる』と話していました。まさに時代を先取りする指導者で、選手を型にはめず、個性を伸ばす育成手腕は全国屈指と評判です」(アマチュア野球担当記者)

 佐々木監督の指導のもと、花巻東は2009年のセンバツ岩手県勢初の準優勝。夏の甲子園でもベスト4入りを果たす。エースだった菊池はドラフト会議で6球団から1位指名を受け、西武に入団。現在はブルージェイズで活躍中だ。

「大谷選手は3才年上の菊池選手に憧れて花巻東に入学しました。しかし、佐々木監督は『雄星みたいになりたい、ではダメだ』と言って、大谷選手に『雄星が6球団指名なら、お前は8球団だ』と菊池選手を超える目標を立てさせました。誰かを目指すとその下までしか届かない。先輩たちに憧れるのではなく、超えようと思うことが大切だというのです」(スポーツ紙記者)

6畳一間で一夜を明かした
 高校時代の大谷は未完の大器だった。

「同級生で春夏連覇した大阪桐蔭の藤浪選手に比べると、高校時代の大谷選手は粗削りの状態。下半身の強化が充分でないまま、160kmを投げていた。2年のときには股関節の痛みに苦しみましたが、そのとき佐々木監督は大谷選手を痛みの出ない打撃練習に専念させました。『早熟する必要はない』と、甲子園出場のために大谷選手を犠牲にすることは決してしなかった」(前出・アマチュア野球担当記者)

 当初は圧倒的に投手としての評価が高かった大谷だが、この時期に打撃力を大幅にアップさせる。

「大谷選手は二刀流を掲げて日本でプロ入りした当時から、メジャーでのプレーを目指してきました。ただ、当初はアメリカに行くなら投手だと本人も考えていたようです。それがいまやメジャーの本塁打王争いをする打者に成長しています。最近では、佐々木監督と食事をしても打撃に関する質問の方が多いそうです」(スポーツジャーナリスト)

 二刀流の道を切り開くうえでは、まさに“けがの功名”だった。また、渡米後は二刀流に懐疑的な声もある中、右肘の故障も経験する。

「大谷選手も相当悩んだようですが、高確率でいまよりもスケールアップできると判断し手術に踏み切ったそうです。これもけがと向き合い、実力を磨いた高校時代の経験が生きているのでしょう」(前出・スポーツジャーナリスト)

 逆境に遭遇しても努力を重ねとことん野球を楽しむ姿勢はアメリカでも尊敬を集める。

「ご両親の育て方がよかったんでしょうね。高校入学時から、負けず嫌いだけどおちゃめな性格で、人間的にも優れていた。それが挫折を経験し、さらに精神的に成長した。佐々木監督もかつて『注目される選手になってからも常に謙虚で、彼がふてくされた態度を取るのを見たことがない』と話していました。

 プロ入り後も高校時代の仲間を大切にし、日本ハム時代には電車を乗り継いで、同級生の下宿先に集まり、ほかのメンバーらと6畳一間で一夜を明かすこともあったそうです」(前出・学校関係者)

 どんなにチーム状況が厳しく、経験の浅い選手がミスを重ねても、大谷がグラウンドで不満を態度に表すことはない。それは高校時代の挫折から培った人間力の賜だろう。恩師が「早熟する必要はない」と言って育んだ才能は甲子園での挫折を経て、「史上最高の選手」として花開いている。

※女性セブン2023年9月7日号

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