90年代は、日本自動車終わりの始まりだ!

日本教育において、教員資格も指導要領も教科書検定もあるが、自動車分野において、資格も検定もない。間違った解釈も誤った情報も、マスコミから平気で流される。

最たるモノは、280馬力。日本やドイツの性能表示において、製品は必ず謳った性能を上回っていなくてはならない。表示は280馬力でも、281馬力であったり320馬力や350馬力だったりもした。

日本自動車史において、80年代中盤から終わりが隆盛だったが、90年代は"クルマ作り終わりの始まり"だ!バブルで悪ノリした自動車メーカーのバカ経営者達が、抜いたハズの欧米自動車メーカーのマネをし、バカな投資でスリ倒し、利益を食いツブした。

クルマ作りにおいて、80年代の成功で増長した技術屋を、事務屋が抑え切れなくなった。市場の規制に合わせるクルマ作りをしなくなり、市場から見放されるクルマを出しまくった。

セドリック/グロリアは、その中途半端な位置にあった。中流サラリーマンのための高級車だったのに、税制改定に乗り3ナンバー車体に拡大値上げし、売りにくいクルマを更に売りにくくした。Y32はそういうクルマだ。

本来最盛期は、Y31だ!高級車としては、シーマを作った。Q45を計画開始した。セドリック/グロリアはブロアムもグランツーリスモも作った。

2.5リッターへの対応、5ナンバーの取扱はこの時期に決まり、日本市場、車庫駐車場や道路事情を鑑みないクルマ作りに傾いた。

 

 

 

 

 

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国産初のターボ車、そしてY32で頂点へ。日産「セドリック/グロリア」と好敵手クラウンの競争と分かれ道
1/23(火) 10:21 Yahoo!ニュース
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開発コンセプトは「人とクルマと社会の調和をめざしたハイクオリティパーソナルサルーン」だった。象徴的だったのが、4灯ヘッドライトを採用した「グランツーリスモ」と、異形ヘッドランプを採用した「ブロアム」というグレードの展開だろう(写真:日産自動車
20~30年以上経った今でも語り継がれるクルマが、続々と自動車メーカーから投入された1990年代。その頃の熱気をつくったクルマたちがそれぞれ生まれた歴史や今に何を残したかの意味を「東洋経済オンライン自動車最前線」の書き手たちが連ねていく。
 日産自動車「セドリック」は、トヨタ自動車「クラウン」の競合として1960年に誕生した。ちなみにトヨタ・クラウンの初代は、1955年の誕生である。のちに、日産のセドリック/グロリアとして兄弟車として扱われることとなるプリンス「グロリア」は、1959年の誕生である。1966年に日産自動車プリンス自動車工業が合弁したため、グロリアはもちろん「スカイライン」も日産車となる。

【写真で見る】日産を代表する高級車「セドリック/グロリア」。歴代モデルを振り返る。

 それでも1967年の3代目グロリアは、合併前に開発が進められていたため、セドリックとは別の車種であった。4代目となる1971年に、基本的な機構や性能がセドリックもグロリアも同一となり、顔つきやテールランプなど意匠の違いで車種をわけるようになった。

■セドリック/グロリアの統合とハードトップという新機軸

 日産セドリック/グロリアとなってから独創的だったのは、4ドアハードトップという車種設定である。

 一般に、4ドアセダンは、車体中央にドアを支える柱(自動車用語ではBピラーと呼ぶ)がある。また、前後それぞれのドアの窓にはガラスを支える枠(サッシ)がある。しかしハードトップは、窓枠がなく、ガラスの端に密閉するシールがあるだけで、構造としての窓枠はない。なおかつ、2ドアではなく前後のドアを開閉できる4ドアで、車体中央の支柱や窓枠のない4ドアハードトップは、日産の斬新な提案であった。

 これにより、それまでクラウンの先行を許してきたセドリック/グロリアは、鎬を削る存在へ躍進したのである。

 ほかに、エンジンで言えば直列6気筒が上級車種では象徴的で、セドリック/グロリアも、またクラウンも直列6気筒を主力エンジンとしてきた。だが、日産は、1983年の7代目セドリック/グロリアで、V型6気筒エンジンを登場させた。アメリカで当時のV6エンジンは、廉価車種向けとされていたが、日本ではより上級車種のV8エンジンに通じる形式ととらえられ、V6に憧れる機運があった。

■日産とトヨタの対比が鮮明に

 1970年代の排出ガス規制を乗り越えた日本が、再び高出力を目指すなか、日産は排気を利用するターボチャージャーを選び、トヨタDOHC(ダブル・オーバー・ヘッド・カムシャフト)の自然吸気を選んだ。それぞれに特徴的で、両社、両競合車が、相手を強く意識しながら独自性を求めて商品力の強化をした面白みがあった。

 ちなみに、国内で最初に量産乗用車でターボチャージャーを採用したのは、日産セドリックである。ターボエンジン車は、アメリカのオールズモビル(ゼネラルモーターズ=GM)によって1954年に市販車で採用された。日本で人々の注目を集めるのは、1973年のBMW2002やポルシェターボではないか。そしてセドリック/グロリアが日本車におけるターボエンジン時代を切り拓いたのであった。

 セドリック/グロリアは、クラウンという競合を持つことで、国内の双璧をなす上級4ドアセダンとして人気を保持したのである。

 1990年代に入ると、セドリック/グロリアは4ドアハードトップのみに絞られた。従来型の4ドアセダンは残るが、前型を継続販売することでモデルチェンジは行われていない。

 1991年に登場した9代目、Y32(ワイサンニー)という、型式番号で愛称されることもあったセドリック/グロリアは、これより先に登場した最上級車種の「シーマ」と共通のV型6気筒エンジンを搭載する車種も選べるなど、これまで以上に上級で高性能な1台という存在になった。

グランツーリスモとブロアムという2つの選択肢

 また、ここまで国内の新車の多くが異形ヘッドランプと呼ばれ、一体構造のヘッドランプで車体の造形やラジエターグリルとの一体感を表現するようになっていたが、9代目となるセドリック/グロリアでは、あえて昔ながらの丸目4灯の意匠をグランツーリスモという車種に用い、他にない存在感や、ある種の迫力をもたらした。クラウンが車体と一体感を強める異形ヘッドランプを採用し続けたのに対し、セドリック/グロリアの独自性は遠めに見ても明らかだった。それをグランツーリスモというブランドとして位置づけ、セドリック/グロリアを象徴するようになっていく。クラウンではなく、あえてセドリック/グロリアを選ぶ理由がひとつ加わった。

 一方、ブロアムと呼ばれる車種は、上質な乗り味を特徴とする車種に位置づけられ、こちらは異形ヘッドランプを用いることで上級さを表したのである。

 クラウンが、アスリートとロイヤルという車名で特徴を色わけするのと同じように、グランツーリスモとブロアムは、セドリック/グロリアに2色の選択肢をもたらした。この時期のクラウンは販売がやや不調で、セドリック/グロリアがクラウンを上まわる販売実績を残したことも記憶される出来事だ。クラウンが、アスリートの存在をこの先強化したのも、そうした危機感の表れといえるかもしれない。

 10代目のY33(ワイサンサン)という型式名で呼ばれる次期型へも、Y32の価値観を継承する方向でモデルチェンジがなされた。

 しかし、セドリック/グロリアは、1999年のY34で終わり、フーガが後継車種となっていく。

 1990年のバブル経済が崩壊したあとも国内の自動車市場はまだ数年勢いが残り、Y32の人気によってセドリック/グロリアは人々に存在を強く印象付けた。一方で、バブル崩壊の後遺症が日産自体の経営を難しくし、ルノーとの提携を通じ、社長としてカルロス・ゴーンが就任する。そして、セドリック/グロリアは、世界的な車種統合の中でフーガとなり、伝統的な車名の歴史に幕を閉じることになった。そのフーガも、上級のシーマとともに2022年に終焉を迎えた。

■終焉を選んだ日産と可能性を模索するトヨタ

 自動車メーカーの柱として4ドアセダンを残すメーカーもあれば、売れ筋となったSUV(スポーツ多目的車)に力を注ぐメーカーもあり、日産はどちらかといえば後者に姿を変えていく。

 競合のクラウンも、現行の16代目からはクロスオーバーを基幹車種とし、世界での販売を前提とするようになった。派生として、4ドアセダンやSUV(スポーツと呼ぶ)、ステーションワゴン(エステートと呼ぶ)を加えたクラウン群としての構成に変わり、先行きを模索している。

 国内で頂点を極め、競い合ってきたセドリック/グロリアとクラウンは、多少の時期の前後はあれ、グローバルカーという言葉の下で変革が求められたのである。
御堀 直嗣 :モータージャーナリスト
 
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