ニッサンS12シルビアRS-X(FJ20E)

ニッサンS12シルビアRS-X(FJ20E)はワタシも、90年から00年まで11年近く乗っていた。その手前の大学生での3年、S12シルビアR-XE(CA18E)に乗っていたため、リヤの足回り(リジッド⇒ストラット)やステアリング(ノンアシスト⇒パワステ)やエンジン(SOHCのCA18E⇒DOHCのFJ20E)の音など、全ての変化が眩しく嬉しかった。

このクルマで、出張や休日出勤にかこつけて浜田山から銀座本社まで甲州街道を走り1Fや地下駐車場に駐車し、あの切替徹F40の324キロで伝説になった常磐道や、J・ビルヌーヴ最後の日本F3だった富士インターナショナルF3リーグを深夜大雨の東名高速を走った。大笑いな話、平日祝日問わずホンダ青山のビルパーキングもタダで駐車デキ、レーサーや技術者やレポーターらのイベントや鈴鹿8耐のパブビュー(あのW・ガードナー最後の連覇をホンダ青山で)観たりもした。

FJ20Eはカムチェーン駆動、独特な音がした。ワタシがこのクルマに買い替えた時、座間相武台寮監が食い付き、寮監のEXAカブリオレとカギを交換して互いに乗り、仲介して地元カーショップが無料でオーバーホールしてくれたり、車検他の修理を安くしてくれたりした。

会社往復では、突然真夜中残業帰りにクラッチ油圧がなくなり、繋がりっ放しをF1ドライバー張りのクラッチなしスタート&シフトで帰り着き、無事修理に出せた。夏休みには、新宿文化女子大前でオルタネーターが故障し発電が止まり突然ストップ、JAFを呼んで寮まで牽引してもらった。

神奈川県⇒東京都経て、大阪府フォークリフト販売会社に出向になり、ソコでも守口から妻の実家の高槻を往復した。車検やクラッチ交換は当時の阪神サービスセンターで安く仕上げてもらい、結婚前に起きたオルタネーターとエアフローメーターの故障では2ヶ月以上動かず、結婚式前日に漸く直った。阪神大震災でも無事、栃木では積雪でタコメータースピードメーターが動かない状況での運転も経験した。そして、携帯キャリアに応募出向して広島へ。奥さんの大荷物を後席とハッチ下に詰め込んで、実家の福岡に帰りもした。息子が産まれて、出向先都合で香川に出向先変更、広島から香川県屋島に運転して引越した。S12シルビアの車幅や使い勝手が、屋島の山を上り下りするにも狭い場所を行き違うにも、快適だった。息子と初めて2人で走ったのも、このクルマだった。

政権奪い返した自民下で、チャイルドシート法制化強制化され、3ドアHBでは設置して乗り降りは困難になり、仕方なくこのクルマを4ドアセダンに買い替えざるを得なくなった。

ソレがなければ、一生乗り続け、ワタシの生涯も変わっていたかも知れない。

 

 

 

 

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ニッサン・シルビア(S12型/JTC編)』初期JTC“不毛の地”を支えた1台【忘れがたき銘車たち】
2/27(火) 5:35 Yahoo!ニュース
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1985年の全日本ツーリングカー選手権第2戦筑波を戦ったオートスポーツニッサンシルビア。熊谷睦と辻本征一郎がステアリングを握った。
 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、全日本ツーリングカー選手権を戦ったS12型の『ニッサン・シルビア』です。

【写真】1986年の全日本ツーリングカー選手権第5戦インターTECを戦ったキヤノン ジャムコ シルビア

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 モータースポーツシーンにおけるS12型の『ニッサン・シルビア』というと、“イナズマカラー”を纏った星野一義が駆ったスーパーシルエットマシンがまず思い出されることだろう(スーパーシルエット参戦車はフロントマスクがS12型になっているS110型)。

 だが、スーパーシルエットレース以外にもS12型の『シルビア』はグループA規定の車両が競っていた全日本ツーリングカー選手権(JTC)へも参戦していた。

 JTCがスタートした1985年。この記念すべきシリーズ初年度、ニッサンニスモは最高峰クラスにDR30型の『スカイラインRSターボ』を送りこんでいたのだが、その一個下、中排気量車クラスであるディビジョン2向けにもマシンを製作していた。そのベース車となったのがS12型の『シルビア』だった。

 S12型の『シルビア』は、1983年に市販車が登場した『シルビア』としては4代目にあたる車両で、ターボ車の設定もあり、そちらが“フラッグシップグレード”だったが、ホモロゲーションの関係からNAのFJ20E型エンジンを積むグレードをベースにグループA仕様に仕立てた。

 搭載したFJ20E型エンジンは、ノーマルから約50馬力アップの200馬力近くまでチューニングされていたほか、サスペンション系はジャパン・スーパースポーツ・セダンレース(JSS)のものを参考にピロボール化。

 さらにスプリングもレースに向けてレートをアップしていた。このほかタイヤサイズの変更もしていたが、比較的ライトなチューニング内容の車両だった。

 ニスモが製作した『S12シルビア』は1985年、JTCの記念すべきオープニングレースである開幕戦スポーツランドSUGOラウンドより参戦を開始。

 ドライバーは当時のニッサンレーシングスクール校長だった辻本征一郎をメインに、さまざまな自動車雑誌の編集者が1戦ごとに変わりコンビを組む体制を主として戦った(このドライバー陣容となったのは第2戦筑波サーキットラウンド以降。SUGOラウンドではTOMEI RACINGからのエントリーで、袖山誠一らがドライブしていた)。

 『S12シルビア』は開幕戦含む4戦でクラス優勝を記録し、この年のクラスチャンピオンを獲得。最高峰クラスや最小排気量クラスと異なり、中排気量車が参戦するディビジョン2はライバルの少ない“不毛の地”であったことも助けたが、耐久性、安定性も高く、好成績を残すに至っていた。

 翌1986年はキヤノンカラーに彩られ、セントラル20の手で参戦を続けたが、前年ほどの活躍とはならず。同年限りで『S12シルビア』はJTCから姿を消した。

[オートスポーツweb 2024年02月27日]
 
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