貴島孝雄、このヒトが本来、やるべきだったコトは。

80年代終盤から90年代序盤、80年代序盤から終盤までに作ったクルマの成功に天狗になり、今の日本自動車メーカーがクルマ作りをおかしな方向に向けたこの時期、貴島孝雄サンもその時期のヒトだ!もちろん、開発側100%ではなく、開発側の責任と経営側の責任がある。

経営側は、バブルが弾けダマされ損した消費者達がクルマを買わなくなる見通しなのに、地域ストックセンターをやめ、工場新設し、ジャストインタイムに移行し、勝手にコスト悪化する構造に改悪したコトだ。

開発側は、コスト管理を軽視し専用設計ゾーンや共用ナシに車種を増やしたコト、日本市場軽視しエンジン5ナンバーレベルの車幅3ナンバーを平気で出し始めた。

マツダで言えば、コスモの3ロータリーに共用車両がなく、FD型RX7はエンジン5ナンバー車幅3ナンバー車両、NA型ロードスターは専用車体で共用車両がなかった。また、オートザムやユーノスやマツダオートラマアンフィニに供給するため、代わり映えないFF車両をバッチ替で水増しして、魅力を薄めた。

3ロータリーは、コスモとRX7を共用する手もあったし、ラグジュアリースポーツのコスモとラグジュアリーサルーンでルーチェを投入しても良かった。

FC型RX7にはカブリオレがあり、共用シャシーでNA型ロードスターを作れば、RX7のレシプロ、ロードスターの2ロータリーに道も拓けていた。一方で、FR2+2車体を共用していれば、ファミリアなどFRセダンやクーペやHBなど車種を増やせた。

特にマツダトヨタと並ぶ東京以外本社メーカーで、コスト管理に幾分マシな環境だったのに90年代に傾き、フォードに吸収された。

このヒト達の失策は大きい。

このヒト達を祭り上げ、持て囃し、取り上げるヒト達の罪も大きい。

 

 

 

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<貴島孝雄>マツダの元エンジニアが「愛車遍歴 」に登場 ロードスター、RX-7開発 1991年ル・マンのヒヤヒヤ後日談も
5/10(金) 12:46 Yahoo!ニュース
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5月11日放送の「おぎやはぎの愛車遍歴 NO CAR, NO LIFE!」に出演する貴島孝雄さん(C)BS日テレ
 マツダの元エンジニアで、スポーツカーの「ロードスター」「RX-7」などの開発に携わった貴島孝雄さんが、5月11日午後9時から放送のトークバラエティー番組「おぎやはぎの愛車遍歴 NO CAR, NO LIFE!」(BS日テレ)にゲスト出演する。エンジニア人生とマシンに対するこだわりや愛情、自らの愛車遍歴、「ル・マン24時間レース」の裏話を披露する。

【写真特集】マツダの伝説エンジニアの愛車とは 番組先行カット

 1967年に18歳でマツダに入社し、40年以上もクルマの設計、開発に携わってきた貴島さん。少年時代から、動くものの動力、構造に興味津々だったという。教科書は、家の前に止まった故障車。「下へ潜って構造を見るのが好きでした」と語り、MCの矢作兼さんは「下へ潜って隠れんぼなら分かるけど」と子供らしからぬ感性に驚く。

 入社当初は商用車の設計、開発を担当していたが、1978年発売のサバンナRX-7の開発チームへの参加が転機になった。才能がスポーツカー部門で開花し、上司同士が貴島さんの争奪合戦をするほどだった。

 開発にかける情熱から「鬼の鬼島」と恐れられていたといい「技術には妥協はダメだと。技術は裏切らないんですよ。そこをないがしろにして、頑張ったんだからいいよという話があるけど、それじゃダメだと。絶対許さなかった」と話す。

 1991年のル・マンでは、マツダの787Bが日本車として初優勝。設定がうまくいかなかったマシンには、貴島さんが手を加えていたという。それが功を奏しての快挙だったが、後日、とんでもない事実が明らかになった。ヒヤヒヤの後日談を自ら語る。

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