PL出身上重聡と横浜出身松坂大輔、決定的違いは?

トーナメントは勝ち負けの要因がハッキリ出る。特に、有言実行で甲子園春夏制覇やった松坂大輔と、カレの前に敗れ去った選手達とでは、メンタルに歴然たる差があるのだ。

松坂大輔、3年春の甲子園と、3年夏の甲子園序盤では全く配球傾向が違うコトにはすぐ気付いた。ストレートにタテ/ヨコスライダーメインで制した春に対して、タマ数増えても大丈夫なようにストレート/カーブをメインにした。ところが、準々決勝PLは今でもトボけているが、明らかにストレート/カーブのクセをわかっていた。プロでの、江川卓山本浩二掛布雅之みたいなモノだ。わかっていても高校生、ソコまで点は取れず、ソレ以上に点を取られて負けた。横浜とPL、勝ちに対するメンタルが全く違った。準決勝の横浜と明徳では更に顕著、外野手出場していた松坂大輔がマウンドに上がると、一気にムードが変わり、逆転された。準決勝まで松坂大輔はストレート/カーブの三味線投球、しかし、バカな野球マスコミと京都成章はわかってなかったみたい。松坂大輔は決勝前に、「準々決勝のPLよりはレベル低いと思う。」と言って臨んだ。

3年夏の甲子園決勝、松坂大輔ピッチングのムード違うのが丸わかりだった。ストレート/カーブだけでなく、タテ/ヨコスライダー、フォークもシュートもチェンジアップも使った。ランナー出て送りバントしても、バント処理ゲッツー食った。完投どころか完封どころかノーヒットノーラン!パーフェクトでなかったコトがお情けだった。

松坂大輔は西武に入団、3年連続最多勝、プロより厳しい横浜高校まで鍛錬した貯金でイケた。日テレ柴田倫世のマンションに入り浸り、駐車違反は“堤オーナーお抱え”“日本のヒーロー”黒岩彰に替玉出頭させた。唯一の日本一は石井貴のおかげ、MLB制覇と第1·2回WBCで貯金を使い果たした。

和田毅上重聡、どちらも東京六大学に進んだ。どちらも、高校時点では足りないモノがあった。大学バカ野球のなまくら練習では、カラダの急成長以外に球威アップの芽はない。ソレを、緩急やコントロールとキレに見出した和田毅と、球威と体調からイップスになった上重聡の差が出た。和田毅ソフトバンクに入団、上重聡は日テレアナウンサーになった。

日テレアナウンサーになった上重聡、ABCマート創業者一家に気に入られもらったお小遣いでベントレー買い、元セーラージュピター安座間美優を侍らせた。テレビカメラに映る人間、そんなイメージ付いた時点で終わりだった。

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「今は弱音を吐くこともできる」元日本テレビアナウンサー・上重聡、十字架を背負った4年間 #今つらいあなたへ 8/6(火) 10:00 Yahoo!ニュース 329

撮影:近藤俊哉

PL学園高校時代に甲子園で“怪物”松坂大輔横浜高校)と投げ合い、立教大学では主将を務めた。その後、日本テレビのアナウンサーになり21年間勤めたあと、2024年4月からフリーに転身した上重聡はずっと、日の当たる場所を歩いてきたように見える。しかし、実際には口に出せない悩みを抱えた時期があった。アスリートとして致命的な“病”をどうやって乗り越えたのか──。(取材・文:元永知宏/撮影:近藤俊哉/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部) 明暗が分かれた「延長17回」の1年後 写真:日刊スポーツ/アフロ プロ野球で数々のタイトルを獲得した名選手たちが「1億円もらっても戻りたくない」と振り返るほど過酷なPL学園野球部で、3年間を過ごした上重。 1998年夏には背番号1を背負い、松坂大輔率いる横浜と延長17回の激闘を演じた。心・技・体そろった選手でなければ、満員の大観衆が見つめる甲子園で力を発揮できない。 “強者のメンタリティー”を持っていたはずの上重の心が揺れたのは立教大学に進学してからだ。上重が言う。 「1年生の春から活躍するのが当たり前。大学4年間で20勝くらいはできるだろうと考えていました。卒業するときにドラフト1位でプロ野球へ進む自分の姿をイメージしていました」 しかし、野球エリートが集まる東京六大学リーグの戦いは厳しい。 「春は5試合投げて経験を積むことができましたが、秋はマウンドに上がることができませんでした。当時の立教には甲子園経験者が少なくて、私は期待されていると感じていましたが、ふがいない成績でした。『あいつ、何をやっているんだ!』と思われているんじゃないかと、勝手に自分で自分を追い詰めていった感じでしたね。『松坂みたいにすごい姿を見せないといけないのに』と」 高校時代に甲子園で投げ合った松坂は、1998年ドラフト1位で西武ライオンズに入団。新人にもかかわらず、150キロを超えるストレートとスライダーで猛者たちをぶった切っていく。プロ1年目に16勝を挙げる大活躍を見せた。 「その年の秋、立教は9年ぶりのリーグ優勝を飾りました。私は代打で1試合に出場しただけだったので優勝パレードでオープンカーに乗ることはできませんでした」 投手クビ、悩みを抱えた大学生活 撮影:近藤俊哉 大学生活はまだ3年もある。巻き返すのはこれからだ。しかし、ここで異常事態が起こってしまった。 「あれっ、俺はどうやってボールを投げていたんだろう」 それまで自然にできていたはずの投球動作に不具合が発生した。ゴルファーやプロ野球選手が悩まされる“イップス”だった。 2000年春のリーグ戦前のオープン戦で、上重は先発登板の機会を与えられた。監督に課されたのは「どれだけ打たれても9回を投げ切ること」だったが、大量失点を喫してしまう。 「13点も取られたのは初めての経験でした。『何やってんだ。何やってんだ』とマウンドで思いながら投げているうちに、バッターの頭にぶつけて……イップスは心が弱い人がなるものだという思い込みもあって、自分は大丈夫だと思っていたのですが、投げることが怖くなってしまいました。目をつぶっていてもストライクゾーンに投げられるはずなのに」 このとき、荒療治を施したのが斎藤章児監督だった。 「『ピッチャーはクビだ』と言われ、外野にコンバートされました。私は必死でやっていたんですけど、試合の記事を見た松坂には『外野で遊んでるんじゃないよ』と言われましたね」 投げることで自分の居場所を獲得してきた上重は、「もうマウンドに上がらなくていい」と安堵していた。 「チームに貢献するためには、外野手として打撃を頑張るしかない。PL学園で背番号1をつけたプライドを捨てて、外野から野球を勉強し直しました」 父親の言葉に涙を流した日 撮影:近藤俊哉 どん底の上重を、精神面で支えてくれたのが両親の言葉だった。 「春季リーグ戦の開幕戦に上京してきた両親に初めて『野球をやめたい』と言いました。もうピッチャーとしてはやっていけそうにないし、イップスが治るという保証がなかったから」 父親からは意外な言葉が返ってきた。 「おまえがエースじゃなきゃいけないとは思っていない。補欠でも4年間楽しく野球をしてくれればいいよ」 それを聞いた上重は涙を流した。 「初めて自分の弱い部分を見せられたことによって、気持ちがものすごく楽になりました。もう一度頑張って、親を笑顔にさせてやろうと思いました」 その頃、同じ“松坂世代”である和田毅(現・福岡ソフトバンクホークス)は早稲田大学で先発投手を任されていた。 「和田のストレートは140キロなのに、まったく当たらない。私は松坂の豪速球に追いつこうとしていましたが、ピッチャーの目的は0点で抑えることで、速い球を投げることじゃないと気づかされました」 そんな変化を見ていた斎藤監督はそっと救いの手を差し伸べた。 「監督に『今日はブルペンで3球だけ投げろ』と言われました。おかげで、『明日はもっと投げたい』と思えた。私の心を前向きにしてくださいました。少しずつ投球練習を増やしていって、マウンドに上がれるようになりました、投げるのは本当に楽しかった」 写真:日刊スポーツ/アフロ 2000年秋のリーグ戦、東京大学戦で先発した上重はヒットも出塁も許さない完全試合を達成した。日本で最古の大学野球リーグである東京六大学で史上2人目の快挙だった。 秋季リーグ戦で5勝を挙げた上重。イップスを克服したかに見えたが、この後、「あの完全試合の上重」というプレッシャーに苦しめられることになった。 「スカウトの方からも『2年後が楽しみだな』というメッセージをもらっていました。でも、そこで違う十字架を背負ってしまったのかもしれません。完全試合よりすごい記録はないんですけど『いいピッチングをしないと』というプレッシャーをかけて……自分を苦しくしてしまい、また、イップス気味になりました」 さらに、3年生の秋季リーグ戦前に右ひじを故障。以降、自分が思うようなボールを投げられなくなってしまった。 プロ野球で着実に白星を重ねる松坂だけでなく、和田毅村田修一日本大学)など同級生たちの活躍も目覚ましかった。 自殺を踏みとどまった女性からの手紙 撮影:近藤俊哉 この頃、上重は自身の将来について深く考えるようになった。 「右ひじを痛めて、以前のようなボールが投げられない。これではプロは難しいと思いました。大学に入るときに、『卒業する段階でプロに行けないのなら野球の道はあきらめよう』と考えていたので、テレビ局のアナウンサー試験を受けることにしました」 伝える側に回ることを考えたのは、高校時代の経験があったからだ。高校3年の秋に渡されたファンレターが心に残っていた。 「同世代の女性からの手紙でした。その人は自殺を考えていたそうなのですが、私たちの試合を見て、それを踏みとどまったという内容でした。『横浜に負けて、笑顔で甲子園を去る上重さんを見て生きる勇気が湧きました』と」 一生懸命に打ち込む姿は人の心を打つ。アナウンサーになれば、それを伝えることができると上重は考えたのだ。 「高校時代、自分の気持ちを取材者に伝えるという機会が数多くあり、思いを伝えることで救われる人がいることを知りました。そういうパワーを感じることができました」 2003年4月、日本テレビに入社した。 「野球の中継で先輩アナウンサーが使った言葉をすべて書き起こして、自分でしゃべってみることを繰り返しました。同じ文章、同じ言葉を使っているのに、どうしてこうも違うのかと驚くばかり。ずっと野球をしてきたので、どんな局面になっても慌てることはないだろうと思っていましたが、はじめは本当に失敗ばかりでした。 日本テレビには偉大な先輩がたくさんいて、アナウンス部全員で教育してくださいました。厳しい指導もありましたが、本当に環境に恵まれていたと思います」 日本テレビを退社したきっかけ 撮影:近藤俊哉 その後、上重はプロ野球箱根駅伝などのスポーツ中継に携わる一方で、情報番組の進行も任されるようになった。 「メインどころの仕事を任されるようになった頃、2022年5月に亡くなった先輩の河村亮アナウンサーに、『PL学園の1年生のときのことを思い出せ!』と言われたことがあります。新人のときのひたむきさがなくなったと河村さんには見えたようです。その言葉を聞いて、ハッとしました」 アナウンサーとしてキャリアを積めば、後進の指導の比重が大きくなる。スポーツの現場ではさらに重要な役割を任されるようになっていた。 「2019年にプロ野球日本シリーズの実況を担当させていただきました。2023年に初めて開幕戦を任され、野球中継のゴールというか、そこに到達できたことに対して達成感がありました。それが退社を決めたきっかけのひとつです」 2024年3月、21年間勤務した日本テレビを退社して、フリーのアナウンサーになった。 「この5月はあまり仕事がなくて、少し焦りはありました。自分に『ゼロからのスタートだから』と言い聞かせていたので大丈夫なはずだったんですが、ある日、帯状疱疹の症状が出ました。知らず知らずのうちにストレスを感じていたようです。 今は『仕事がありません』と堂々と口に出せるようになりました。弱音を吐くことで救いの手を差し伸べてくれる人も出てきました。フリーになったことでPL学園の1年生に戻ったような気持ちで、がむしゃらになって上を目指そうと考えています。そういう心境になれたのは、会社をやめるという決断をしたから。6月以降は、いろいろなお仕事をさせていただいています」 人に頼る勇気をもってほしい 撮影:近藤俊哉 環境が変わることでコンディションを崩したり、人間関係に悩んだり、壁にぶつかったりする人はたくさんいる。そんな人に上重はこんなメッセージを送る。 「自分の悩みとか、心の奥にあるものをさらけだすのには勇気がいります。でも、そうすることによって状況が好転した経験が私にはあります。強がったり虚勢を張ったりするよりも、人を信頼し、頼ることでいい方向に進む。『困っている』というメッセージを送ることで、解決の手段やヒントに出合えるはずです。そういう勇気を持ってほしい」 今年の5月で44歳になった上重は言う。 「私も10代の頃にはできませんでした。やっぱり、カッコ悪いと思ったから。でも、弱い姿を見せることによって開ける道もありますからね。 うまくいかないときこそ、マインドというか、心の持ちようが大事だと思います。逆に、そんなときが一番楽しいんじゃないでしょうか。フリーになって以降、『苦労を楽しもう』と言い聞かせています。しんどい時期に何を考えるのか、どうやって乗り越えるのかによって『その後』が絶対に変わってきます。今は、苦しい状況でも、いかに楽しみながら前を向くかを考えていますね」 そうすれば、きっと仲間が助けてくれると上重は思う。 「野球をしていたときに対戦した人、お世話になった人からオファーをもらうことも増えました。本当に、野球に助けられています。これまで、紆余曲折というか、波瀾万丈の人生を送らせてもらっているので、私の経験を人のために役立てられるように。『伝えること』でみなさんに貢献したいですね」

撮影:近藤俊哉

本記事は、個人の感想・体験に基づいた内容となっています。 「#今つらいあなたへ」は、Yahoo!ニュースがユーザーと考えたい社会課題「ホットイシュー」の一つです。つらい気持ちを抱えた人の「生きるための支援」につながるコンテンツを発信しています。

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