テレビの高視聴率は、国民の掌返しと解釈?

このライター、政府側の見地で書かされてるの?それとも、尻馬乗り?

反対から熱狂?続出した掌返し?随分と御都合よろしい"五輪支持解釈"だ。

ポジティブ⇔ネガティブ?視聴率高⇔低?祭りを求めていた?

バカじゃないの?

政治家や官僚や医療関係者、国民には自粛生活や飲食店稼働縮小やマスクなど強制して置いて、自分達はバカ宴会し放題じゃないの?

五輪反対者の掌返し?ドコをどう見て、そう思うの?ライターには、国民の生活がキチンと見えているのか?思うように仕事もない、自粛生活強制や飲食店稼働短縮で外にも出られない、ドラマも休み五輪以外の放送がされないテレビを見る以外の選択があるか?

単に他の選択肢がなく"仕方なく見てるだけ"を、こんなノー天気バカポジティブに解釈して、"やっぱり、五輪やって良かったでしょ?"という記事にするのか?

元々、この1年半のコロナ肺炎"感染"カウントのバカ騒動、マイコプラズマまでの従来通り"発症"カウントならば、こんなバカ騒動になってないから、フツ~に2020年で五輪できていた。もちろん、フツ~に経済活動もされているので、更々影響はなかった。

疫病学者達の目論見を見抜けない、バカな政治家や官僚らが騒ぎに乗せられ、マスコミもその様を検証もできない愚かさが、このバカな状況を1年半続けているのだ。

都合良い数字を挙げて、バカポジティブなコトをもっともらしく述べるのは勝手だが、コロナが覚めたら、世界中の一般人には"大増税"という"バカ出費を繰り返した"政治家や官僚からの副作用転嫁が待っている。

そちらは、いつから書き始めるのかな?

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東京五輪、反対から熱狂へ…続出した「手のひら返し」が意味すること
7/31(土) 10:01 Yahoo!ニュース
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ネット世論が「ポジティブ」に
 
Photo by gettyimages
 オリンピックが開幕して一週間ほど経つ。

あれほど「開催するべきか否か」で世論が大きく分かれていたオリンピックも、開会式では驚異的なテレビ視聴率を叩きだしたようだ。*1
また、ネットでも「ポジティブ」なニュアンスの言及が「ネガティブ」を上回ったという興味深いデータが出ている。*2
 twittertweet感情分析を行い「オリンピック」ネガティブポジティブどちらの書き込みが多いか分析した。
ヤフーのツールを使うと簡単にできる。https://t.co/MuV2ZbJPwT
オリンピックの開会式前後で比較してみた。
開会式前は、ポジ 34%,ネガ66%であったが、開始後は、ポジ55%,ネガ45%へと変化した。 pic.twitter.com/ZYLUSnHVxy

【写真】トヨタ「オリンピックCM取りやめ」のウラで起きた「劇的な変化」の正体

― データをいろいろ見てみる (@shioshio38) July 25, 2021 オリンピック開会直前までどことなく漂っていた、どんよりと濁って閉塞的で殺伐とした空気は、開会直後から一変したように見える。ニュースからも暗い話題はずいぶんと減り、不安と恐怖と炎上で注目を集めてマネタイズするメディアもしばし休戦といったところのようだ。普段からずっとそうしてほしいものだ。

 コロナ感染者数が過去最多を大幅に更新した情況は、オリンピック前ならなおそらくは天地がひっくり返るほどの大混乱が生じてもおかしくはなかっただろう。しかし、世間に与えたインパクトは意外なほど限定的に見える。

 世間だけでなくSNSのタイムラインも、オリンピックがはじまった直後から、明らかに雰囲気が明るく前向きなものに変わったのが見て取れた。仕事上のつながり、趣味のつながり、プライベートの友人たちのつながり、それぞれのタイムラインには、オリンピック開幕前までいずれもピリピリとした空気がただよっていたのに、いまではどのタイムラインでも、ほとんどの人がオリンピックについて楽しく話題にしているようだ。連日のメダル獲得の快挙のたびに沸き立ち、祝福と賞賛と感動の声が広がっている。

 こうした現象が起きたのは、おそらくは私の観測範囲だけではないのではないかと思われる。皆さんの周囲でも――ひいては皆さん自身が――似たようなムードを多かれ少なかれ感じているのではないだろうか。

 先日、ある高齢の知人と会った。その方は会うたびにオリンピック開催反対を強く主張していた。「こんな状況でやったらダメだ! 人死にが増えるだけだ!」と熱心に反対論を唱えていたのだ。

 ところが、一週間ぶりに会ってみると「昨日は最高だったわ! なにせスケボーでも金、柔道でも金、みんな頑張ってて感動しました。本当に最高の日でしたねえ!」と目を輝かせて上機嫌だった。

 ツイッター上では別の知人が、開催ギリギリまで「オリンピックは中止しろ!」「オリンピックは国賊的行為!」「開会式の演出で取り返しのつかないスキャンダルがあった以上、もはや国際社会から認められることはない!」と鼻息荒く主張していた。ところが、いまこの文章を書いている時点で彼のアカウントを覗いてみると「スケボーかっこいいな!」「柔道すごい!」「卓球で金、ヤバい!」「日本またメダルだ!」「バスケ惜しかった!」などと大興奮である。朝から晩までテレビをつけて、オリンピックの実況を楽しんでいるようだ。

 その掌返しの速さにはさすがに苦笑してしまったのだが、しかしかれらのこうした「変節」をあげつらって「いやいや、あなた、あの時はまったく逆のこと言ってませんでしたか?」などと嫌味っぽく責める気にはならない。というのも、むしろこれこそがオリンピックのような「祭りごと」を開くことの大きな意義なのではないかと思うからだ。

人間社会と「祭典」の関係
 古くから、ホモ・サピエンスが形成してきた社会構造には――たとえ文化的・文明的に連続性がない隔絶された地域にも――「祭りごと」とされるものが、まるで示し合わせたかのように普遍的かつ永続的に存在してきた。

 それは単なる偶然で片づけられる話ではなく、人間とその社会にとって「祭りごと」がきわめて重要で、原始から今日にいたるまで欠かすことのできないものだったからではないか。そんな確信が、人々のオリンピック前後の「反応」を見ると深まってくる。

 「祭りごと」は、人間社会にある種の「区切り」を与えるものとして必要だったのだろう。

 定期的に催される「祭りごと」は、社会の構成員がそれをひとつの《境》にして、その時点からまた新しい自分として生活する(もっと大げさにいえば生き直す)ためにあったのではないか。

 ある共同体における日々の暮らしのなかで、人間関係、仕事、生活の事情でたとえネガティブなことがあったとしても、「祭りごと」に乗じて溜め込んだ鬱憤や不満といった負のエネルギーの一切合切を吐き出して、自分のなかをスッキリさせる。そこからまた新しいスタートを切るのだ。つまりは社会的集団を維持するための「ガス抜き」であり、またそれを「再統合」させる機能を果たしているともいえる。

 人間はじっとしていると、どうしてもエネルギーを持て余してしまう。とくに若者たちはそうだ。若さはなによりのエネルギー源である。いまも昔も、エネルギーを持て余した若者は、なにをしでかすかわからない。

 地方の共同体では若年人口の減少によって、地元の「祭りごと」がどんどん失われている。だからこそ、エネルギーを持て余した若者たちは、サッカーの国際試合やハロウィーン、年越しに乗じて渋谷に集まり大騒ぎをするのである。上の世代の皆さんから大ひんしゅくを買っていたあの乱痴気騒ぎは、帰属する共同体で「祭りごと」を失い、持て余したマグマのようなエネルギーのやり場を探し求める若者たちによる「オルタナティブな祭り」だったのだ。

余談だが、2018年の渋谷のハロウィーン期間中にはしゃぎすぎて暴徒と化した若者が、停車していた軽トラックを力ずくで横転させるという事件があったことを覚えている人は多いのではないだろうか。*3
この意味不明な破壊行為に及んだ若者のひとりは、山梨県富士吉田市からわざわざ2時間以上かけて渋谷にやってきていた。そこまでして「祭りごと」に参加したかったのである。

「非現実」がなければ「現実」もない
 また、私たちの記憶を整理し、それ以前を「過去」として振り返るための「マイルストーン」としても、「祭りごと」は大切なものだった。「あの時にはこんなことがあった、あの夏にはあんなことをした、あの年にはそんなこともあった」――と振り返るための記憶の節目となるもののひとつが「祭りごと」なのだ。私たちはそのような「大きな出来事」をひとつの足掛かりに、過去の記憶や足跡を整理し、そしていまの現実感や方向感覚を取り戻す。

 「マイルストーン」を失ってしまうと、私たちは過去を整理することができなくなり「ここ数年間、自分がなにをしていたのか思い出せない」と、文章にするといささか奇妙な表現になるのだが「現実に生きていながら現実感のなさに苦しむ」という状況に陥ってしまう。

 私たちが毎日を生きる「現実」は、「非現実」がその合間にときどき挿入されることで、はじめてリアリティをともなう。「現実」だけがただ絶え間なく続いていくと、不思議なことにその「現実」は現実感を失っていく。立体感がなく平面で、のっぺりした感覚が全身を支配するようになる。パンデミックによってことごとく「祭りごと」が失われ、ただ働いて家に帰り、働いて家に帰り(下手をするとリモートワークで家から一歩も出ずに過ごすことすらある)――をひたすら繰り返すいまこの日々が、まさにそれだ。

 私たちに「あなたはここにいる」という「現実のリアリティ」を教えてくれるのは、目の前にいつもある「現実」ではなくて、ときどきやってくる「非現実」なのだ。

「祭りごと」を失った世界で
 このパンデミックのなか、私たちはほとんどの「祭りごと」を失ってしまった。

 東京の隅田川花火大会も、京都の祇園祭山鉾巡行も二年連続の中止である。皆さんのお住いの地域の祭りごとも、中止や規模を大幅に縮小しての開催になってしまったのではないだろうか。

 正負どちらの方向にも溜め込んだエネルギーを吐き出すことができず、また自分の人生の記憶を整理するためのマイルストーンもなく、心機一転の「区切り」を得ることもできない。「現実感のない現実」だけがひたすら繰り返される、パンデミック発生から500日あまりの日々は、人びとの心をささくれ立たせ、すさんだものにしてしまうには十分な日数だった。

 そんな私たちにとって、オリンピックは久しぶりに与えられた「祭りごと」となった。

 この機に乗じて、意図する・しないは別として、溜め込んだ情念を吐き出さずにはいられない人が大勢いる。失われた現実感がみるみる回復していき、なにもしていないのにスッキリとした気分になっていく人が次々に現れる。それこそ、「直前までオリンピックに対する呪詛を唱え続けていたのに、いまではだれよりもオリンピックを楽しんでいる」というのは、甚だしく一貫性に欠くふるまいに見えるかもしれない。

 だが私は、こうした光景を見ても「チョロい」などとは思わないし、もちろん言うつもりもない。むしろこれでよいのだと思う。これこそが人間の性なのだろう。

 「ネットの怒り」に固執して意見を曲げないよりも、適度に手のひらを返して生きる方が、より健全ということもある。少なくとも、振り上げた拳を下ろすことができず、オリンピックを視聴してただ他意なく「自分のなかにあった前向きな気持ち」を個人的に再確認したにすぎない人に対して、心ない言葉をぶつけるよりはずっと。

 「現実感のない現実」のループのなかで持て余したエネルギー、それが久しぶりの「非現実」を体験することによって発散されていく。己の暮らしの現実感と距離感を取り戻していくと、次第に気分が明るくなり、素直に感動を味わえるようになる――それこそが人間なのだ。

 もちろん、必ずしもそれがオリンピックでなくてもよかったのかもしれないが、しかし私たちにはいずれにしても「祭りごと」は必要だったのだ。

 この社会に生きるすべての人たちが、それぞれため込んだ「想い」や「情念」を吐き出し清算するための強制イベントであった「祭りごと」は、「新しい生活様式」の名のもとに根こそぎ奪われてしまった。このことで、人びとが溜め込んできた不安や怒りのはけ口は失われ、それらは「リセット」されることなくひたすら心に鬱積してしまった。現実感のない現実のなかで、あてもなくさまよい歩くような感覚は、人びとをますます動揺させた。

 「祭りごと」が不在のなか、人びとが持て余したエネルギーはやがて激しい感情的な衝突を生むようになった。結果として、この社会の相互不信や分断はますます深まってしまった。

 お祭りなんて、おみこし担いで、声を荒げて、どんちゃん騒ぎで、馬鹿馬鹿しい――たしかにあの頃は、そう思っていたかもしれない。正直なところ、私もそう考えている節がなかったわけではない。

 けれども、それらのほとんどすべてが失われてしまったいま(そしてオリンピックというお祭りによって、けっして少なくない数の人が次々に《浄化》されている光景が広がっているいま)、なぜ無意味とも思えるこの営みが、人類社会で普遍的かつ永続的に根付いてきたのか、その理由に思いを馳せないではいられない。

 私たちには「祭りごと」が必要だったのだろう。
御田寺 圭

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