ヨイショする側される側、両方セットでダメになる。

このヒトが、ゴーンの腹心に一体どんな提言をしたのか、少なくともあんなZ33や34のZやR35GT-Rがデキてしまったと言うなら、料亭でロクな話をしなかったか、伝わらなかったのだろう。結局、日本のクルマ作りをダメにしたのは、"裸の王様"たる日本の自動車メーカー自身と"裸の王様の側近"たる自動車マスコミの両方だとハッキリわかる。

ゴーンや側近には、名前だけ残していれば、コンセプトや造りや規格なんて、どうでも良いと伝わったのだろう。

バブル弾けて以降膨らむ一方のクルマ作りを自省し、クルマ作りを元に戻すコトだってデキたハズだった。しかし、バカなクルマ作りの継続性だけは、悪しき伝統として引き継がれた。

グローバリゼーションやグループ統合のせいで、小さく軽く安くしつつ最大限のポテンシャルを与えるクルマ作りを全世界の自動車メーカーが忘れてしまっている。こんな公家商売やっていては、電機メーカーが本気で安い電気自動車を作り始めたら、瞬く間に淘汰されるだろう。というか、こんな自動車メーカーギルドは淘汰されて欲しい。

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フェアレディ&フェアレディZ
2022/02/06 06:01 LEON6

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「フェアレディ& Z 」を振り返る


岡崎宏司の「クルマ備忘録」連載 第178回

価格は31億円!? 「ロールス・ロイス」が製造した究極のフルオーダーモデルとは?


新型フェアレディZが正式に発表された。ひと目見て「Z」であることがわかる。同時に「新しい時代のZ」であることもわかる。

難しい時代に、伝統あるスポーツカーの継続を決断した日産には敬意を表したい。そんなことで、今回はフェアレディ&フェアレディZの歴史を、思い出と共に振り返ってみたい。

初めてフェアレディ(当時の表記はフェアレデー)を名乗るクルマが登場したのは62年前。1960年の「ダットサン フェアレデー1200」(SPL212型)だ。

ベースはダットサン・セダン210型。それに4座オープンボディを載せたものだが、2トーンカラーを纏った姿は華やかだった。

エンジンはOHV1.2リットルの4気筒。当時、日産がライセンス生産していたオースチン A50用のエンジン(1.5リットル)をベースに開発された。

ほんの少しだけ動かしたことはあるが、走りの印象はほとんど残っていない。オープンの心地よさを除けば、平凡な乗用車の感覚を超えるものはなかった、、、そんな記憶がかすかにあるだけだ。

しかし、クルマが、日本人にとってはまだ遠い存在だった時代、、スポーツカーといえば欧米のものを雑誌で眺める時代だった62年前、、日本のメーカーから誕生したカラフルなオープンスポーツカーにワクワクしたことを覚えている。

「フェアレディ1500」(SP310型)は1962年に誕生。後部に横乗り座席がある3シーターだった(1964年に2シーターに変更)が、スポーツカーといえる姿佇まいを持っていた。

サスペンションは前輪独立式で、フレームも強化された。姿も身のこなしもスポーツカーの資格を備えていた。だが、エンジンは非力。スポーツカーの速さはなかった。

フェアレディがスポーツカーといえる走りを身に着けたのは、1965年に発売された「1600」(SP311型)から。強化されたエンジンと5速トランスミッションを積み、ブレーキもフロントがディスクになった。

1500はジムカーナヒルクライムでも勝てなかったが、1600は勝てるようになった。レースでも勝ち始めた。

1967年には「フェアレディ 2000」(SR311型)が登場。2リットルの4気筒エンジンは145psで、国産車初の200km/h超(205km/h)を達成。かなり荒っぽいクルマで、不整路面などでは突然挙動を乱したりしたが、速くて楽しかった。僕は愛を込めて「レーシングトラック」と名付けた。


フェアレディから「フェアレディZ」にバトンが渡されたのは1969年。

Zは開発当初から北米市場に最大の焦点を当てていた。そして、「欧州製スポーツカーに勝てるクルマ」「ジャガー Eタイプのようなクルマ」といった命題が掲げられて開発されたという。

日産デザインは見事にそんな命題をクリア。初代Z (S30型)のルックスは、日本でも北米でも大きな拍手で迎えられた。

モノコックボディとストラット式前後サスペンションの組み合わせも文句なし。だが、エンジンにはガッカリした。

2リットルの直6・SOHCエンジンは乗用車用をほぼそのまま流用したもので、パワーにも、回転感にも、音にも、、スポーツカーらしさはまるでなかった。退屈なエンジンだった。

2.4リットルに拡大した北米向け「240Z」(HS30型=1971年からは日本市場でも販売)にも官能を揺さぶられるものはなかった。でも、太くなったトルクによって力感は上がり、走りもまあまあのレベルにまで押し上げられた。

僕が断然好きだったのは「Z432」。スカイライン2000GT-R用の2リットル6気筒・DOHC24バルブ・エンジンを積んだモデルだ。

160psのパワーも嬉しかったが、高回転域の伸び感も、回転感も、音もよかった。スポーツカーに乗っている高揚感も文句なしだった。キャブレターは、ソレックス・ツインチョークの3連装。その吸気音にもゾクゾクさせられた。


Z432は、単に好きだったというだけではなく、素晴らしく貴重な思い出も残してくれた。

当時、僕は日産レーシングスクールに通っていたが、日産は、なんと、僕専用のZ432練習車を用意してくれたのだ。もちろんレーシングチューンされたもので、ボディサイドには僕の名前まで書き込まれていた。

そう、僕は「僕のZ432で、高橋国光さんや北野元さんにドライビングを教えてもらう」という宝物級の経験をしたということだ。

Z432の次に好きだったのは「240Z-G」。「グランドノーズ」と呼ばれるFRP製のエアロノーズとオーバーフェンダーを装着したモデルだが、これはカッコよかった。

1974年には全長を大きく伸ばした定員4人の 「2 by 2」(GS30型)が加わったが、僕にはどう見てもカッコいいとは思えなかった。

1978年の2代目(S130型)以降はラグジュアリー度が高められる方向に向いた。世の流れでもあったし、それはそれでよかったのだろう。北米市場などでも高い人気を保ち続けた。

でも、僕が抱くフェアレディZへの想いは、当然のことながら、「スポーツカー度の高いスポーツカーであり続けてほしい」というものだった。

なので、2~4代目への関心は薄れてしまい、強く記憶に残るようなものはほとんどない。

強いてあげれば、1989年にデビューした4代目(Z32型)だろうか。それまで抑えられていた全幅が広くなり、全高も低くなってバランスが良くなった。モダンな佇まいになり、プレミアム感も増した。独特のヘッドランプも、強い個性を放っていた。

しかし、平成12年排ガス規制の影響もあり、2000年8月~9月で生産/販売は終了。2002年に5代目が誕生するまでのほぼ2年、Zの歴史は途絶えた。

 

5代目(Z33型)は2002年に誕生。日産リバイバルプランの象徴のひとつとして復活した。この復活には僕も一役を担っていたかもしれない。

ゴーン体制に代った直後、「今後の日産のあり方」について、真剣で濃密なヒアリングを受けた。相手はルノーから送り込まれた、ゴーンの腹心中の腹心。銀座本社に近い料亭の一室で行われた1対1のヒアリングは7時間にも及んだ。

その中で「今後の日産に残すべきモデルと、残さなくてもいいモデルは?」との問があった。その問に対する僕の答えのひとつが、「日産の象徴として、北米市場でのZと日本市場でのGT-Rは絶対に残すべき」というものだった。

その後の日産車の流れで、僕の意見提言にはほぼ満額回答が出たことがわかった。「ZとGT-R」も継続された。嬉しい答えだった。

で、5代目だが、プラットフォームを始め、エンジン、サスペンション等々、多くをスカイラインと共用するようになった。とはいえ、各部剛性の引き上げなど、やるべきことはやっていた。

シンプルで美しいフォルムを持つボディは空力性能に優れ、「新しい時代のZ」を強く印象づけた。走り味/乗り味は深みや奥行きには欠けるものの、身のこなしは軽快だった。

5代目の開発には多くの場面で参加したが、開発メンバーと共にカリフォルニアを縦横に走り回ったのは、素晴らしい思い出になっている。

2008年からの6代目(Z34型)のもっとも大きな前進は、ホイールベースの100mm短縮(後輪が前に移動)。運動性能が引き上げられると同時に、ドライバーがより後輪に近く座るようになったことだ。

ドライビングの重要な要素である「尻で感じる」感度は上がり、同時に、外から見て、ドライバーをカッコよくも見せた。

「7代目」(Z34型を継承)は2020年9月にプロトタイプが発表された。が、型式でも示されているように、基本骨格は6代目を受け継ぐ。なので「6.5世代」と言った方がいいかもしれない。

しかし、Zの過去と未来を凝縮したような姿が、Zファンを大喜びさせているだろうことは容易に想像がつく。

エンジンにしても、シャシーにしても「スポーツカーとしての拘り」を強く前面に押し出したものになっているとされる。400psオーバーのFR車でMT (6速)を設定しているのも嬉しい。

まずは240台限定の「プロトスペック」から購入希望の受付を開始(2月7日)。カタログモデルの販売は6月以降という。ステアリングを握るのが楽しみだ。

 


● 岡崎宏司 / 自動車ジャーナリスト


1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。

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