子供を盾や矛にしてるのはオンナじゃないの?

益子直美、共栄高の春高バレー見てた。準決勝、大林と広と宮島の八王子実践高相手に、前衛でスパイク、後衛でスパイクサーブとバックアタックで打ちまくり、フルセットで勝った。そのまま、全身痙攣起こして救急車で運ばれた。

決勝は、ロス五輪女子エース、大谷の四天王寺高、益子は出場したが、スパイクサーブも打てず、3-0で負けた。1年上だったが、一番耀いた女子高生だった。

全日本に入れたが、日立行が内定していた八王子実践組とは扱いが違った。益子はイトーヨーカドーへ。

後に斉藤真由美が入って、黄金時代を迎えた。大林の負傷もあったが、益子&斉藤のレフト対角がそのまま全日本のレフト対角になった。

斉藤の事故や、肩の故障から出番減った。いつの間にか引退していた。

スポーツキャスターやり始めて、アメフトやってた同僚キャスターに食い逃げされた。

自転車取材で今のダンナに番組ナンパされて結婚した。

子供がデキないと女性失格?逆に、子供産んだら女性安泰だと思ってるんじゃないの?実家が田舎だとオトコのコ産んだら安泰とか。

子供を、自分の盾や矛だと思ってない?まして、子育て理由に色々使われたり、横暴かまして来る。自分はキチンと勉強しなかったクセに、中途半端に甘やかした。

子供を自分の地位保全のツールだと思ってたんじゃないの?

まず2人でいるコトが第1じゃないの?

 

 

 

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「子どもができないと女性失格」という思いに囚われ――益子直美が振り返る不妊治療
5/17(火) 10:02 Yahoo!ニュース
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2022年4月から、不妊治療の保険適用が始まった。元バレーボール女子日本代表の益子直美さんも、不妊治療を経験した一人。40歳で結婚し、3年ほど不妊治療を試みたものの、結局子どもを授かることができなかったという。不妊治療中は「誰にも相談できなかった」と話す益子さんが抱えた悩みや葛藤、そして妊娠・出産や生理に対する社会への思いについて聞いた。(Yahoo!ニュース Voice)

「スポーツをしていたから40代でも妊娠できる」と思い込んでいた
 
不妊治療の経験を語る益子直美さん
――益子さんが不妊治療を始めたきっかけを教えてください。

益子直美: 私自身、もともと結婚できないと思っていたのですが、縁あって40歳で結婚しました。それまで、子どもに関してはそこまで真剣に考えていなくて。結婚する前、義理の兄がバイクの事故で亡くなって、まだ小学生だった姉の子どもたちの父親役にならないと、という気持ちがあったからかもしれません。結婚してから「主人との子どもが欲しい」と思うようになりました。

自分の年齢は見て見ぬふりをして、自然に妊娠できると思っていました。やっぱりスポーツをやっていたから体は若いんじゃないかと思い込んでいたんです。でも、実は逆なんですよね。人一倍心臓を動かして、肺を使って、筋力も使って内臓も酷使していますから、体の機能は衰えているんです。生理痛も若い頃から寝込むくらい酷かったのに、病院には行きませんでした。痛みに強いというより、アスリート特有の我慢強さみたいなもので耐えてきたんです。

――実際に40歳を超えて出産される方もいるので、自分も子どもができると思いますよね。

益子直美: そうなんですよね。でも、2年経っても自然妊娠できなくて。結局、現実を突きつけられて病院に行きました。すると、血液検査の数値が悪すぎて、嫌でも年齢を自覚せざるを得ませんでしたね。タイミング法とか人工授精にもトライしたのですが、もう時間がないことに気づいたので、治療をジャンプアップして顕微授精にしました。でも、採卵をしたら卵子が3つしか取れなくて……。若い人は20個以上取れるらしいんです。この3つの卵子で顕微授精を試みたのですが、1つは使えず2つは受精せず。結局、私のお腹に戻ることはありませんでした。

――不妊治療をしているときはお仕事とどう両立されていましたか?

益子直美: 不妊治療だけに集中したくて仕事はやめたんです。とにかく良い状態で不妊治療にチャレンジしたくてストレスを排除したかった。仕事をやめたらすごく体調が良くなって、悩まされていた偏頭痛もなくなったんです。そうして不妊治療に集中する環境を整えることができました。

――不妊治療だけに専念すると、そればかりになって逆に落ち込むこともあったのではないでしょうか?

益子直美: 血液検査の結果を聞くたびに落ち込みましたね。そのままの精神状態では主人に会えないと思って、病院の横にある高級ステーキ屋さんに寄ってランチを食べて元気を出していました。1か月間頑張った自分へのご褒美と、次もまた頑張ろうという気持ちに切り替えたくて。あ、でも主人には内緒にしてました。おいしかったなぁ、あのステーキ(笑)

それと結婚が遅かったので、不妊治療中に「急ぎなさい」とか「ご主人が若いから大丈夫よ」とか「あなたもスポーツをやってたんだから大丈夫」とか、本当にたくさん声をかけていただきましたが、そのたびに心はズキズキしてました。でも笑って「頑張ってまーす」みたいに明るく返していましたね。

「子どもを産んで当然」という価値観に苦しんだ
――不妊治療中は誰かに相談されていましたか?

益子直美: 相談するのは基本的に主人だけでした。家族以外だと、同性の親友一人だけには話していました。相談といっても、主人は私がつらいと弱音を吐いたら「もうやめようよ」と言うような優しい人だし、全面協力してくれていたので、できるだけ面白おかしく「またダメだった~!」と報告していたんです。主人には申し訳ない気持ちでいっぱいで、どんどん追い詰められていきましたね。強いふりをしていましたが、日記にはちょこちょこネガティブなことを書いて気持ちをぶつけてました。

両親にも言えませんでした。子どもができない子を産んでしまったと思わせたら申し訳ないと思って、私を産んだ母にも言えなかった。当然、義理のお母さんにも言えなかった。親には不妊治療が全て終わってから話しました。

――不妊治療をしていることに後ろめたさがあったのでしょうか?

益子直美: 世間は不妊治療に対してまだまだ閉鎖的だと思い込んでいました。「結婚したら子どもを産んで当然」とか「子どもができないと女性失格」みたいな価値観を自分の中に持ってしまっていたんですよね。昔、私がスポーツ界で経験したときのように「自分の意見を思いっきり言えない」と思っていたかもしれません。

でも、今思うと、やっぱりつらいことは周りに言って共有するのが一番良い。助けてもらったほうがいいです。自分一人で抱え込まずにぜひ弱みは吐いて応援してもらったほうが楽になると思います。私はもうちょっと周りの近い人に話しておけばよかったなという後悔があります。我慢しているとどんどん弱くなるのでよくありません。

――4月からは不妊治療の保険適用が始まりました。

益子直美: 金銭面の一番大事なところをサポートしていただけるのは本当にありがたいと思っている女性はたくさんいるのではないでしょうか。不妊治療はどこがゴールかわかりませんし。

子どもができて当たり前と思っている男性の方もいるかもしれませんが、全くそんなことはない。本当に子どもを授かるのは奇跡で、出産は命がけです。仕事を休んでも補助金を受け取れるとか、もっと不妊治療に理解のある社会になってほしいです。

とりつかれたように受けていた不妊治療を卒業
――益子さんが不妊治療を卒業された大きな理由は何ですか?

益子直美: 体力や年齢を考えると45歳が区切りかなと考えました。不妊治療をやめたのは、45歳の誕生日である2011年5月20日。その年の3月11日に東日本大震災が起こったのですが、震災翌日が大事な排卵日だったんです。あんなにひどい震災が起こっていて、津波がきてたくさんの被害者が出ているにもかかわらず、普通に病院に行って何事もなかったかのように治療をしていたんですよね。今冷静になって考えると異常だったなと思いますが、当時は気づかなかった。日記を読み返してみて、とりつかれたように治療を受けていたんだなって思いましたね。

――どのようにして子どもが欲しいという気持ちに折り合いをつけられたのでしょうか?

益子直美: 最初はなかなかあきらめがつかなかったのですが、卒業直後に湘南に移住したことで、自然と気持ちが切り替わりました。主人と仲良く暮らして、二人でいろんなところに行ったりして、湘南ライフがすごく楽しかったんです。これはこれでありだなと感じるようになりました。

小学生を対象にしたバレーボール大会を始めたのも大きいですね。子どもたちと触れ合うことでかわいいし、楽しいし。なおさら子どもたちって宝だなと思いました。子どもがいない生活ですけど、子どもと触れ合う機会が多いので、それはそれですごくありがたいなと思っています。

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益子直美
1966年生まれ。東京都出身。元バレーボール全日本代表選手、タレント、スポーツキャスター。中学入学と同時にバレーボールを始める。高校卒業後はイトーヨーカドーに入団。全日本メンバーとして世界選手権2回、W杯に出場を果たす。1992年に現役を引退。タレント、スポーツキャスターなど幅広く活動するほか、監督が絶対に怒らないことをルールにした「益子直美カップ小学生バレーボール大会」も主催する。

文:姫野桂
制作協力:BitStar

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