日ハム最終年のダルビッシュ有

ダルビッシュ有、日ハムでと言わず、東北高でも甘やかされて来た。羽曳野で評判の投手、野球で宮城県の東北高にスカウトされて行った。

ダルビッシュに、野球の特待で東北高に行くコトの責任や意味をドコまで理解させたのだろうか?私立高にとって、人材獲得はビジネス、投資だ。高校野球として、ターゲットは全国レベル大会での優勝ではない?ソレをカレに理解させ、育成したのか?

全く、甲子園歴代優勝投手らとはメンタルが異なる。フォア・ザ・チームの熱は、キャプテンやってもなかった。監督に明日の決勝、自分は投げないと宣言するエース、知る限り後にも先にもカレだけだ。カレの部活卒業後、東北高はガタガタ、だから、翌年の言い訳として、カレの野球部員期間中の喫煙飲酒写真をリークし、翌年の活動を自粛した。

日ハム、カレを最初から腫れ物扱いだった。確かに、良いタマは投げていたし、先輩捕手の言いなりではなく、自分の配球を通した。ただでもインサイドワークに不足の日ハム捕手陣に、サインに首を振るだけでなく、両手拡げポーズもやり、メジャーでもやっていた。防御率優れていても、故障離脱も多かった。故障リハビリの最中の合コンで、紗栄子に引っ掛かり、プライベートもガタガタになった。カレ自身、自分やチームが勝つコトにすら価値感はない。単に、打者との勝負でスゴいピッチングがデキたら、ソレで良いのだ。佐々木朗希は、カラダの成長とタマのスピードで、国保監督始め周囲が祭り上げてしまったが、ダルビッシュ有は球団が祭り上げてしまった。あのイラン人オヤジも交渉に出て来た。大した成績でなくても、バカみたいに年俸がハネ上がった。カレがヘンな偏った理論に傾倒し、タブレットや筋力増体重増に傾いても、チーム内誰もストップをかけられなかった。

この4・50年のバカな政治家達同様、自分で勉強してないから、専門家に1つ都合良い理論を見付けるとドップリ浸かる。決して、対論を調べたりしない。だから、その偏った理論にひたすら浸り、トミー・ジョン手術に自分だけでなく大谷翔平も巻き込んだ。藤浪晋太郎は浸り方が中途半端だったから、ノーコンになっただけで済んだ。

タマの威力を増すために、体重をバカ増しし、肩ヒジの筋肉筋力増強した。自ら、強いピッチングマシンになった。そして、ピッチングマシン同様、スプリングに当たる腱断裂した。

ソコに至る過程、日ハム監督はヒルマン⇒梨田だった。カレらも、ダルビッシュ有にフォア・ザ・チームを植え付けるコトはデキなかった。腫れ物のように扱い、故障の恐れを感じたら、起用しなかった。ヒルマン最終年の時、巨人との日本シリーズ初戦、腰痛押し手投げで5回まで投げた例があっただけだ。

カレの日本最終年、終盤腰痛で登板予定を飛ばした。梨田監督はカレを起用せず、楽天マー君はシーズン終盤に勝ち星を伸ばし、逆転した。ダルビッシュ有が、アメリカに来た梨田サンを取材シカトした理由はソレだ。そのコトを暴露した金村義明、ちゃんと全てわかっていたのかな?

自分のため、チームのため、勝つためにマウンドに立つメンタルに雲泥の差があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

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野村克也が絶賛した「完ぺきに近い投手」ダルビッシュ…敵なし状態の11年前、なぜ沢村賞を逃した? 立ちはだかった“もう一人の天才”とは
6/17(金) 11:02 Yahoo!ニュース
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プロ野球史上No.1投手を探る旅」。金田正一田中将大に続く第3回は、あの野村克也氏が「平成最高の投手」と評したダルビッシュ有だ photograph by BUNGEISHUNJU
 プロ野球史上No.1投手を探る旅 第3回「ダルビッシュ有

 大投手のベストシーズンの成績を比較して、日本プロ野球史上No.1投手を探る旅。金田正一田中将大に続く第3回は、あの野村克也氏が「平成最高の投手」と評したダルビッシュ有だ。

【秘蔵カット】ガリガリダルビッシュ高校1年時、あの大谷翔平より背が高い?“肩を組む”楽しそうなダル&大谷のツーショット、カッコよすぎる日本ハム時代など、記事写真を一気に見る

 2019年4月、テレビ番組の「平成ベストナイン」を選ぶ企画で、野村氏は先発投手部門でダルビッシュを1位に選んだ。

 平成の沢村賞受賞者を振り返ると、斎藤雅樹(巨人)にはじまり、野茂英雄(近鉄)、上原浩治(巨人)、松坂大輔(西武)、斉藤和巳(ソフトバンク)、岩隈久志(楽天)、田中将大(楽天)、菅野智之(巨人)といった錚々たるメンバーが並ぶ。その中でも、慧眼の野村氏が1位に選んだダルビッシュは、“史上最高の投手”有力候補といえるだろう。

 野村氏は、その著書『最強のエースは誰か? 』(彩図社)などでダルビッシュを、「150キロ台後半のストレートを持ちながら、スライダー、カーブ、ツーシームカットボール、スプリット、チェンジアップといった七色の変化球を操り、その全てが一級品。ストレート、変化球、どのボールでもストライクが取れる。加えて、野球頭脳も優秀で、試合中に状況に合わせて投球を変えることができる。本格派にして技巧派。過去にこのような投手は存在しなかった。投手としての能力は、ほぼ完ぺきに近い」と絶賛している。

筆者が見た“高校生ダルビッシュ”の衝撃
 筆者は、2003年夏の甲子園大会で東北高校ダルビッシュを見ている。3回戦の平安(京都)戦で、一塁側ベンチの真上の観客席、つまり投手をほぼ真横から見る位置にいたが、初回にダルビッシュがマウンドに上がったとき、まず196センチというその背の高さに驚いた。

 そして、軽めに投げていた投球練習時とはまるで違う、力の入った初球――。地面に叩きつけるように投げられたボールが浮き上がるようにしてキャッチャーミットに収まったのを見て、度肝を抜かれたものだ。

 そこで思い出したのが江川卓である。再度私事で恐縮だが、大学時代、野球部だった筆者は、法政のエースだった江川と神宮球場で対戦経験がある。183センチと当時としては長身だった江川を打席から見ると、実際の距離より前にいるように感じて威圧感を受けたものだ。

 そんな江川より遥かに大きい196センチのピッチャーが、オーバーハンドから150キロ近いストレートを投げ下ろしてきたら……。高校生にはとても打てないだろうと感嘆したのをよく覚えている。

史上唯一の5年連続防御率1点台
 ダルビッシュは高校卒業後、05年に日本ハムに入団。12年にテキサス・レンジャーズに移籍するまでの7シーズンを日本でプレーし、通算93勝38敗、勝率.710、防御率1.99の成績を残した。

 7割超えの勝率と1点台の通算防御率は驚異的な数字といえる。特に、07年から11年までの5年連続防御率1点台は、投手優位だった昭和の時代の金田正一稲尾和久村山実といった大投手たちも成しえなかった日本プロ野球記録である。

 相手チームからすれば、「9回の攻撃で2点取れない」投手。だから、好調時のダルビッシュが先発すると、相手は「今日は負け」と試合前から士気が上がりにくいケースもあるだろう。それが「日本では戦うモチベーションを保つのが難しくなった」と、もともとメジャー志向はないと公言してきたダルビッシュが渡米する一因になったのかもしれない。

 では、それほどまでに圧倒的だったダルビッシュの日本におけるベストシーズンはどのような成績だったのか見てみよう。

日本時代、ダルビッシュのベストシーズンは?
 ダルビッシュは、入団3年目の07年に沢村賞、07年と09年にパ・リーグMVPを受賞しているが、投手成績から見たベストシーズンはメジャー挑戦前年の11年と考える。 

 この年、ダルビッシュは25歳。余談だが、これまでとりあげてきた金田正一田中将大のベストシーズンも同じく25歳というのは面白い。

ダルビッシュの成績
【07年】登板26 完投12 完封3 勝利15 敗戦5 勝率.750 投球回207.2 被安打123 与四球49 奪三振210 防御率1.82 WHIP0.83
【09年】登板23 完投8 完封2 勝利15 敗戦5 勝率.750 投球回182.0 被安打118 与四球45 奪三振167 防御率1.73 WHIP0.90
【11年】登板28 完投10 完封6 勝利18 敗戦6 勝率.750 投球回232.0 被安打156 与四球36 奪三振276 防御率1.44 WHIP0.83

 2011年のダルビッシュは、登板、完封、勝利、投球回、与四球の少なさ、奪三振防御率、WHIPで自己ベストを記録している。より多く投げ、より多く勝ち、より多く三振を奪い、四球を出さず、点を与えない。この年が日本ハム在籍時代のダルビッシュのベストシーズンで間違いないだろう。

 ところが同年、ダルビッシュ沢村賞を受賞していない。25試合以上登板、完投10試合以上、15勝以上、勝率6割以上、200投球回以上、150奪三振以上、防御率2.50以下という、沢村賞の選考基準を全て十二分にクリアしているにもかかわらずである。

二人の若き天才が激突した2011年
 この年、沢村賞を受賞した人物こそ、楽天田中将大である。その成績は以下の通りだ。

田中将大の成績
【11年】登板27 完投14 完封6 勝利19 敗戦5 勝率.792 投球回226.1 被安打171 与四球27 奪三振241 防御率1.27 WHIP0.87

 二人の若き天才が激突した2011年、ダルビッシュは、登板数、投球回、奪三振、WHIPで上回り、田中は完投数、勝利数、勝率、防御率で上回っている。

 ほぼ互角にも見えるが、沢村賞の選考基準7項目で見てみると、ダルビッシュが3項目、田中が4項目を制した。その点、どちらか一人を選ぶ必要がある沢村賞で、田中が選ばれたのは妥当と言えるだろうし、ダルビッシュにややツキがなかったと言えるかもしれない。

 さて、同企画の“チャンピオンベルト”を現在保持している1958年の金田正一との比較である。

・現状、ダルビッシュのベストシーズンである2011年の数字が僅差ではあるが田中に敗れた
・すでに田中が金田に判定負け(第2回)している

 以上の点から、金田の防衛成功とする。

 ダルビッシュは、防御率1点台を続けた2007年から11年にかけて、毎年沢村賞を狙えるような素晴らしい成績をあげ続けたにもかかわらず、実際に受賞できたのは07年のみ。2011年の田中のように突出した成績をあげた投手が他にいて、沢村賞争いで敗れた。

 対して田中は、楽天の7年で11勝、9勝、15勝、11勝、19勝、10勝、24勝と、一年置きに好不調を繰り返しながら、2011年と13年に突出した成績をあげて、その年に沢村賞を受賞している。

「理想の投手を形にするとダルビッシュになる」
 ちなみにダルビッシュは、2年後輩の田中に「勝とうと思えばいくらでも勝てるが、チームのために徹底的に内角攻めをして相手打線を狂わせるような投球をすることもある。お前もエースならそんな投球をしろ」と語ったという(出典:『絶対エース育成論 なぜ田中将大は24連勝できたのか? 』佐藤義則著/竹書房)。

 また、「自分は野球がそれほど好きではない。自分が好きなのは変化球を研究することと、変化球を操って打者を翻弄すること」とも。

 ダルビッシュは、目先の勝利に汲々とするような投手ではないのだろう。160キロに迫るストレートを見せ球にして、変化球を駆使して打者を翻弄する。そんな遊びの要素を盛り込んだ投球を繰り返しながら、メジャーでも最多奪三振最多勝のタイトルを獲得。13年と20年の2度、サイ・ヤング賞の投票で2位となり、年俸2500万ドル(現在の1ドル134円で換算すると34億円)という日本人プロ野球選手としては史上最高年俸を手にするまでに上りつめた。

 美しくダイナミックな投球フォームで、アメリカでも「理想の投手を形にするとダルビッシュになる」とまで評価される天才投手――今後のさらなる活躍に期待したい。

 次回は、野村氏が「史上最高の技巧派投手」と評した、稲尾和久日本記録となる42勝を挙げたシーズンを検証してみよう。
(「プロ野球PRESS」太田俊明 = 文)

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