平成のエース?活躍エリア考えたら、答えは一択だ!

まず、昭和の大エースを考えたら?まず、金田正一ら、400勝最多勝から300勝の重鎮がいる。当時は日米野球くらいしか、他のステージがなく、そうなれば、NPB勝利数そのまましかなくなる。もちろん、昭和終盤にはアメリカとの交流も多少でき、日本人投手の名前も知れ始めたが、アマチュア野球での勝ち負けくらい。ロス五輪では公開競技ながら、アメリカや台湾らを下して金メダルを獲った。アマとして、荒井や古田や野茂らも参加していた。

平成になると、五輪もプロ参加が可能になった。松坂や岩隈らも早々に参加したが、国際大会でも優勝準優勝には絡めなかった。孫正義が、アメリカMLBの要求を何でも受け入れ第1回WBCを始め、ソフトバンク&ロッテ主体の日本代表が、誤審他を克服の末制した。北京五輪には、星野が中日と阪神でのリーグ優勝に次いで、北京五輪制覇⇒巨人監督就任を目論んだが、ハナからトーナメントを勝ち抜くデータ収集を疎かにし、売名目論んでダルビッシュ有について来た紗栄子の件で関係悪化し惨敗した。本来、その年の日本一監督を第2回WBC監督にするハズが、原辰徳の巨人は渡辺久信の西武に負けた。経験浅いというコトで、原辰徳に落ち着いた。韓国に再三負けながら、アメリカ救済用に設定したルールに救われ第2回WBCも制した。

この2回のWBC、どちらもキューバを倒したエース・松坂大輔、カレしか出ない。第1回は対外試合無敗のエース・上原浩治の予定が、韓国を渡辺俊介和田毅では止められず、上原が行くしかなかった。

第3回以降のWBCは勝てなくなったし、第1回プレ12も韓国戦の継投ミスで逆転負けした。

令和になって、第2回プレ12と東京五輪を稲葉監督で制した。エースはオリックス・山本由伸に、楽天田中将大や広島・森下暢仁、中継に伊藤大海、抑えに広島・栗林良吏という編成だった。

ざっくり振り返って、西武で高卒3年連続最多勝と日本一、プロ参加認められた五輪他の参加、第1・2回WBCの2大会連続MVP、MLBレッドソックスでシリングと共にワールドシリーズ制覇と、殆ど全てを成し遂げた。以後の惨状、ソフトバンク3年12億は、恩給くらいにしか思ってないだろう。

しかし、松坂大輔しかいない。

 

 

 

 

 

 

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斎藤雅樹野茂英雄松坂大輔…「平成の大エース」で連想する投手は?
6/22(水) 11:01 Yahoo!ニュース
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「平成の大エース」で思い浮かべる投手は誰だろうか。中日で通算219勝を挙げた左腕・山本昌、日米通算170勝をマークした岩隈久志ダイエーソフトバンクで活躍した斉藤和巳と球界を代表する名投手たちが頭に浮かぶ。パドレスダルビッシュ有楽天田中将大、巨人・菅野智之エンゼルス大谷翔平ら現役の投手も有力候補だ。その中で特にエースとしての存在感が強烈だったのが、以下の3投手ではないだろうか。

【選手データ】斎藤雅樹 プロフィール・通算成績

沢村賞3回受賞のサイド右腕
 
スタミナをはじめ、すべてが一級品だった斎藤
斎藤雅樹(巨人)
NPB通算426試合登板 180勝96敗11S、防御率2.77

 斎藤が名球会入りしていないことを意外に思う人は多いのではないだろうか。通算勝率.652という圧倒的な数字が絶対的エースとしてのすごみを物語っている。

 入団当時はオーバースローだったが、当時の藤田元司監督が投球時の腰回転がサイドスロー向きだったと分析してフォーム改造へ。プロ3年目の1985年に先発、中継ぎとフル回転して12勝を挙げた。サイドスローだが技巧派ではない。140キロを超える直球をストライクゾーンに投げ込み、相手打者をねじ伏せる。ストライクゾーンから右打者の外角に曲がるスライダーとのコンビネーションで凡打の山を築いた。

 89年に11連続完投勝利の日本記録を達成し、自身最多の20勝で最多勝最優秀防御率、平成初の沢村賞を受賞。90年も8試合連続完投勝利を挙げるなど2年連続20勝で最多勝最優秀防御率を獲得し、MVPにも輝いた。最優秀防御率3回、最多奪三振1回獲得。92年に17勝、95年に18勝、96年に16勝と計5度の最多勝に輝き、史上4人目の沢村賞を3回受賞した。

「斎藤が投げる試合は勝つ」とチームメートに全幅の信頼を置かれ、球威、制球力、スタミナとすべてが超一級品だった。

日米を席巻したトルネード
 
トルネード投法から剛速球、フォークを投げ込んだ野茂
野茂英雄(近鉄ドジャース、メッツほか)
NPB通算成績139試合登板、78勝46敗1S、防御率3.15
MLB通算成績323試合登板、123勝109敗、防御率4.24

 日米の野球界に革命を起こしたのが野茂だった。背番号が見えるほど上半身を大きくひねり、豪快に投げ込む「トルネード投法」で三振の山を築く。社会人野球・新日鉄堺のときにソウル五輪で銀メダル獲得に大きく貢献。近鉄に入団すると、新人の90年に18勝8敗、防御率2.91で最多勝最優秀防御率最多奪三振のタイトルを獲得。同年から4年連続最多勝最多奪三振と球界を代表する右腕として活躍する。150キロを超える直球と落差の鋭いフォークで打者はバットに当てることさえ困難だった。

 94年オフに近鉄を退団するとメジャーに挑戦。日本人投手が活躍した前例がなかったため活躍に懐疑的な見方が少なくなかったが、メジャー移籍1年目の95年にドジャースで13勝6敗、防御率2.54と大活躍。236奪三振でアジア出身の選手では史上初のタイトルを獲得した。翌96年に16勝、97年に14勝を挙げてエース格になり、トルネード投法は米国でも社会現象に。メジャーで計7度の2ケタ勝利をマークし、レッドソックスに在籍していた2001年も220奪三振と2度目のタイトルを獲得した。

 日米通算201勝の記録以上に、メジャーで初めて活躍した日本人選手として未知の道を切り拓いたことは大きな価値がある。

時代の象徴「平成の怪物」
 
西武で高卒1年目から剛腕を発揮した松坂
松坂大輔(西武、レッソドックス、メッツほか)
NPB通算219試合登板、114勝65敗1S、防御率3.04
MLB通算158試合登板、56勝43敗1S3H、防御率4.45

 球界を席巻した1980年生まれの「松坂世代」。この世代は名球会入りした選手が現時点で1人もいないが、世代の象徴として輝いた松坂大輔はエースが似合う怪物投手だった。

 横浜高3年時に甲子園で春夏連覇を飾るなど公式戦44連勝無敗。西武に入団すると、高卒1年目の1999年に16勝5敗、防御率2.60で最多勝、ゴールデン・グラブ賞、新人王、高卒新人で史上初のベストナインを受賞する。2000年に14勝、01年に15勝で3年連続最多勝を飾り、03、04年と2年連続最優秀防御率を獲得。最多奪三振のタイトルも4度受賞している。05年は14勝13敗、防御率2.30。15完投、215投球回、226奪三振はいずれもリーグトップとタフだった。

 06年も第1回WBCで大会最多となる3勝、防御率1.38をマークして侍ジャパンを世界一に導き、大会MVPに。シーズンも17勝5敗、防御率2.13。ドラフト制度導入後最速の191試合登板で100勝を達成する。海の向こうに渡り、レッドソックスで07年に15勝、08年に18勝と28歳の時点で通算141勝をマーク。09年には第2回WBCで3勝を挙げて世界一連覇に貢献し、2大会連続MVPに輝いた。

 30代以降は右肩痛、右ヒジ痛、股関節痛などたび重なる故障に苦しんで全盛期の投球フォームを取り戻せなかったが、その活躍は色褪せない。

写真=BBM
週刊ベースボール

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