巨人吉村、自動車事故で肩と足負傷、カバー必須だった!

巨人藤田監督3年目、背番号50番駒田は満塁本塁打デビュー、51番吉村はタイムリー、54番槙原は阪神戦力投、50番トリオとして売り出した。西武との日本シリーズに敗れたが、セ・リーグは制覇していた。戦力としては、最高の状態で王監督に渡したハズだった。

しかし、王監督は1人でチームを破壊した。

駒田に、打撃スタイル的に合うワケないのに、ムリヤリ一本足打法をやらせようと、荒川道場に幽閉した。道場脱走した駒田を、王監督は閑々干しにした。

吉村は、駒田の閑々干しに依り、繰り上がり優遇。増長した吉村は飲み食いクルマ、自動車事故で肩と足を故障抱え、打つだけの選手に成り下がった。守備範囲と返球共難を抱えた、左翼手吉村をカバーすべき守備固め要員が中堅手栄村だった。数年前、右肩負傷し10mも投げられない左翼手カネモトを遊撃手鳥谷がカバーしていたのに近い。

第1期長嶋後半以降、王は江川を嫌い、西本を優遇した。江川も、バースに王の連続試合本塁打記録を消させた。長嶋派定岡もトレードひけらかして引退させた。

自らのシーズン記録55本を守るため、斉藤雅にバース全打席敬遠を堀内投手コーチに指示させ、数年ツブした。

そうした醜態を見て、中畑や篠塚は冷ややかに過ごした。

栄村は王監督に閑々干しにされ、飼殺し状態で終わったハズ。

吉村負傷後、仕方なく駒田を起用したが、駒田は巨人選手に珍しくFAし、横浜に移籍した。

王監督辞任後、藤田監督再登板した。

初年度に近鉄に3連敗後4連勝し、日本一になったが、中畑引退したハズ。以後、藤田監督は日本一なく辞任し、第2期長嶋に譲ったハズ。

 

 

 

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巨人元監督・藤田元司は大ケガを負った吉村の復帰に「一方が悪者になったままじゃいけない」と言った
6/19(月) 9:06 Yahoo!ニュース
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栄村と激突した吉村(手前)/(C)日刊ゲンダイ
プロ野球名選手 心に響くひと言】#4

 藤田元司(巨人元監督)

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 その不幸な「事故」が起こったのは1988年7月6日、札幌円山球場の巨人―中日戦。八回、中日・中尾孝義の打球を追った左翼・吉村禎章と中堅・栄村忠広が交錯し、吉村が左ヒザの4本の靱帯のうち3本を断裂、神経までをも損傷する大ケガを負ったのだ。

 吉村はすぐ渡米し、スポーツ医学の権威フランク・ジョーブ博士によって手術を受けた。しかし、ケガの状態は予想以上にひどく、博士が「スポーツ選手のケガでこれほどまでにひどいものは見たことがない」と驚いたほど。障害者認定を受けられるレベルだった。

 1年間の厳しいリハビリに耐えた吉村が復帰したのは89年9月2日、東京ドームのヤクルト戦。「代打吉村」がコールされるとドームは敵も味方も関係のない温かい歓声と大きな拍手に包まれた。

 その後の吉村は、かかとから足をついて歩けないというプロ野球選手としては致命的な後遺症を抱えながらも、90年にはリーグ優勝を決める劇的なサヨナラ本塁打を打つなど代打の切り札として98年に引退するまで17年間活躍。入団当初から天性の高い身体能力と卓越した打撃センスを持ち、ケガがなければ3000安打も夢ではなかったと言う人も少なくない。

 吉村の復帰を応援し、温かく見守ったのが監督の藤田元司だ。藤田は長嶋茂雄の後を受け81年から83年まで指揮を執った後に退任、89年からは王貞治に代わって再び監督の座についていた。

 藤田は現役時代、そのスマートな外見と慶大出身ということから「球界の紳士」と呼ばれていた。その一方で「瞬間湯沸かし器」のあだ名がつけられていたほど極めて短気な性格であり、怒ると手がつけられなかったが、基本的には他人を思いやる優しい人柄で多くの球界関係者から慕われた。

「いや、まだダメなんだよ」栄村を思いやる言葉
 
球界の紳士」と呼ばれた藤田元司監督(当時)/(C)日刊ゲンダイ
 吉村の復帰から数日後、藤田は熱狂的な巨人ファンであるコピーライター糸井重里と会った。

「吉村が戻ってきて本当によかったですね」

 糸井が言うと藤田は、

「いや、まだダメなんだよ。吉村が治ったとしても、もう一方が悪者になったままじゃいけないんだ。栄村が何らかの形で活躍しないとね」

 と自分に言い聞かせるように言ったという。

 事実、事故の後、栄村への誹謗中傷は目に余るものがあった。大ケガを負った吉村に対して栄村は全くの無傷だったこともあってか、栄村を加害者のように考える心ない人も多かった。藤田は栄村が悪者になっていることに人知れず心を痛めていたのである。

(清水一利/ライター)
 
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