駒田徳広、要らなかった荒川道場幽閉!

駒田は吉村と槙原と巨人軍50番トリオと称され、将来を嘱望された。あの初打席満塁ホームランから、王助監督から荒川道場に幽閉され、脱走して、その後昇格した王監督から干された。

吉村が栄村と衝突し、大ケガ負って戦列を離れたコトで、駒田を干し続けるワケに行かなくなり、仕方なく戦列に戻した。

第1期長嶋監督の遺産で、藤田監督は3年で2度リーグ優勝し1度日本一になった。しかし、王監督ではその遺産を干し、腐らせ、喰いツブした。具体的には、江川には選手時代迫害した借りを返され、西本は使われ過ぎて故障、松本は待てのサインで走れなくなり、中畑や篠塚は体良く手を抜いた。結局、1度しかリーグ優勝できず、再度藤田監督に譲った。

駒田は故障したワケでもないのに、王らに干された時間も長かった。また、マセラティー・ボーラなど、クルマも好きで、ベンツやBMW党の多い巨人では面白くなかったろう。

出て行って、横浜で伸び伸びできたろう。しかし、権藤監督に代打を出されて亀裂が入って、出番を減らされたのが、残念だった。

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巨人からFAして2000安打 球界屈指の守備能力も定評のあった強打者は
1/19(水) 11:01 Yahoo!ニュース
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ミート能力の高い打撃
 
パンチ力を兼ね備えた打撃で巨人の勝利に貢献した駒田
 1993年のオフに導入されたFA制度。これまで最も多くFA宣言した選手を獲得したのは巨人で28人だ。一方で巨人からFA宣言して他球団に移籍した選手は駒田徳広松井秀喜小久保裕紀高橋尚成上原浩治大村三郎(サブロー)、鶴岡一成小笠原道大の8人。このうち、松井、高橋尚、上原はメジャー移籍で、小久保、大村、鶴岡は入団時に所属していた古巣に復帰した。小笠原は当時40歳とキャリアが終盤を迎え、球団に功労者として尊重された上で、話し合いを重ねてFA宣言で中日に移籍となった。その中で、レギュラーでバリバリ活躍していた駒田が横浜(現DeNA)にFA移籍したのは、球団史上稀有なケースと言えるだろう。

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 駒田の代名詞は「満塁男」だ。通算195本塁打のうち満塁弾が歴代5位タイの13発、15本に1本が満塁アーチとド派手な一発が多かった。プロ入り前から、その片鱗はうかがい知れる。桜井商高3年の夏、県大会決勝戦で満塁の場面で敬遠され、投手として登板した際に満塁からの押し出しの末に満塁弾を許し、さらに再び打者として1点差に迫る満塁弾を放った。自身の乱調で2ケタ失点と甲子園には届かなかったが、高校通算43本塁打と名の知れたスラッガーだった。

 巨人にドラフト2位で投手として入団したが、すぐに野手に転向する。高卒3年目の83年4月10日の大洋戦で日本プロ野球史上初となるプロ初打席満塁本塁打を右翼席に放つ。同年は86試合出場で12本塁打。長距離砲として将来を嘱望された。

 だが、順風満帆とはいかなかった。その後は一本足打法に挑戦したがうまくいかず、中距離打者として活路を見出す。87年に一塁のレギュラーに定着するとシーズ打率3割を4度マーク。身長191センチと大柄だが打撃は柔らかくミート能力が高い。低めの変化球を左前に運ぶなどバットコントロールに長け、広角に安打を打ち続けた。ボール球をヒットゾーンに打ち返すことで「悪球打ち」と話題になったことも。92年には27本塁打をマークするなど甘く来た球はスタンドに運ぶパンチ力も兼ね備えていた。

 一塁の守備も「球界屈指」と評価が高かった。ハンドリングが巧みでショートバウンドの送球をきっちり捕球する。一、二塁間に抜けそうな打球やライン際の打球も俊敏な動きで好捕した。ゴールデン・グラブ賞10回は一塁で歴代最多記録だ。

 89年の日本シリーズ近鉄に3連敗と崖っぷちに追い込まれた後に4連勝で日本一に輝いたが、駒田は7戦目の2回に加藤哲郎から右翼上段へ先制アーチを放つなど打率.522と打ちまくってMVPを受賞した。

横浜でマシンガン打線の五番
 
横浜に移籍後、五番として打線をけん引した
「球団の顔」として活躍していた駒田だったが、首脳陣との行き違いもありFA元年の93年オフに横浜にFA移籍を決断する。この時は同じ一塁の中日・落合博満がFA宣言して巨人が熱心に獲得に動いていた背景もあった。

 31歳で新天地に移籍した駒田はプレーでチームを引っ張る。移籍1年目の94年から5年連続全試合に出場。切れ目のない破壊力抜群の「マシンガン打線」で五番を担った。98年は38年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献。西武との日本シリーズでは日本一を決めた第6戦で0対0の8回に西口文也から決勝2点適時二塁打を放ち、優秀選手に選出された。00年には通算2000安打をマーク。同年限りでユニフォームを脱いだ。

 現役引退後は楽天、横浜のコーチを歴任。16年から独立リーグ四国アイランドリーグplusの高知の監督を4年間務めた。今年から巨人の三軍監督に就任。93年以来29年ぶりの復帰となった。

「三軍の育成の場には適任」
 球団OBで野球評論家のデーブ大久保氏は週刊ベースボールのコラムで、こう綴っている。

「三軍の監督には、駒田(徳広)さんが就任しました。2000安打を放った方なので、皆さんは一軍の打撃コーチくらいが一番いいんじゃないかと思うかもしれません。でも私は、この人事はすごくいいなあ、と感じています」

「三軍という場所、そして育成の選手たちというのは、絶対と言っていいほど、すぐには一軍には上がれませんよね。ましてやプロのレベルになるためにやらなければいけないことがたくさんあるんです。基礎から学ばないといけないのですから、じっくりと顔を突き合わせないといけない。さらに言うと、ドラフト上位ではなく下位や育成であれば、やはり覚えが悪いという言い方はよくないですが、反復練習を根気よくやっていかないとなかなか身につかない選手が多い。その中で、若いコーチ陣が一緒に汗をかいて、プレーを見せながら練習していくと、あまりにもできなさ過ぎてイライラすることも多いらしいのです。

「そのコーチ陣のイライラや、選手たちの歯がゆい気持ちを60歳くらいの監督が、その現場にいるだけで、少し和らげてくれるものなのです。特に駒田さんは、独立リーグ(四国IL・高知)の監督も長く経験されていましたから、三軍の育成の場には適任の方ですよね。そう考えると来季の巨人には大注目です」

 現役時代から野球への情熱は変わらない。三軍監督として選手の育成に全力を注ぐ。

写真=BBM
週刊ベースボール

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