東大小林&京大田中、筋肉バカと同じコトをした。

東大や京大、大学リーグでもお荷物でしかない。しかし、そんなに勝てないのか?水島新司「男どアホウ甲子園」では、南波高優勝投手主人公藤村甲子園と捕手岩風五郎ら、個性派選手が東大に入り、早大や明大を大学リーグを制した。

野球として、いくら有力選手がいっぱいいなくても、フィールドに出られるのは9人、部員数少なくても密度濃い練習がデキる。基礎体力トレーニングを欠かさず、攻守走投キチンとトレーニングできれば、アタマは良く、効率良く向上デキるハズなのだ。特に、投手は、オーバースローの本格派速球派である必要はなく、変化球投手でも違う投げ方しても良いのだ。投手は、140キロや150キロ出さないといけないワケではない。投手が120キロや100キロしか出さなければ、ソレを打たなくてはいけないのだ。

詰まるところ、今のNPBは筋肉バカばかり、選手も指導者も筋肉バカばかり。東大小林も京大田中も、確立された自分のトレーニング方法を持ってなくて、ロッテで筋肉バカ用のメニューをやらされ、こなせず終わってしまった。ダメなトレーニング、合わないトレーニングにはキチンとノーを突き付けねばならなかった。

結局、東大小林は2年、京大田中は3年で辞めさせられた。

 

 

 

 

 

 

 

**************************************

ロッテテスト入団の東大出身サウスポー小林至、わずか2年の選手生活も「あの超人気野球ゲームのモデルだった?」【逆転野球人生】
7/18(火) 11:00 Yahoo!ニュース
  44
  
誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

【選手データ】小林至 プロフィール・通算成績

東大では0勝12敗
 
テストを経てロッテに入団した小林
「ボウズ、野球が好きか?」

 元400勝投手の金田正一監督にそう聞かれた青年は、「はい」と即答した。スポーツ新聞各紙一面を独占するほどの注目度の中、ロッテ首脳陣の前で初日は36球。2日目は室内ブルペンに立ち、120キロ台前半の直球、カーブ、シンカー、フォークなどを披露する全34球の入団テスト。「よっしゃ。あとは醍醐に任せるから」とカネヤンは醍醐猛夫スカウトの名前を出してテスト合格を示唆した。そのサウスポーは小林至、当時22歳の現役東大生である。

 週べ90年12月10日号には、このテスト直後、「いいモノを持ってる。こういう子だし、人一倍努力はするはず。馬力をつけて二皮三皮むければ、短いイニングなら戦力になる」とカネヤンがロッテ本社の松井球団社長に電話を掛け、採用を直訴したことが報じられている。小林は、大手建設会社に勤める厳格な父親に「ドン・キホーテになるから、やめろ」と猛反対されるが、「お願いだからプロに行かせてくれ」と土下座して頼み、病床の母親も味方になって背中を押してくれた。

 多摩高時代は背番号11の外野手兼控え投手。3年の夏も一度も投げることなく、高校野球を終えている。進学の際、「エースになれる確率が高い」と東大を志望すると、一浪して1日12時間の猛勉強の果てに初志貫徹。身長175cmの小柄な左腕は、東大で39試合に投げ0勝12敗、防御率は6点台、チームは屈辱的な70連敗を喫した。負け続けた男は、野球を諦め切れず、プロで悲願の1勝を目指すことになる。しかし、大学4年の秋のリーグ戦のとき、新聞社の進路希望アンケートに、はっきり「プロ」と書いたにもかかわらず、冷やかしと思われたのか各社から完全に無視される選手だった。そこでテレビ朝日ニュースステーション』のスタッフに、「なんとかプロ野球にもぐりこめないでしょうか?」と相談して、ロッテ入団テストへの道が拓けるのだ。

 
東大時代のピッチング
 男の人生なんて一寸先はどうなるか分からない―――。当時の日本は未曾有の好景気で、東大野球部出身ならば就職先はいくらでも選び放題。だが、そのすべてに背を向けて、プロ野球選手への夢を追った。なお、球団から指定されたテスト日にデートの予定が入っていたが、女の子と野球という究極の二択から後者を選び、人生の大一番に臨む小林であった。

未契約の「特別練習生」として
 90年ドラフト会議では、予定通り指名はなかったものの、知人と酒を飲んでホロ酔いで乗り込んだタクシーのラジオから、「ロッテが小林至をドラフト外で獲得することを表明した」というニュースが流れてくる。こうしちゃいられない。誰に何を言われようが、もう今すぐにでもプロ入りしたい。だが、野球に打ち込むあまり卒業までの単位をまだ残していたため、東大側は二重籍を許可せず、プロ野球機構も91年からは練習生を認めないと待ったがかかる。

 結局、未契約の「特別練習生」として真っ白なユニフォーム姿のままロッテ浦和グラウンドで泥にまみれる小林の姿があった。その矢先、プロ入りの夢を誰よりも応援してくれた母を亡くすが、自宅から2時間かけて浦和に通い、さらに単位取得のため大学にも通う二刀流生活を送る。牛島和彦の投球フォームを研究し、自分はプロ野球界の中で一番下手だという危機感はあったが、リハビリ組と一緒の練習ではやれることは限られていた。当然、先輩からの「話題性だけでチヤホヤされやがって」というやっかみに近い視線も感じた。中途半端な立ち位置のまま、アスリートとして貴重な23歳の1年は、焦りとともに過ぎ去っていく。

 そうして、特別練習生としての1シーズンを過ごしたのち、91年のドラフト会議でロッテから8位指名を受けるのだ。晴れて史上3人目の東大出身プロ野球選手の誕生。といっても、指名直後に当時のロッテスカウト部長に電話を入れると、受話器越しにこう告げられたという。

「ウン、まあハッキリ言って、君はウチが欲しくて獲った選手じゃないからね。しかし、恥ずかしくない額は出すよ」

 この対応にカチンと来た小林は、入団前から球団の宣伝効果もあっただろうから年俸を上げてほしいとガチンコ交渉する。『ボクの落第野球人生』(NHK出版)によると、契約金2000万円、年俸480万円で仮契約のサインをする前に醍醐スカウトに呼び出され、「オイ、お前なにかおかしいぞ。1年前の目の輝きはどうしたんだ。“どんな条件でもいいからプロ野球に入りたい”と言っていたのはウソだったのか?」としかられたという。

 
先輩投手の牛島[左]と
 同時期に東大出プロ1号の大先輩で元大洋の新治伸治氏が、大洋漁業の中国支社長へ昇進したこともあり、週刊誌には「本社の出向社員として契約か」とか「しょせんは不人気球団ロッテの話題づくり。ロッテ本社に4人しかいない東大ブランドを買ったんじゃないの」なんて辛辣な意見もあった。過熱する周囲の反応とは裏腹に当時の小林は、吉田栄作ヘアの大人の社会に対して警戒心を持つ普通の23歳の若者だった。まだ昭和の理不尽さが根強く残る平成初期の球界において、合理主義者の小林はときに浮いた。一時は入寮も「食べさせてもらうようでイヤです」と断ろうとしたほどだ。

 だが、一方では目立つのが好きで、サービス精神旺盛なインタビューではいつも喋りすぎてしまう。「東大経済学部は出席を取らないから大丈夫」と発言したことが学部長の怒りを買い大問題に。週べのインタビューでも、90年に8球団競合でロッテが交渉権を獲得するも入団拒否を表明した小池秀郎(亜細亜大)について、「もったいないですね。いずれプロで野球をやりたいんであれば、ただでさえ短い投手生命、実働年数が減ってしまいます」と論じ、浪人を経て巨人入りした元木大介のことを聞かれると、「『巨人でやる野球』が自分の人生の目的なら、それはそれでいいと思います」と評論家のような回答を連発。「プロ野球というのは客寄せなんだから、もっと派手なユニフォームでもいいんです」なんて公言する変わり者の扱いづらい東大クン、そんな見方をされてしまうこともあった。

わずか2年間のプロ人生から
 ロッテ退団直後に出版された『ボクの落第野球人生』では、前時代的なコーチの指導法や同僚の選手批判まで並ぶが、若者特有のエクスキューズと自己正当化のように感じてしまう記述が多々あるのも事実だ。だが、引退から25年以上経った2019年の『ベースボールマガジン』のパンチ佐藤との対談では、当時の自分を客観的に見てこう語っている。

「結構、ファームずれしてしまいました。一生懸命やっている選手のことを、斜に構えて「どうせアイツは○○コーチのお気に入りだから……」なんて言っているようなグループに入ってしまいまして」

 背番号63の初登板は92年4月4日のイースタン大洋戦。大差をつけられた8回の敗戦処理だったが、強い緊張で1球目からワンバウンド投球。相手ベンチからは「オイ、ボールが届かないぞ」と野次が飛んだが、なんとか三者凡退に打ちとった。最高球速124キロの直球と90キロ台のスローカーブを駆使する左のワンポイント。プロ2年目の93年春には一軍に呼ばれ、3月21日の対日本ハムオープン戦で2回1安打無失点。24日の対オリックス戦では、7回から2番手としてマウンドへ上がり先制点を与えるも、その裏に味方が逆転してオープン戦ながらも“プロ初勝利”が転がり込む。「去年より、球そのものもまとまり、技術的にもよくなった。一軍で2試合投げたことを自信にしてほしい」と八木沢荘六監督は語ったが、開幕は二軍スタートだった。

 今思えば、若者には酷な環境である。オープン戦で登板したら一部マスコミから“客寄せ”と批判され、二軍戦でゴールデンルーキー松井秀喜と対戦すれば、評論家から「投手の球が遅すぎて迎えにいって泳がされてるな」と嘲笑される。相手ベンチの老コーチが「オレが投げたってもっと速いぞ」なんて野次ってくるのも日常茶飯事。あれだけ騒がれた“東大クン”の見出しは2年目から激減し、93年10月3日のイースタン西武戦の初先発が事実上の引退試合となった。5回5安打4失点、9つの四球を与え、試合は5回降雨コールドで負け投手に。2年間で26試合の二軍戦に投げて0勝2敗という小林の唯一の完投が、このラストゲームだった。

 わずか2年間のプロ人生。93年10月29日、ロッテの球団事務所に呼び出され、25歳で戦力外通告を受けるのだ。小林自身は、「アンダースローに変えてもう1年やりたい」と希望するも、球団側の対応は「戦力構想にない。君がもう1年やって、さらに精神的にボロボロになるよりも、1日も早く新しい社会に出たほうが君のためだ」とつれないものだった。

 現役引退後はアメリカに移住して、米国コロンビア大学経営学修士号取得。球界再編時の渡邉恒雄インタビューを収録した小林の著書『合併、売却、新規参入。たかが…されどプロ野球!』(宝島社)が孫正義の目に止まり、05年から14年まで福岡ソフトバンクホークスへ。球団取締役を務め、自身の現役時代に二軍でなかなか出場機会を貰えなかった経験から三軍制の導入に尽力するなど、気が付けば“東大クン”と揶揄する声はなくなっていた。

 そして、一軍公式戦出場のなかった選手・小林は、意外な形で野球界に大きな貢献をすることになる。『実況パワフルプロ野球6 サクセスモード公式完全ガイドブック』(双葉社)の中で、ソフト開発スタッフがこんな発言を残しているのだ。

「サクセスの原点といえば、元ロッテの小林至が書いた『僕の落第野球人生』です。理不尽なコーチの下でもがく彼の姿が描かれている、実話なんですけど。(サクセスモード初登場の)『3』では、この本が土台にありましたね」

 つまり、多くの子どもたちが人気野球ゲームを通して、小林至の野球人生を追体験しながら、プロ野球のリアルに触れたのだ。彼の無謀とも思えるチャレンジは、決して無駄ではなかったのである。

文=中溝康隆 写真=BBM
週刊ベースボール
 
 記事に関する報告

**************************************