吉井理人、経験はあるけど・・・。

吉井理人、ワタシは箕島高上野山弟の後継エースとして認識はあった。それまで、春夏連覇石井毅や上野山弟は割と小柄なエースだったが、スゴい控えがいると言われていた。また尾藤監督で優勝を期待できるかと思っていた。しかし、思ったほど甲子園にも出れず、近畿大会では清原にも放り込まれていた。上背はあったから近鉄に指名され入団。

近鉄では仰木監督優勝に貢献したが、野茂や佐々木と同時期に鈴木監督と揉めた。野村ヤクルトに西村とトレードされ日本一に貢献し、メジャーへ移籍、オリックスとロッテでも投げた。

デカい割には、ものスゴいストレートも大きなカーブもなかった。野村監督IDと古田の配球のおかげだった。あの時期は田畑もそうして復活した。メッツではバレンタイン下で働けたシーズンもあったが、数年で日本に帰って来た。

選手としても色んな指導者との経験もあるが、ハンカチ王子の件でも、今の佐々木朗希を甘やかしてる感じでも、あまり好感はない。

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監督と衝突してトレードされた吉井理人は、なぜ野村ヤクルトで先発として成功できたのか?【逆転野球人生】
12/12(月) 11:02 Yahoo!ニュース
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誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

【選手データ】吉井理人 プロフィール・通算成績

ブリリアント・ストッパー”と呼ばれて
 
140キロ台後半の直球と鋭いシュートを武器にした吉井
 その投手は、喜怒哀楽が激しく、気の短い若者だった。

 寮の食堂で二軍監督に説教されたことに腹を立て、殴りかかろうとしたら先輩選手たちに後ろから羽交い締めにされた。リリーフの役割には、「先発さしてくれるなら、したいです。あんまり人助けするような性格じゃないスからね」とうそぶき、相手チームの四番打者に死球を当てれば、「死球でブツブツ言うならもう一球投げたろうか」なんて発言して問題になったこともある。球団の垣根を越えた同世代のプロ野球選手の集まりには、一度も顔を出したことがない。グラウンドで対峙する選手はみんな倒すべき敵だという意識が強くあったからだ。

 その男、凶暴につき―――。吉井理人は、和歌山県の箕島高から83年ドラフト2位で近鉄バファローズへ入団。小・中・高とあの名球会投手・東尾修と同じ経歴で、身近なプロ野球選手として憧れたという。プロ入り直後に、投手コーチから投球フォームをいじられ、頭が混乱してしまい満足に投げられなくなってしまうが、3年目の86年にはウエスタン・リーグで7勝5敗、防御率2.68という成績でベースボール・マガジン社が選ぶ“ビッグホープ賞”を受賞。するとプロ初勝利をあげた翌87年の夏、ヘッドコーチの仰木彬から「来年はええとこで使うからな」と声をかけられた。

 その時の驚きと嬉しさを自著『吉井理人 コーチング論: 教えないから若手が育つ』(徳間書店)の中で、「(4年目終了時で)たったの2勝しかしていない、ぺーぺーの若手だ。そんな投手に対し、次のシーズンで重用すると言っているのだ。奮い立たないわけがない。僕は期待に応えたくて、その年のオフ、心を入れ替えてめちゃくちゃ練習した」と振り返る。そして、実際に88年から監督に就任した仰木は宣言通り春先から吉井を抑え投手として使った。

 140キロ台後半の直球と鋭いシュートを武器に4月の月間MVPに選ばれる活躍で、週べ88年6月6日号のHotインタビューに早速登場。“ブリリアント・ストッパー”と呼ばれることについて、「なんか恥ずかしいですよ。「華麗なる救援投手」ですか。別に華麗じゃないですけどね。カレーは好きですけど」なんつって軽くボケる吉井。モットーは、同僚のオグリビーが持っていたボールに書かれた「kill or be killed(殺るか殺られるか)」。その度胸と向こうっ気の強さを買う権藤博投手コーチからも、攻めの投球を叩き込まれた。

「コーチはインコース攻めろとはいってますけど、あの人がいうのは、どんなコース、球種でも、心配せずにストライクを投げろと。だから、インコース行け、行けってことじゃないんですよ。攻めのピッチングということですね。ビビってちゃ、しようがないですから」

仰木近鉄のV1に貢献
 
89年は後半に復調して近鉄の優勝に貢献した[左は権藤コーチ]
 年俸650万円、近鉄沿線・富田林の家賃7万7000円の2LDKマンションでひとり暮らしをする右腕は、節約のため弁当持参で藤井寺球場入りすることもしばしば。高校時代にバンドを組んでおり趣味はベースを弾くこと。同僚投手と麻雀を楽しみ、好きなタレントは中山美穂という23歳は、5月終了時で6勝5セーブ、防御率1.65と不敗の快進撃を見せたのである。初めてのオールスター戦も経験し、最終的に50試合に投げ、10勝2敗24セーブ、防御率2.69で最優秀救援投手を受賞。秋の日米野球で大リーガーの迫力に触れると、メジャー・リーグのビデオを取り寄せてロッカールームで食い入るように見た。アスレチックスのクローザー、デニス・エカーズリーを真似して後ろ髪を伸ばしたのもこの頃だ。

 あの連勝すれば優勝というロッテとの伝説のダブルヘッダー“10.19決戦”の第1戦では、9回にマウンドに上がるも際どい判定に熱くなり審判にクレーム。なんとかエース・阿波野秀幸のリリーフに助けられ逃げ切るも、スタンドやベンチは異様な熱気で、初戦が終わると吉井は川崎球場の風呂場に直行して、シャワーを浴びて頭を冷やした。

 王者西武をあと一歩まで追い詰めるもわずかに届かず、雪辱を期した翌89年は先発転向志願も不調に陥るが、後半戦に復調。5勝5敗20セーブ、防御率2.99で仰木近鉄のV1に貢献した。優勝決定試合で普段は先発の阿波野のリリーフ登板で胴上げ投手の栄誉を奪われた形になり、吉井はロッカーでグラブを叩き付けて怒った……というエピソードは有名だが、のちに自著『投手論』(PHP新書)の中で、「どうして自分ではなかったんだという思いはあったが、不貞腐れるほどではなく、ブルペンで投げているうちに試合が終わってしまい、出ていくにもタイミングを逸したしまったというのが真相だ」と明かしている。しかし、吉井に試合後「すまん」と謝った投手コーチの権藤は仰木監督とぶつかり、チームを去った。

監督との関係が修復不可能に
 人の入れ替わりの激しいプロの世界、かつて自分が先輩の椅子を奪って成り上がったように、やがて後輩の突き上げを受ける。吉井も右ヒジ痛を抱え、年下の赤堀元之にクローザーの座を奪われ、徐々に登板数を減らすと93年には先発転向。翌94年には右ふくらはぎ肉離れで出遅れながら7勝をあげるも、6月7日のロッテ戦で5回途中1失点にもかかわらずマウンドから降ろされた吉井は、グラブをベンチに叩きつけ、それが監督批判と受け取られペナルティ。さらに9月25日のロッテ戦でも、途中交代を告げられると怒り、マウンドを降りる際、コーチにボールを渡さず、なんと自らボレーキックする造反行為で厳重注意と二軍落ち。上から締め付ける鈴木啓示監督との折り合いは悪く、もはや関係は修復不可能で、ボス直々に「お前を使うつもりはない」と事実上の戦力外通告を受けるほどだった。

 近鉄時代を振り返った雑誌『BART』(集英社)の座談会によると、実は吉井の入団1年目にふたりには因縁があった。まだ現役だった鈴木と風呂で一緒になってしまい、直後に先輩選手から「鈴木さんが怒っている」と呼び出され、部屋まで謝りに行くと「ワシが若い頃は、先輩が風呂から上がるまで部屋で筋トレをして待っとったもんや」と300勝投手から30分間も説教された。なんて面倒くさいおっさんなんだ……じゃなくて、昭和の体育会系の縦社会に嫌悪感すら覚えた。これらの経験は吉井自身が指導者になった際に反面教師として大きな意味を持つことになるが、それはもう少しあとの話だ。

野村IDの野球論に触れて
 
ヤクルトに移籍し、野村監督の下で3年連続2ケタ勝利をマークした
 ともかく監督との関係がここまでこじれてしまっては、もう移籍しかない。その秋にはヤクルトの西村龍次との交換トレードがほぼ成立する段階まで来ていたが、95年1月のエース・野茂英雄のメジャー移籍騒動と阪神大震災の混乱でそれどころではなくなってしまう。さらに前年の年俸が吉井4200万円と西村7800万円という年俸格差、加えて移籍に難色を示す西村と球団の話し合いも4回にわたり、3月中旬の開幕直前での発表となった。週べ95年4月10日号には、「これで、すっきりしましたよ。一度は、お客さんの多い中で、投げてみたいと思っていましたからね」という吉井の当てつけとも思えるコメントが掲載されている。直前の日向キャンプ中、「もうトレードでも残留でも、どっちでもいいから、はっきりしてほしいんです」と訴える右腕に、鈴木監督の答えは「どっちになっても頑張れ」という素っ気ないものだった。いわば、もうすぐ30歳になる吉井は、上司と衝突して組織を追われたわけだ。

 だが、男の人生なんて一寸先はどうなるか分からない―――。プロ12年目、向かった東京で、野村克也監督と出会うのである。とはいっても、最初の印象は最悪だった。ことあるごとにマスコミを通してボヤかれ、「こんなヘボピッチャー、なんで取ってきたんや」なんて辛口のコメントには腹も立った。だが、一方でグラウンド上では先発投手として我慢強く起用された。野村采配は例え失敗しても、また同じような場面で使ってくれる。最初はその意味を計りかねたが、起用が続くとやがてオレは信頼されていると意気に感じて安定した成績に繋がった。

 以前は、「ミーティングなんかアホちゃうか」と馬鹿にしていた吉井が、野村IDの卓越した野球論に触れていくうちに熱心にミーティングでノートを取るようになる。野茂から教わったフォークボールをアピールして相手に意識させつつ、シュートで右打者の懐を抉る。バッテリーを組んだ同い年の捕手・古田敦也のピッチャーを試合のリズムに乗せていくような巧みなリードには驚かされた。感情を露にすることを野村監督から、「自分が弱っているところを他人に見せるようなものや。腹が立っても我慢せい」と注意されるが、吉井が怒りを表に出して自身を鼓舞するタイプだと分かると、ベンチ裏で暴れようが次第に何も言われなくなったという。いつの時代も、怒りは仕事のガソリンだ。

憧れのメジャーでもプレー
 
95年のヤクルト日本一に貢献した[右はオマリー]
 吉井は移籍1年目の95年に先発投手として10勝をマークすると、イチロー擁するオリックスとの日本シリーズでは第3戦に先発して5回1失点投球で、野村ヤクルトの日本一奪回に貢献。雷に怯え四球を連発する意外な弱点を露呈しながらも、そこから3年連続二ケタ勝利を記録。自己最多の13勝をあげた97年には、神宮球場でリーグV決定試合の胴上げ投手にもなった。野村監督は、ベテラン右腕を「久しぶりにこれぞプロの投手、というのを見せてもらったよ」と頼りにした。

チャランポランに見えるかもしれんが、ウチの投手で野球を一番考えているのは吉井だ。オフの間、神宮で一番練習を積んでいたのはだれか知ってるか? 吉井や」

 
98年から5年間、メジャーでプレーした[写真はメッツ時代]
 そんなヤクルトでの充実の3年間を過ごすと、97年オフに海外FA権を行使して憧れのメジャー移籍へ。99年はボビー・バレンタイン監督率いるメッツで、12勝の活躍を見せた。03年にNPB復帰すると、オリックスとロッテで42歳まで投げ続け、現役引退後は名投手コーチとして各球団を渡り歩く一方で、筑波大学大学院の人間総合科学研究科体育学を学んだ。

 上司とぶつかって、慣れない土地での再出発を余儀なくされた30歳の春――。今思えば、22年秋にロッテの新監督に就任した吉井理人の逆転野球人生は、あのトレード劇が大きなターニングポイントになったのである。

文=中溝康隆 写真=BBM
週刊ベースボール

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