エースで4番、理由わからないとこんな記事!

高校野球のエースで4番が死語?バカなの?野球を甲子園しか見てないで記事書いてるの?

別に、小中高は十分いる。リトルを含む小中高のアマチュア野球、成長期前からの子供達を預かる。指導者達は、チームの目先の勝ちと半年や1年や数年後を見越したチーム編成を強いられる。目先の勝ちも、ステップアップ選手育成も、両方を求められる。目先の勝利を目指す上で勝敗の7割近くを投手が占めるため、指導者達は、まず一番上手なコを投手に考える。大きければ本格派、大きくなければ技巧派に指導する。次に、上手でなくても大きなコを投手に考える。チームとして、そうした投手を何人か用意する。一番上手なコは、試合に出したいのだ。だから、投手でなくても野手で出す。一番上手なのだから、打順も1番から5番辺りになる。一番上手なコは他のポジション練習も身に付くのが早い。逆に、早くからデカいコは、速いタマ投げられると胡座をかくコも出る。そういうコは9番投手的存在になる。

10代中盤は成長期に差し掛かる子供達が入れ替わるし、伸びるコも早く止まるコもいる。基礎トレーニングを積み重ねた上で成長期に差し掛かると、それまでのエースやエース候補を追い越すコも出る。指導者達に必要なのは、そうした子供達の変化を見極め続けるコトだ。

高校の指導者達にしても、中学までの評価だけでなく、高校から成長期に差し掛かるコも含めて見極める必要がある。高校も、勝ち続けないとその年が終わる。だから、高校指導者達も、基本のチーム編成は一番上手なコをエース、それ以外、大きなコを投手にする。成長とトレーニングがハマれば、大きなコが一番上手なコを追い越すコトもあるため、見極めが難しい。

甲子園に出るチームは、勝ち抜く過程で複数人投手を用意デキたりする私立名門も多い。今のコは、鍛練より楽に勝ち抜きたい。大谷翔平みたく、チームの勝利を投打で支える気概あるコは少ない。名門私立のエースは、9番投手タイプが多い。選手層が薄いチームほど、4番投手に近付く。少なくとも、1番から5番辺りに投手がいる。

今の高野連の迷策で、投手の連投をタマ数で規制していたりするから、エースが登板デキない試合に負けたりするコトも起きている。投手分業ではなく、実質負けをルールで強制されているのが実情だ。

記事を書くヒトが、知らず調べず書くとこんな記事になるのだ!

 

 

 

 

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もはや死語? 高校野球の「エースで4番」が激減した理由
8/5(土) 10:55 Yahoo!ニュース
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98年の夏の甲子園・決勝でノーヒットノーランを達成した松坂大輔横浜高校では4番を中心に主軸打者としても活躍した(日刊現代/アフロ)
「エースで4番」はもはや死語なのか。8月6日、今年も夏の甲子園が始まる。かつてはマウンドで熱投を繰り広げながら、中心打者として重責を担う選手が多数存在した。だが、今年の出場校の地方大会決勝を見ると、「4番・ピッチャー」は3校(6.1%)に留まった。なぜ、激減したのか。元米子東監督で、NHK高校野球解説者の杉本真吾氏に聞いた。(文:岡野誠/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)

希少な存在となった「4番・ピッチャー」
 
かつての高校野球では、エンゼルス大谷翔平のように投打で活躍する“二刀流”がスターだった(写真:日刊スポーツ/アフロ)
昭和の高校野球では、エンゼルス大谷翔平のように打者と投手で大活躍する“二刀流”が甲子園で躍動していた。「4番・ピッチャー」は1915年の第1回大会では出場10校中4校(40%)、現在の1都道府県1代表制(東京、北海道は2校)になった78年でも49校中10校(20.4%)に存在していた(いずれも初戦を対象。以下同)。

 現在のような低水準は、昭和から平成へ移り変わる頃に始まった。78年から92年まで15年間の全国高等学校野球選手権大会夏の甲子園)でピッチャーが4番、クリーンアップ(CU、3~5番)を打った確率、優勝校のピッチャーの決勝戦での打順は以下のようになる(名前は当時、全て出場49校)。

78年 4番:20.4% CU:44.9% PL学園・西田真次/4番
79年 4番:18.4% CU:34.7% 箕島・石井毅/9番
80年 4番:16.3% CU:49.0% 横浜・愛甲猛/3番
81年 4番:12.2% CU:32.7% 報徳学園金村義明/4番
82年 4番:14.3% CU:44.9% 池田・畠山準/4番
83年 4番:16.3% CU:42.9% PL学園桑田真澄/8番
84年 4番:14.3% CU:30.6% 取手二・石田文樹/6番
85年 4番:8.2% CU:28.6% PL学園桑田真澄/6番
86年 4番:12.2% CU:30.6% 天理・本橋雅央/8番
87年 4番:12.2% CU:22.4% PL学園野村弘/6番
88年 4番:18.4% CU:32.7% 広島商・上野貴大/7番
89年 4番:8.2% CU:32.7% 帝京・吉岡雄二/4番
90年 4番:10.2% CU:32.7% 天理・南竜次/8番
91年 4番:18.4% CU:36.7% 大阪桐蔭・和田友貴彦/9番
92年 4番:4.1% CU:16.3% 西日本短大付森尾和貴/8番
(データは各年の『週刊ベースボール増刊 全国高校野球選手権大会総決算号』をもとに筆者調べ。パーセンテージは小数点第2位を四捨五入。以下同)

球種の増加が最初の分水嶺
 
「甲子園のアイドル」となった早稲田実業荒木大輔(写真:岡沢克郎/アフロ)
横浜の愛甲猛早稲田実業荒木大輔が決勝で投げ合った80年に、出場校の「エースで4番」率は16.3%だったが、桑田真澄清原和博PL学園が制した85年には8.2%と1ケタに割り込んだ。その後、88年や91年のような高い数値の年もあったが、92年には4.1%にまで落ち込んだ。米子東で83年に鳥取県代表として夏の甲子園に出場し、その後慶應大学で野球部コーチや助監督を務めた杉本氏が分析する。

「理由は主に3点あります。まず、投げる球種の増加が挙げられます。かつての高校生はほとんどストレートとカーブしか投げなかった。稀にシュートやパームを持つ生徒がいた程度です。昭和の終わり頃から、スライダーを放る投手が出てきた。今やカットボールツーシームなど持ち球が多彩になっている。すると、習得するための時間が必要になります。一方で、変化球が増えれば増えるほど、打者も対応するための練習をしなければならない。限られた時間の中で、投手と4番の両立は困難になっています」

 
「昭和の怪物」とも呼ばれた江川卓(写真:日刊スポーツ/アフロ)
 作新学院江川卓(73年)、PL学園桑田真澄(83~85年)という昭和の甲子園を代表する投手はストレートとカーブで投球を組み立てていた。だが、85年の宇部商業の古谷友宏はスライダーを武器に準優勝投手になった。翌86年の大会後には、こんな総評が掲載されている。

松山商・藤岡のスライダー、浦和学院・谷口のスクリューボールが代表するように、多彩な変化球をあやつる好投手が増えた。〉(86年8月22日/朝日新聞

 準優勝投手の藤岡雅樹、ベスト4の谷口英規が目新しい変化球を武器に躍動していた。87年、常総学院島田直也は初戦敗退した春のセンバツ大会後にフォークを覚え、夏の甲子園では準優勝投手になった。カーブ以外の変化球を覚えた投手が成功したため、全国の高校生が球種を増やすようになったと考えられる。

 杉本氏が続ける。

「2点目は投手分業制が広まったためです。40年ほど前の甲子園は1人で投げ抜くのが当たり前でした。しかし、80年代後半から徐々に複数のピッチャーを持つ高校が出てきました。完投しない前提で起用すると、4番では使いづらい。交代投手がそのまま入ると、1チームに数人『4番・ピッチャー』の実力を持つ選手が必要になります。また、先発投手が降板した後に他のポジションを守るのであれば、そのぶん野手として守備も鍛えなければならない。すると、打撃や投手としての練習時間が減ってしまいます」

 元祖は87年のPL学園だろう。計画的に野村弘橋本清、岩崎充宏の3投手を使いこなし、春夏連覇を果たした。かねてから、甲子園での球数過多によって肩や肘を壊す現象が問題視されていた事情も重なり、徐々に他校も真似するようになった。優勝校の投手が1人で全試合を投げ切ったのは94年、佐賀商の峯謙介を最後に現れていない。

今後も「エースで4番」は増えない
 
3投手を擁し、春夏連覇を飾った1987年のP L学園(日刊スポーツ/アフロ)
「3つ目は野球留学の増加です。78年に1都道府県1代表制になって以降、私立の強豪校に県を跨いで渡る生徒が増えました。有力な選手が集まると、『エースで4番』の1人に頼る必要がなくなります」

 その嚆矢は80年の江戸川学園取手だ。茨城大会のベンチ入りメンバー17人のうち16人を県外出身者で固めて甲子園に出場。翌81年春のセンバツでは、甲子園球場の近くにある上甲子園中学出身のエース・坂本昇を擁した鳥取の倉吉北がベスト4に進出した。この成功によって、野球留学は年々増えていった。

 これらの要因によって、『4番・ピッチャー』は90年代になると珍しくなり、クリーンアップを任される割合も大幅に減った。93年からの10年間を見てみよう(80回記念大会の98年は出場55校、それ以外は49校)。

93年 4番:16.3% CU:36.7% 育英・井上靖士/9番
94年 4番:10.2% CU:32.7% 佐賀商・峯謙介/6番
95年 4番:2.0% CU:18.4% 帝京・白木隆之/9番
96年 4番:12.2% CU:24.5% 松山商・新田浩貴/8番
97年 4番:12.2% CU:18.4% 智弁和歌山・藤谷俊之/9番
98年 4番:5.5% CU:16.4% 横浜・松坂大輔/4番
99年 4番:2.0% CU:16.3% 桐生第一正田樹/8番
00年 4番:12.2% CU:24.5% 智弁和歌山・中家聖人/9番
01年 4番:10.2% CU:24.5% 日大三近藤一樹/9番
02年 4番:4.1% CU:14.3% 明徳義塾・田辺佑介/5番

 95年は創価西東京)、99年は甲府工(山梨)の1校しかいなかった。逆に言えば、この時代に『4番・ピッチャー』で春夏連覇を果たした松坂大輔は“怪物”の名にふさわしかった。以降10年ごとに見ても2012年は8.2%、2022年は10.2%と低水準が続いている。

「視点を変えると、昭和の頃は野球が一番の人気スポーツでした。だから、運動神経のいい子が集まっていた。平成になると、徐々にサッカーなどに流れて行った影響もあるでしょう。少子化とはいえ、硬式野球の部員数も最高時と比べ4分の3程度になっています。変化球は年々増えていますし、スピードも速くなっている。球数制限もあって分業制はさらに加速するでしょうし、生徒を集めるために野球留学もますます多くなるはず。ですから、今後も『エースで4番』は増えないと思います」

時代の流れは「2番最強説」へ
そもそも、現代野球では「4番に最強打者を置くべきではない」と杉本氏は考えている。

「『4番最強説』は、1番が出塁して2番がバントで送ってクリーンアップが還すという発想から生まれています。バントは試合終盤に1点を取って逃げ切りたい場面では良いのですが、初回から必要な戦法ではない。それよりも2番に長打のある打者を置いて、大量得点を狙うべきです。犠打はバント処理の苦手なチームの多い地方大会では有効ですが、甲子園で勝つためにはなるべく使わないほうがいい。私は『2番最強説』を唱えています」

 過去5大会(中止の2020年除く)で、勝者が3得点以内だった試合は16.3%(2021年の不戦勝2試合除く)しかない。メジャーリーグでホームラン王を獲得しそうな大谷翔平が座っているように、時代の流れは「2番最強説」に傾きつつある。

「近年は投げても打っても凄い選手はなかなか誕生しない。球児は、大谷選手を別格過ぎて手の届かない存在と考えていると思います。逆に言えば、バントをしない『2番・ピッチャー』を擁するチームが甲子園で勝ち上がれば、その選手こそ『ポスト・大谷』と言っていいかもしれません」

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