誕生日だと知ってるけど、今更TK?

TMネットワークのファンだった。宇都宮隆の歌と小室哲哉の曲、シティーハンター主題歌「GET WILD」、沢口靖子後藤久美子ドラマ痛快!ロックンロール通りの主題歌「RESISTANCE」、機動戦士ガンダム逆襲のシャア主題歌「BEYOND THE TIME」、他にも「self control」「nights of the knife」など、色々好きな曲は多かった。

渡辺美里への曲提供で、陽の目を見た。

TMネットワーク解散後、プロデューサーとしてhitomiや篠原涼子らのプロデュースで名前を知られた。挙げ句、ダウンタウン浜田雅功のプロデュース「WOW WOW TONIGHT」らの数曲で更なる名を上げた。

小室プロデュースはエイベックスの業販大量流通による売上嵩増商法だが、見掛けはダブルトリプルミリオン続出だった。tohko未来玲可までは作曲だけでなく作詞までやるようになり、上手く行っていた。

しかし、全米進出を目論見、R・マードックに近付いた。しかし、マードックの言われるがままにアジアへネジ曲げられ、上海で全投資をスる破目になってしまった。

山田桂子と3度目の結婚をした頃には、金欠が露見しつつあった。大分トリニータのスポンサー料すら払えなくなり、著作権詐欺も露見した。山田桂子は脳梗塞を起こした。

小室哲哉は山田桂子を赤ちゃん返りに仕立てて、看護師に手を出した。その追及逃れのために、江角マキコの猿真似して引退宣言までした。

バカなファンやマスコミが忘れたと思ったか、乃木坂から依頼受けたと楽曲提供した。しかし、「Feel like dance」焼き直しの曲では掠りもせず、試金石にもならなかった。

カネは、松浦サンが払ってくれてるのか?

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「小室ブーム」から転落の一途、流血しながらシンセサイザーを叩き続けて…63歳になった小室哲哉の「挫折と再起」
11/27(土) 11:12 Yahoo!ニュース
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小室哲哉 ©文藝春秋
 きょう11月27日、ミュージシャンの小室哲哉が63歳の誕生日を迎えた。今年2月には、自身のプロデュースするユニットglobeのメンバーで、約20年連れ添った妻のKEIKOとの調停離婚が成立している。

【写真】サラサラの長髪を揺らして…若き日の小室哲哉の“明るい笑顔”

 思えば、この20年ほど、小室は紆余曲折の連続であった。プロデュースするアーティストがことごとくヒットを飛ばし、「小室ブーム」を巻き起こしたのは90年代後半。音楽業界全体でもCDの売り上げはこのころピークに達し、以後は減少の一途をたどる。

 それと軌を一にするように小室も転落していく。2008年には、自身のマネージメント会社の社長と監査役とともに詐欺罪の容疑で逮捕された。

懲役3年・執行猶予5年の有罪判決
 小室は2000年頃からヒットがめっきり減り、このころには巨額の負債を抱えていた。その返済も思うに任せずにいたため、監査役から紹介された個人投資家の男性にすがりつき、JASRACに登録している全楽曲の著作権を10億円で譲渡するとの契約を結ぶ。

 しかし、実際には自分の曲の全権利を小室が持っているわけではなかった。そのことに気づいた男性は先に小室へ支払った5億円の返還を要求するも、一向に返還されなかったため、刑事告発に踏み切ったのである。裁判では小室に懲役3年・執行猶予5年の有罪判決が下された。

 90年代から逮捕される直前まで、小室は常に曲づくりに追われ、ヒットさせねばならないというプレッシャーから精神のバランスを崩していた。当時の様子を赤裸々につづった著書『罪と音楽』によれば、《愛しているとか、愛されているとか、今日も生きているとか、そういう喜びも麻痺して》おり、いつ死んでもいいと本気で思っていたという(※1)。

 一方では大金を手にしたことで金銭感覚が麻痺して浪費を重ね、慢心から周辺にいた人たちもしだいに離れていった。そのことが結果的に事件を招くことになる。

 そんな状況のなかでも、自分が本当にやりたい音楽をつくっているときだけは、すべての不安を忘れられたという。結局、彼に残されたのは音楽しかなかったのである。裁判でも、被害者や迷惑をかけた周囲の人々に再びヒット曲をつくって償っていくことを約束した。

 事件後の小室のインタビューを読んでいると、純粋に音楽に向き合っていこうという態度がうかがえる。

 2011年には、カルチャー界からゲストを迎えてのトークやDJプレイなどをストリーミング配信するサイト「DOMMUNE(ドミューン)」に出演、シンセサイザーを何台も並べて2時間ノンストップで演奏を行い、途中で手から流血しながらも鍵盤を叩き続ける小室の姿を、延べ14万人が視聴した。小室としても、90年代にミリオンを連発していたころの自身のパブリックイメージを覆すことができ、幸せな体験だったようだ。

本当は「サブカル志向」だったと告白
 同年には、やはりDOMMUNEで、小室が音楽を始めるきっかけとなった作曲家・シンセサイザー奏者の冨田勲と初めて共演も果たしている。翌2012年には初音ミクなどのボーカロイドを使った自身のカバー曲集をリリースするなど、新しいツールも貪欲に取り込んでいく。

 DOMMUNEはいわゆるサブカルチャー系のアーティストが出演することも多い。かつては、サブカルチャーの人たちには小室のことを受け入れない感じがあったという。だが、音楽活動を再開した彼に手を貸してくれたのはサブカル側の人たちであった。

 ある対談では《ずいぶん変わってきたのはサブカルチャーの人たちからは100%アンチだったのが、まず彼らが救ってくれた。「この人、本当に音楽が好きなんだな」ということを支持してくれだして、それからですね》と語っている(※2)。

 別のところでは、《今は関心を持ってくださるのがサブカルチャー的なところだったりして。じつは一番最初にやりたかった方向、なりたかったのはそっちだったので》と、本来はサブカル志向だとも明かした(※3)。

 じつはヒットへのプレッシャーに苦しんでいた頃にも、作家性に重きを置いた楽曲を手がけており、2008年には『Far Eastern Wind』というアンビエントミュージックのシリーズをiTunes Storeで限定配信した。このジャンルはイギリスの音楽家ブライアン・イーノが切り拓いたもので、小室は高校時代にイーノのアルバムから受けた衝撃が、いまなお心に残っていたという。先述したように、つくっていると不安を忘れられると彼が語っていたのは、こうした音楽だった。

 ひょっとすると小室哲哉の人生には、マーケットとは距離を置いて、自身の音楽をとことん追求する道もあったのかもしれない。しかし、幸か不幸か、職業作曲家としての彼は、人々が求めるものに応えて曲をつくる才能に長け、時代の変化にも敏感だった。

 小室の未来を見通す眼力には抜きん出たものがある。2010年のインタビューでは、《もうオタクと言われようが何て言われようが、自分の部屋で作ったものを配信するだけ、ただ自分を出すだけでいいという人がいるじゃないですか? でも、それがたまたま普遍性のあるメロディだったりして、そういうものがヒットする可能性があると思いますね》と語っていた(※4)。

 ちょうどボカロPと呼ばれるボーカロイドを使って楽曲を制作するクリエイターたちが、ネットでこぞって作品を発表し、注目され始めていたころだった。数年後にはそのなかから米津玄師のようにメジャーデビューし、ヒットを飛ばすアーティストも現れることになる。

母方の家系に佐久間象山
 一方で、小室が時代を先取りしすぎて、技術や社会が追いつかないということもしばしばであった。iTunes Storeの存在も、かなり早い時期に知った。日本にもいずれ上陸すると聞くと、そのときには自分が最初に楽曲を配信したいと希望したが、国内に浸透するには時間がかかり、結局、10年近くかかったという(※3)。

 そもそも巨額の借金を抱える原因には、1998年に香港に音楽制作会社を設立し、アジアの歌手たちとネットを介してのコラボレーションを目指したものの、それを可能とする通信技術の進歩が彼の期待したよりも遅く、頓挫したことも大きかった。

 そういえば、小室の母方の家系は、幕末の思想家・佐久間象山の遠い親戚にあたるという(※5)。象山は、欧米列強に日本が対抗するには、開国して技術などを積極的に導入するべきだと訴え、勝海舟坂本龍馬吉田松陰などに多大な影響を与えたことで知られる。

 だが、あまりに先を行きすぎる主張は、他方で反感を買い、象山は結局、攘夷派の志士に殺害されてしまった。その最期はともかく、先覚者であることが挫折を招いたという意味では小室と重なる。

小室哲哉の「本格復帰」はいつ?
 2018年には『週刊文春』の不倫報道を受けて記者会見を行い、けじめをつけるため引退を宣言した。しかし、昨年には、旧知の仲である作詞家の秋元康がプロデュースするアイドルグループ・乃木坂46への楽曲提供で復帰している。

 今年3月に『女性自身』が取材した際には、別れたKEIKOが前月の離婚発表時のコメントで音楽活動再開に意欲を示していたのを受け、もし必要であれば一音楽家として何でも協力したいと発言して、記者を唖然とさせた(※6)。それでも、小室としてみれば精いっぱいの誠意なのだろう。彼は結局、自分には音楽でしか償うことができないと思っているのではないか。そう考えると、何だか哀しくもある。

 同時期の『週刊文春』の記事では、小室の知人のコメントとして、《仕事を再開したといってもあくまで個人での活動にすぎず、彼の周りにいたスタッフはほとんど去った。(中略)いま小室さんにもっとも近いのは、銀座でクラブを経営する“皇帝”を名乗る人物。SNS発のヒットを出そうと話し合っているそうです》と近況が伝えられた(※7)。

 挫折のたびに音楽によって再起してきた小室である。周囲のスタッフがほとんど去ったというのは気がかりだが、まだ音楽に対し真摯な気持ちを忘れていないのであれば、本格復帰する日も案外近いのではないだろうか。

※1 小室哲哉『罪と音楽』(幻冬舎、2009年)
※2 『サンデー毎日』2014年4月6日号
※3 『CDジャーナル』2011年8月号
※4 『SPA!』2010年8月3日号
※5 『週刊朝日』2012年4月6日号
※6 『女性自身』2021年3月23日・30日号
※7 『週刊文春』2021年3月11日号

近藤 正高

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