中澤裕子、前山剛久や上原多香子に次ぐ罪

中澤裕子、元はASAYANのシャ乱Qはたけプロデュースタレントオーディションで平家通代が優勝したが、その敗者で再度合宿オーディションして選んだのがつんくプロデュースのモーニング娘だった。

リーダーは中澤裕子だったが、何が優れてリーダーになったワケでもない。単にトシ取っていただけだ。選ばなくても良かったのに、選んでリーダーに据えてしまった。リーダーながら、歌もダンスもヘタで、色々指導を受けていた。

その八つ当りを一番年下の福田明日香に向け、辞めるまでイビり抜いた。似た時期に、SMAP中居正広がV6森田剛をイビり抜いていたが他のグループ同士、同じグループでは逃げ場もなく、福田明日香は辞めて、裸の写真出すまでに転落した。

この当時から、ザル事務所アップフロントのダメっぷりはハッキリしていた。挙げ句、リーダー中澤裕子に多額のカネを渡していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

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中澤裕子さん ASAYANの募集に心臓バクバク 会社の公衆電話から…24歳でモー娘。 子どもには「夢はかなうよ」と
1/9(日) 7:13 Yahoo!ニュース
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ウェルネスとーく
 
中澤裕子さん
 1998年に「モーニング娘。」のメンバーとしてメジャーデビューした中澤裕子さん。10代のメンバーの中で最年長の24歳と遅めの芸能界入りでした。2001年にはグループを卒業してソロとなり、38歳で結婚して14年には生活の拠点を福岡に移しました。現在は、2児の子育てに追われるママさんタレントとして、地域のテレビ番組のほか、歌手としてのライブ活動も続けています。デビューから今に至る芸能生活について聞きました。(聞き手・渡辺勝敏)

ASAYANを見て「受けなきゃいけない」と全身に衝撃
 
中澤裕子さん
――テレビのオーディション番組がきっかけで、モーニング娘。としてのデビューにつながりましたが、アイドルとしては少し遅い芸能界入りでしたね。

 保育園の時にピンク・レディーさんが好きで、歌手やテレビの世界に憧れは持っていたんです。でも、京都府の田舎に住んでいて、芸能界は非現実的な世界でした。高校を卒業して、大阪で就職して社会人になっても憧れはありましたが、思いはずっと自分の中で秘めたまま誰にも言わない。なれるわけがない。だから、一度もオーディションを受けたことはありませんでした。私の人生はこのまま終わっていくのかな。つまらない人生だなと思っていました。

――テレビ東京系の人気オーディション番組「ASAYAN」に応募されたわけですが、何がきっかけで初めて芸能界に挑戦しようと決意したんですか。

 ASAYANでの小室哲哉さんの募集企画とか、私にとってはテレビの中の出来事でした。でも、「シャ乱Q女性ロックボーカリストオーディション」の企画では福田明日香ちゃんが番組に出ていて、「中学生か」なんて思いながら、ぼんやり見ていたら応募の年齢条件が目に入ったんです。途端に、「これを受けなきゃいけない!」って、突然、全身に衝撃が走ったんです。心臓はバクバクするし、初めての感情でした。テレビで見た電話番号を控えておいて、会社の公衆電話から確認の電話を入れて、当日、オーディションの会場に向かいました。

夢は叶うもの、と子どもに伝える
――オーディションを通過して、1998年に安倍なつみさん、飯田圭織さん、石黒彩さん、福田明日香さんの5人でモーニング娘。としてメジャーデビュー。「モーニングコーヒー」から始まって、ヒット曲を連発し、一気にトップアイドルグループになりました。会社員からの転身。どのような経験でしたか。

 歌手になりたいっていう自分の夢をかなえることができたので、2人の子どもには「夢はかなうよ」って、ずっと言っています。芸能界っていう世界は、楽しい夢の世界ばかりを体験できるわけじゃなくて、つらいこと、悲しいこともたくさんあるけど、誰もが経験できないようなことを経験させていただきましたね。

若いメンバーには私は怖かったかも
 
中澤裕子さん
――モーニング娘。はメンバーが変わりながら現在も続いていますが、在籍中はかなり年の差がある最年長でしたね。「姉御」とも言われていたようですが、年齢のギャップは感じていましたか。

 最初のメンバーは、私以外は10代の中学、高校、短大生。話なんか全然合わないし、距離はありました。でも、お友達じゃなくて、みんなでデビューしたいっていう大きな目標を持っていたので年の差はあまり意識しませんでしたね。後藤真希ちゃんも年はひと回り違うけど、年齢は気になりませんでした。

 でも、辻ちゃん辻希美さん)と加護ちゃん加護亜依さん)が入ってきた時は衝撃的でした。「えっ、うそやろ!」という感じ。見た目が幼いから、私から見れば子ども。「この子たち何歳?」「一緒に仕事するの?」……顔には出さなかったつもりですけど、内心はパニックでした。でも、新しく入ってくるメンバーの方が緊張していて、私は怖かったでしょうね、きっと。

――モーニング娘。の初代リーダーですから、メンバーの指導をされたのですか。

 新しいメンバーには、教育係があてられるんですが、私にはだれを担当するということはなかったので、あまり後輩の子たちとの接点がありませんでした。スタッフさんなのか、つんく♂さんの考えなのか、年の近いメンバー同士で頑張っているから、私は口出しするなよということじゃないですかねぇ。中澤が何か言うと怖がるから(笑)。

演歌「カラスの女房」は大切な財産
――モー娘。デビューの年に、「カラスの女房」という曲で演歌歌手としてソロデビューしましたが、演歌もお好きだったんですか。

 私が歌いたいジャンルではなかったです。当時、常にASAYANのカメラが回っている環境の中にいて突然、「演歌でソロ」とマネジャーさんから言われて、ドッキリなのかと思いました。説明を受けましたが、「ちょっと考えさせてください」とお時間をいただきました。普段は母親に相談することはないのですが、この時は、断ったらモーニング娘。を辞めなきゃいけないかもと悩んで相談したら、「何をぜいたくなこと言っているんだ」って言われました。「あっ、そうか。そんなこと言っている場合じゃない」と納得してやらせていただきました。

 今思うと、本当にやって良かった。堀内孝雄さんの楽曲を歌わせていただき、モーニング娘。のファンの皆さん以外にも幅広く受け入れていただいて、今でも「カラスの女房」歌っていましたよねって、声をかけていただくことがあります。歌手として幸せなことです。この年になって、前よりもしっかり歌えるんですよ。私にとっては大変に大きな財産になりました。

――2001年にモー娘。を卒業してソロになりました。希望されたんですか。

 私はもっと前に卒業したいと、事務所にはお話をしていました。30歳でモーニング娘。にいる自分は想像できませんでした。自分の足でちゃんと立っていられる中澤裕子でありたいという気持ちが強くて……。日本武道館でのコンサートをもし実現できたら、モーニング娘。中澤裕子としての夢を叶えたことになるとずっと思っていたので、武道館が決まった時に私は卒業だと思いました。

最後のコンサートで見たみんなの後ろ姿はよく覚えている
――中澤さんにとって、思い出深いモー娘。の曲は何ですか。

 私が卒業した時の曲「恋愛レボリューション21」。最後の曲なので大事に思っていますね。それと「I WISH」。私が卒業するコンサートの時に最後にみんなで歌った曲だったかな。メンバーの後ろ姿が見えるポジションに立っていて、その向こうにお客さんがいて、みんなの後ろ姿を見るのはこれで最後なんだって思ったのをよく覚えています。

――「LOVEマシーン」を始め、大ヒットを連発して、女性アイドルグループのメンバーとしてトップを極めたという満足感はありましたか。

 いやー、ゴールはないです。スタートは切ったけど、ゴールしてない。卒業してソロになって福岡に来て、生活環境も変わっていますが、ゴールは引退する時かなって思

なかざわ・ゆうこ
 1973年、京都府福知山市出身。98年、24歳の時にモーニング娘。の第1期メンバーとしてデビュー。「LOVEマシーン」「恋のダンスサイト」「ハッピーサマーウエディング」など大ヒット曲が続いた。2001年に卒業してソロに転身。12年、38歳でIT企業の経営者と結婚し、女児を出産。14年には夫の仕事の都合で福岡に転居し、以来、福岡を拠点に活動する。翌年に第2子となる男児を出産。地元ではママさんタレントとして、情報番組やラジオなどに出演。また、2月6日La Donna(東京)・2月13日Gate’s7(福岡)でライブを行う。

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