定岡正二、あの引退は仕方なかったの?

定岡正二、第1期の長嶋茂雄からドラフト指名された。身長も高かったが、スポーツ選手と思えないスリムさが、巨人選手の中でも目立った。定岡らの入団発表時、後ろに並んだ中に西本もいたんだっけ?

確か、第1期長嶋政権は6年だったかな?2年目と3年目はリーグ優勝、2年目の日本シリーズは阪急に3連敗の後に3連勝して、あわやのドラマを作った。それらの中に定岡はいなかった。

新浦が成長し、小林繁とトレードで江川が入団し、西本があのフォームとシュートで頭角を現した。その中で、杉下サンの指導でスライダーとフォークを投げ始め、少しずつ勝つようになったハズ。

藤田監督下で、三本柱の一角になった。それが藤田監督2年目、横浜戦だったと思うが、シュートを投げた後に腰を押さえてマウンドを降りた。以後、柱としてローテで投げるコトはなくなったハズ。アレが何だったのか、知りたい。

長嶋派だったため、柱でなくなれば、辞めさせられる。江川も西本も、王監督時代にチームを去った。

おぎやはぎの愛車遍歴」にも出て来た。

 

 

 

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定岡正二任意引退の衝撃「巨人軍は僕にとっては青春そのものだった」【プロ野球回顧録
4/3(日) 11:00 Yahoo!ニュース
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1975年、ドラフト1位で入団し、80年代前半は、江川卓西本聖と「先発三本柱」と呼ばれる。甘いマスクで若い女性ファンの人気も絶大だった定岡正二。しかし、85年オフ、突然の任意引退が発表された。まだ、28歳だった。

【選手データ】定岡正二 プロフィール・通算成績

結婚していたら違っていた
 
武器はスライダー。引退後はタレントとしても活躍した定岡
 11月2日の夕方、巨人・定岡正二は、後楽園球場近くのホテルで長谷川実雄球団代表との話し合いをするも、平行線のまま、退団、任意引退が決まった。定岡は、そのまま記者たちとともに後楽園球場に足を運び、ロッカールームの整理をした。

 そのとき練習着をじっと見て、周囲にいた記者たちにこう言った。

「これ、一着だけもらえないかな。飾るんじゃなくて、思い出として、タンスの奥にしまっておきたくてね」

 記者たちは定岡の口から球団批判を期待し、さまざまな質問をしたが、「巨人に反発? いえ、絶対にそんなことはありません。僕のわがままです。野球をやめるときは巨人のユニフォームを脱いだときと決めていただけです」と淡々と答えた。

 11月8日には球団が定岡の任意引退を正式に発表。人づてに戦友ともいえる江川卓西本聖から「送別会というと寂しいから、激励会をやろうじゃないか」と伝言をもらったというが、「気持ちだけで十分。ありがとうと伝えてください」と断った。「話せば、やっぱり寂しいからね」と静かに笑った。

 85年、槙原寛己斎藤雅樹ら若手投手の成長もあってリリーフに回ったが、47試合に投げ、4勝3敗2セーブ、防御率3.87は、まずまずとも言える。しかし、巨人・王貞治監督は、かねてより山倉和博のサポート捕手として近鉄有田修三獲得を球団に要請。巨人は定岡に交換要員として白羽の矢を立てた。これに対し、当初から難色を示していた定岡だったが、球団は、「いくらトレードならやめる、と言っても生活がある。現実を直視すれば気持ちも変わるだろう」と軽く考えていたようだ。

 実際、定岡も「結婚していたら受けていたと思う」と話していた。

今までと同じ生活はできない
 直後の定岡のインタビューも再録しておこう。素直で実直な性格がにじみ出る受け答えになっている。

──現在の肩書は。

「プー太郎かな。はっきり言って失業者です(苦笑)」

──これからはどうする?

「まったく考えていません。ずっと野球一筋の生活でしたからね。2カ月くらいは、何もせず、ゆっくりしたいなと思っています」

──退団のときは、先のことを何も考えていなかったということ?

「みんないろいろ書いてくれたけど(モデル業、タレントなど)、計算はまったくなかったんです。あとのことまで考えて結論を出すのが普通かもしれないけど……」

──巨人が自分を必要でないと知ったのは。

「日にちは覚えてないけど、何人かの関係者に会って、巨人では来年の戦力に入ってないと言われました」

──その時点で退団するか、トレードを受けるか、2つに1つしかなくなったわけだけど。

「正直言って、迷いました。簡単に結論は出ないですからね。野球をやめるのはすごく寂しいし、結論を出すまで何日もかかりました」

──最初から長谷川球団代表と話していたらトレードを受けたかもという話もあるが(最初は管理部長から告げられ、それが不信感につながったとも)。

「う~ん、そうなっていたかもしれませんね」

──退団するということは月給170万円も捨てることになるが。

「やめるとき、そこまでは考えてなかった。それより気持ちですね。小さいころから巨人にあこがれて、その巨人をやめなきゃいけない悲しみのほうが大きかったです」

──12月までは170万の月給は出るのでしょう。

「それが、任意引退だとダメらしいですね。もうないよと言われました」

──建設中の新居は。

「家を売って、まず借金をなくせ、とアドバイスしてくれる人もいますが、せっかく建てたら、一度は住んでみたいし……」

──生活も変えざるを得ないか。

「今までと同じような生活はできないでしょうね。危機感も必要でしょう。バスに乗ったり、電車に乗ったり。ガソリン代という目先のことではなく、自分の置かれた立場というものを、気持ちの中で植え付けていくためにもね」

──大変なことがたくさんあるが、それでも巨人を退団した真意は。

「自分でもよく分からないんですよ。悔しさもあったし、いろいろなものが交錯して。でも、現実にこうなったのだから、これ以上、悔いみたいなものは残したくありません。自分で出した結論ですから」

ファンあってこそ
──巨人軍って何だったの。

「僕にとっては青春そのものだったと思います」

──巨人での最後のシーンは覚えている?

「覚えていますよ。最終戦阪神戦。出番の予定はなかったんですけど、8回の一死一塁だったかな。あのとき、やめるつもりは全然なかったけど、いま思えば忘れられないんですよね。ショートゴロのゲッツー。僕らしい終わり方でした。ゲッツーを取るピッチングが僕の持ち味だったから」

──ファンの人たちに何か。

「僕がお礼を言いたいのは、ちょっと臭い話になるかもしれないけど、俺一人でここまで来れたわけじゃないし、ファンの人たちの声援に乗せてもらったというか。勝つことは僕もうれしいんだけど、周りの人がもっと喜んでくれてね。俺はいつもポーズをつけているけど、今だから素直に、俺はファンの人に見守られ、支えられてここまでやってこれたことに感謝したい。そんなことを言うのは、自分自身に対してもちっとも恥ずかしいことじゃないし、ファンに育てられた選手だと思うし、ありがとうの一言です。ファンの人にとっては(僕は)短い野球人生かもしれないけど、自分なりにやりました」

──ファンレターは。

「やめた後は前よりたくさんいただいて、すべて読んでます。半々ですね。トレードでもやってほしいというのと、ご苦労様でしたというのと」

──みんなが注目しているし、みっともないマネはできないね。

「いや、今から僕はみっともないこともやらなきゃいけないと思っているんですよ。こういうやめ方をして、これからも泥はかぶるし、頭を下げることも必要だと思う。みっともない真似でも、胸を張って生きていきたいと思います」

 なお、定岡の引退でミソがついた形となった近鉄とのトレードだったが、その後、巨人が淡口憲治と山岡勝を近鉄に放出することで、有田とのトレードが成立した。一方、定岡は選手としての最後のけじめをつけるべく、巨人の了解を得て翌86年春のドジャースのベロビーチキャンプに参加。プロに入って初めてのキャンプを過ごした思い出の地で、ユニフォームに別れを告げた──。

『よみがえる1980年代のプロ野球 1985年編』より

写真=BBM
週刊ベースボール

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