トヨタ・セラ、何故、FRにしなかった?

ガルウイングドア、メルセデス300SLやランボルギーニカウンタックやグループCカーなどで使われている。

本来、何故ガルウイングドアが必要になったか、わかっているのか?

剛性要求の高いレーシングカーやスーパーカー、車体剛性確保のためにサイドシルを高めにし、ドア開口を小さくしたい。そうすると、通常ドアやると乗降性が悪くなる。だから、上にハネ上げるか、最小限で斜め上に開け、ドライバーが真上ないしは斜め上に立ち上がってクルマを降りられるようにする。もちろん、乗り込む時は逆になる。

ハネ上げるべきドアが、バカデカく重くなるなら、本末転倒だ。通常のクルマのドアは、側突の備えでサイドインパクトビーム材を入れるコトになる。サイドシルをあまり高くし過ぎると、側突で車体が即オシャカになる。

トヨタ・セラ、サイドシルは低く、要求される運動性は高くなく、ガルウイングドアの必然性はなかった。ファッションでしかなかった。

いっそ、FRにして、エンジン側とリヤ駆動輪側をプロペラシャフト結合するコトで、剛性確保を改善できる。

トヨタともあろうメーカーが、こんな安直かつ不満足なデキのクルマを出したコトが残念だ。

 

 

 

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200万円もしないで買えるガルウイングにはロマンしかなかった! トヨタらしからぬ大冒険が生んだ名車セラ
2022/04/25 23:32 Auto Messe Web43

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新車価格160万円~で若者が夢を見られた

 トヨタから「セラ(Sera)」が登場したのは今から32年前、1990年のこと。当時(今も?)ケ・セラ・セラ(スペイン語で「なるようになるさ」)な人生を送っていた(いる)筆者は「そう来たかぁ」と、その車名を一種の感慨をもって受け止めていたような記憶がある。

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 当時のニュースリリースには「未来に向けてはばたく夢のある車との意を込めて命名」とあり、いわゆるターゲットユーザーを定めた開発手法は採らず、テーマに共感し、クルマに感動と興奮を求める人達のためのクルマとして誕生したという。広報資料の中でセラのチーフエンジニアが、若いメンバーとの開発を振り返って「後生畏る可し」と表現しているくだりがあるが、まさに後のトヨタ車開発の担い手の士気が高まった開発でもあったらしい。

扱いやすいトヨタ仕立てのガルウイング

 広報資料には続けて「ガルウイングドアを開けると、新しいドラマが始まる」と、こちらはいささかベタな見出しが目に飛び込んでくる。だが、それはこの資料の編集を請け負った代理店の責任ということにして、「未知への翼SERA登場」とある、コンセプトパートとイメージパートの2冊が分冊されホルダーに収められたカタログは、やはり初々しい。

 とくに海をバックにドアを開けたセラの姿(じつは同じような構図の写真を当時、筆者も撮った)は、まあ、セラに乗ったら誰しもイメージする典型的なシーンだったのだろう。ガラス張りの室内から見上げる青空とか、ベイブリッジの夜景がガラスに映り込むシーンとかラブ・ストーリーの挿し絵のようなカットも、セラに心を寄せるユーザーの気持ちを惹きつけたに違いない。

 その一方でコンセプトパートのカタログのページを捲ると、こちらはほぼオーソドックスなクルマのカタログの体裁になっていた。最初にカラーバリエーションが比較的大きな扱いのセラの写真とともに紹介されているのは「らしい」。だが、さらにページを進めていくと、ガルウイングドアに関しての構造の説明があり、気温が変化してもほぼ同じ力でドアの開閉ができるように採用した「ドア操作力温度補償ステー」の話などが載っている。

 たしかに実車のセラのガルウイングドアは、それまでに経験したスーパーカーなどのそれとは違い、日本人の体形でも閉める際、インナーハンドルを掴むリーチに困るようなこともなかったし、ことさら腕力を必要とすることなく苦もなく閉められたと記憶している。

ロマンチックと引き替えに、夏場はかなり暑かった

 強いていえば、街なか(人前)ではセラに乗り降りするため、このガルウイングドアの開閉は必須だったから、それなりに衆目を集めることが気恥ずかしかったことが思い出されるくらいか。それと広報車(撮影車)を借り出したのは、フレッド・ペリーかラコステの半袖のポロシャツを着用している季節だったから、自慢のグラッシーキャビンはまさしくガラス張りだったため、なかなか暑い思いをしたことを覚えている。頭上部分には脱着式のルーフサンシェードが付属していたが、記憶が正しければ、気休め程度の効果でしかなかった。

 当初からの設定だったかどうか未確認だが、1993年12月のマイナーチェンジ版のカタログには、ドアガラスのちょうど頭上部分にボカシをかけた「ドア熱線反射コーティングガラス」がオプションで用意されているとの紹介が載っている。3次元曲面ガラスを用いた「パノラミックハッチ」も世界最大級と謳われていて、オプションで野球帽のツバを後ろに回して被ったようなバックバイザーも用意されていたが、その効果のほどもごく限定的だった。なお乗車定員は4名で、リヤシートは+2程度のスペースになっていた。

ゆるくドライブを楽しめるFFクーペだった

 ……何やら苦労話に終始してしまい、未経験の方には「セラに乗るのは苦行に等しかったのか?」と誤解を招いてしまうそうだが、クルマとしてはもちろん楽しいクルマだった。野暮な自動車雑誌的に、当時のライバル車などとしてサニークーペなどを引き合いに連れ出してロケを敢行した覚えもある。だが、そういう場合、何人かのスタッフで人気の高いクルマの順にキーが掴まれていくのだが、暑い思いをするのを承知で、やはりセラのキーは我先にと(それほど壮絶なムードでもなかったが)誰かが手にとっていた。

 案外というべきか、車重がそこそこあったせいか(MT車で890kg、AT車で930kg)、乗り心地は神経を逆撫でされないタイプの、路面からのショックが心地よく緩和されたものだった。また、おろしたての広報車につき経年変化は未確認だったが、開口部の大きい特殊なドア構造のボディながら剛性感はしっかりとあり、それも穏やかな乗り味に貢献していたはずだ。

 搭載エンジンは当時の小型車系の1.5L(5E-FHE型)で、カタログのスペックはネット110ps/13.5kg-mというもの。とりたててパワフルではなかったが、ジンワリといい感じのユルさでセラを加減速させることができた記憶がある。カタログを見返すと、タイヤについて「NAGI」と命名された新開発タイヤが装着されているとの紹介があり、非対称方向性トレッドパターンが採用されているとの記述も。そういえばこのタイヤのおかげもあり、耳触りなタイヤノイズが立たなかったことも、いい感じのユルいドライバビリティの一助になっていた気がする。

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