コレ以上、セナを美化するな!全て、原因あっての結果だ!

ワタシが一番好きだったセナは、87年ロータス99Tホンダの時だった。

J・ドゥカルージュのアクティブサスペンション、序盤はプロスト寄りグッドイヤータイヤに悩まされたが、モナコデトロイトで2連勝!後藤治ロータスホンダ監督が、デトロイト後に「モナコもノーチェンジで行けたが手の内を隠した。中盤からタイム調整に入っていた。」その後、ウィリアムズのマンセル&ピケが巻き返し、シルバーストーンではマンセル&ピケに周遅れにされながら、中嶋と共に3位と4位に入りホンダ1-2-3-4を達成した。モンツァでは再度優勝を狙いノーチェンジで独走、しかしラスト数周でコースアウト、優勝を逃しピケにシリーズトップを譲った。

そして、88年からウィリアムズに代わってホンダエンジン供給先となる、マクラーレンへの移籍を発表した。ラウダ以外、ロズベルグやヨハンソンなど、プロストのチームメイトで成績を残したドライバーはいない。セナがイヤーカーシェイクダウンまで完全オフにしている間にも、プロストマクラーレンというチームに参画している。

しかし、セナの強みはロータスで築いた、ホンダ後藤治との関係だった。だから、プロストがラウダの頃から長年かけてマクラーレンとの関係を築いたのに対して、セナはその速さでホンダだけでなくマクラーレン、特にR・デニスらをも引き付けた。

オフからマシン開発して来たのはプロストだったが、そのクルマで速く走るのはセナだった。そして、88年スペインやポルトガルで決定的亀裂が入った。

88年チャンピオン獲っても、89年以後もベルガーと絡んで無用なリタイヤを喫したり、マンセルとムダな絡みでリタイヤしたり、相変わらずだった。89年鈴鹿シケインでのプロストとの接触は、接触してツブれて良い状況をセナが作ったからだ。

90年S・ニコルズとフェラーリに移籍したプロストは、思ったよりポイントロスト、前年鈴鹿の貸しを1コーナーで返された。セナも相変わらずだったが、ホンダの信頼性に助けられた。

91年前半と後半のセナは、ほぼ別人だった。前半のセナは、全てを受け入れつつ勝ちに行った。インテルラゴスではラスト10周近くを6速だけでラップし、ブラジル初優勝した。中盤から、ウィリアムズとの移籍交渉の進捗か、ホンダエンジンに文句を言い出した。マクラーレンホンダの弱点がシャシー剛性や空力にあるのは、周知の事実なのに。そんな中、鈴木亜久里は「賭けてもいい。セナはオフにウィリアムズに移籍する。」と言ってた。「こんなセナなら、サッサと行け!」と思った。しかし、スーツロゴの問題でウィリアムズとは頓挫し、マクラーレンに残った。

92年マンセル&ウィリアムズが圧倒的に勝ちまくった。インテルラゴスのセナは、サイテ~の一言!毎度ピットに戻ると、メカらと目も合わせず無言で奥に引っ込んだ。モナコでは主催者のお情けで、ブルーフラッグ振られながら優勝した。

93年ウィリアムズに乗ったのはA・プロスト、優勝してもしなくても、ポイントを稼ぎチャンピオンを獲った。

漸く94年、セナはウィリアムズのシートを獲た。しかし、給油レギュレーションがレース展開を変えるコトをわかってなかった。フォードV8のシューマッハが、ルノーV10のセナより軽い状態でダッシュし、オーバーテークした。

イモラ前で未勝利。焦ったセナは、カネに目が眩んで契約したベルのヘルメットに「規格を通らなくていいから、軽くして!」とリクエストし、A・ニューイには「ヒザに当たるから、ステアリングシャフトを細くして!」とリクエストした。ニューイはステアリングシャフトをヒザ前で切断、細いパイプで再溶接した。抜け止めピンもナシだったらしい。

あの事故、セナは左にステアしたがタイヤは動かなかった。クラッシュで折れたサスペンションアームが、薄肉ベルヘルメット越しにセナのこめかみに突き刺さった。

自業自得の最後だった。

************************************

「アランからのプレッシャーが凄いんだ」セナはポジティブなプレッシャーと言い聞かせていた
9/10(土) 12:00 Yahoo!ニュース
  15 
ベストカーWeb
 長年忘れられていたイモラで再びF1が開催されるようになった。このおかげでオールドファンは開催の度に、タンブレロに消えたセナの事を思い出す。各国のテレビ放送でもイモラのレースで必ずセナの話が出ては、セナを知らない若い世代に伝説の英雄を語り続けている。セナ伝説の多くはもちろんその天才性であり、その天性の速さである。そんなセナを見てきた元F1メカニックの津川哲夫氏に、在りし日のセナを語ってもらった。

【画像ギャラリー】88年、PPを獲得したモナコ。しかし、TOPを快走中にクラッシュしてしまい…(2枚)

文/津川哲夫
写真/池之平昌信

セナの強い個性はデビュー当時から遺憾なく発揮した
 ワールドチャンピオンになるドライバーはかなりキャラクタリスティック(個性的)でファン側から見ればその個性はきわめて魅力的なのだが、逆にライバル側のファンからみれば、それはそれは嫌な奴だと感じてしまうだろう。

 セナの強い個性は彼のデビュー時から遺憾なく発揮されていた。そもそもチームとの契約からして、いきなりワールドチャンピオン獲得を絶対目標として動き出していたのだ。契約交渉時にはまだF1のルーキーにさえなっていなかったのに。

 そしてセナの天賦の才は広くF1界に知れ渡っていて、トップチームを含めて複数のチームが彼のF1デビューチームとしてのオファーを出していた。

 ではなぜセナはウィリアムズやブラバムを選ばなかったのだろうか。当時のこれらのチームは優勝にもっとも近かったはずなのに。

当時最終的にセナとの契約を射止めたのはトールマンであった
 1984年シーズンはセナのセンセーショナルなデビュー年であったのに、後世に語り継がれたセナの話のほとんどがマクラーレン時代、セナ・プロスト時代の話である。もちろんそのマクラーレンでワールドチャンピオンを3回も獲得しているのだから当然と言えば当然なのだが。

 当時のトールマンのボス、アレックス・ホークリッジは「セナの望んだ契約はチームでのナンバーワン待遇であった」と語っている。まだ一戦も走っていない新人にトップクラスチームのどこがナンバーワンのステータスを与えるだろうか?もちろんセナへオファーしていた全チームが、セナのこの要求を拒否したのは当然だ。しかしトールマンのホークリッジだけはこれを受け入れたのだ。

 「セナの才能は絶対的なものだった」とホークリッジは回顧する。そして「新興トールマンチームにはこういったインパクトも必要だったのだ」と本音も語る。

 まだ一戦もF1を走ったことのない若造が、いきなりナンバーワンドライバーのステータスを要求するなど、それまでのF1の歴史にはあり得なかったし、これは現在のF1でももちろんあり得ない話なのだ。

 セナはF1デビュー前から既に勝利のための全てを得ようとしていたのだ。

アランからのプレッシャーが凄い。しかし僕にとってはすごくポジティブなプレッシャーだ
 セナのデビューイヤー、南アフリカ・キャラミでのグランプリ初ポイント獲得時には、セナの凄まじい勝利への執念を見せつけられた。デビュー初ポイント獲得に喜びもせずに「その結果には意味はあるが、望んでいる結果ではない」と言い切ったのだ。そして後にも、彼の強い自意識がにじみ出る状況に筆者は遭遇している。

 84年にセナがデビュー初ポイントを獲得したそのキャラミで、9年後の93年開幕戦ではその自意識の強さ、"勝つこと以外は他の何も存在せず、自分の勝利だけが全てである"といった彼の意識の根幹を垣間見ることができた。

 なかでも印象的なのが、88年に初めてマクラーレンアラン・プロストと組んだ時のセナの様子だ。「アランからのプレッシャーが凄い、でもこのプレッシャーは僕にとってはすごくポジティブなプレッシャーなのだ!」と、セナがブラジルのリオのガレージに遊びに来ていた時、まるで自分に言い聞かせるように、そしてプレッシャーを跳ね返すように語っていた。その時、セナは既に優勝経験もありトップドライバーの一員になっていたが、そこにはまだ新人の様な初々しささえ筆者には感じられた。

型落ちのエンジンでシューマッハを打ち負かしていたが……
 しかし3回のワールドチャンピオンを獲得後のセナからは既にリオのガレージでの初々しさなど微塵もなくなっていた。93年のマクラーレンはワークスエンジンを搭載できず、ベネトンが使用しているフォード・コスワース・HBエンジンを搭載したが、これもワークスであるベネトン搭載エンジンのワンステップ落ちのエンジンであった。

 93年のキャラミの記者会見で、セナはこの状況が気に入らず"今シーズンこのままなら、勝てそうなレースには出走するが、勝てそうもないレースには出ない"と実に不満顔のままで言ってのけた。

 その言葉の裏には"そんなレースはリザーブ・ドライバーが走れば良い"という高慢さが感じられた。つまり、当時のマクラーレンリザーブ・ドライバー、ミカ・ハッキネンに向けて"勝てないレースにはお前が走れ"と言わんばかりの態度であった。そこにはウィリアムズという当時の最速チーム、最速マシンを犬猿のライバル、アラン・プロストに奪われた(とセナは信じていたようだ!)ことが大きく影響していたのだろう。

 自分がウィリアムスと契約できなかったことが"理不尽である"と考えていたに違いない、事実それに近い発言も多々あった。

凄まじい自己中心的なセナだが、それが彼の人格というわけではない
 セナという稀有なレーシングドライバーはレースとレースに関わる全ての状況も場面も道具も人も、全て自分の勝利への布石として考えていた。これは当然で、だからこそ3回ものワールドチャンピオンを獲得しているのだ。それも常に手強いライバルと戦いながら。

 チャンピオン・セナのキャラを語る時、"凄まじい自己中心的メンタリティ"がつねに出てくるが、それがイコール彼の人格ということではないのは当然で、その自己中はF1レーシングに対峙したエヤトン・セナの時だけの話なのだ。

 津川哲夫
1949年生まれ、東京都出身。1976年に日本初開催となった富士スピードウェイでのF1を観戦。そして、F1メカニックを志し、単身渡英。
1978年にはサーティスのメカニックとなり、以後数々のチームを渡り歩いた。ベネトン在籍時代の1990年をもってF1メカニックを引退。日本人F1メカニックのパイオニアとして道を切り開いた。
F1メカニック引退後は、F1ジャーナリストに転身。各種メディアを通じてF1の魅力を発信している。ブログ「哲じいの車輪くらぶ」、 YouTubeチャンネル「津川哲夫のF1グランプリボーイズ」などがある。

************************************