田原俊彦なら「原宿kiss」じゃないの?

田原俊彦なら「シャワーな気分」よりも「原宿kiss」じゃないの?単にダンスなら、「チャールストンにはまだ早い」とかだってある。

この当時のアイドル、歌番組、バラエティー、ドラマ、映画など、何でも出ていた。福山雅治よりも範囲は広かったし、ベストテン番組含めて、ほぼ毎日出ていた。曲も年に5・6曲、アルバムも年2枚、写真集も年2冊、たのきん映画や個人の映画が年1作だったりした。

あの"オレはビッグ!"による、作為的閑々干しが気の毒過ぎた。石田純一"不倫は文化"に並ぶ、バカな芸能マスコミによるサイテ~情報操作だった。石田純一は、単にカレがキチンと反論せず、言うべきコトを言わなかったせいで、すみれは幼稚園受験に失敗し、ハワイ別居になり離婚した。田原俊彦の場合、誰もが疑問に感じたツギハギ画像。元々、田原俊彦の妻子の取材でマンション周辺に居座った芸能マスコミが周辺住民と問題起こし、妻子に危害も及んだコトが原因だった。それを揉み消すべく、独立されたジャニーズと芸能マスコミが葬った。

それからは悲惨が過ぎた。デビューした娘、父親話題NGだったり、当初は田原の名字も使えなかった。

つい最近引退した井上公造サン達の仕業だったが。

 

 

 

 

 

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田原俊彦「シャワーな気分」永遠のアイドル=マイケル・ジャクソンに近づいた名曲
5/18(水) 6:00 Yahoo! JAPAN
1983年05月18日 田原俊彦のシングル「シャワーな気分」がリリースされた日
マイケル・ジャクソン田原俊彦の永遠のアイドル

「こういう風にならなきゃ、ユー」

1976年初秋のある日、ジャニーズの合宿所。ジャニー喜多川さんは、前週の日曜日に赤いトレーナーで事務所の門を叩いた山梨県甲府市の高校1年生の色白の少年に、オープンリールのビデオデッキでジャクソン5が歌い踊る映像を見せた。映像の中でゴムまりのように跳ねて楽しそうに歌い踊る11歳のマイケル・ジャクソンに、15歳の甲府の田舎の少年、田原俊彦さんはビビビッと衝撃を受けた。それ以来、田原さんのなかでマイケル・ジャクソンは永遠のアイドルになった。

田原さんの著書『職業=田原俊彦』(KKロングセラーズ)によると、中学2年生の時、山梨学院大学の体育館でキャロルのコンサートを観たのが田原俊彦さんにとって音楽との出会いだった。ジャニーズ事務所のレッスンに通っていた高校時代は沢田研二さんの全盛時で、初めて買ったレコードは沢田研二さんの「ダーリング」。学校の仲間とは矢沢永吉さんを聴き、沢田研二さんの曲はひとりで聴いてレコードに合わせて歌っていたという。

田原さんは毎週、甲府から特急あずさで合宿所に通い、レッスンを続け、やがてバックダンサーとしてセンターをキープするようになるが、その間もずっと「絶対にソロでデビューする」とアピールし続けた。

1979年、デビューが決まらないまま高校を卒業したその日に上京し、合宿所での生活が始まる。同年、ドラマ『3年B組金八先生』でチャンスを生かした田原さんに、ジャニー喜多川さんはNHKレッツゴーヤング』で歌手として音楽活動への道を与え、絶大な人気を得て1980年6月21日に歌手として「哀愁でいと」でデビューする。日本でも人気があったレイフ・ギャレットの「ニューヨーク・シティ・ナイト」のカヴァーだった。

田原さんは15歳のときにジャニーさんから「マイケルは参考になるから見なさい」と勧められて以来マイケル・ジャクソンに夢中になり、合宿所でライブビデオを見てダンスの研究に励んだ。デビュー当初からの田原さんの各曲のパフォーマンスを見ると、最初は甘いアイドル然としていたのが徐々に研ぎ澄まされ、踊りもマイケルの影響が次第に大きくなる。加えて1983年2月に田原さんは11日間アメリカでダンスレッスンを受け、タップやジャズを学んだ。

作曲は筒美京平、「シャワーな気分」でお茶の間に届けた洋楽

さて、当時のアイドル歌手の曲には少し前の洋楽を応用し、広くお茶の間に届けた楽曲が多数あった。田原さんの1983年5月発売の「シャワーな気分」もマイケル・ジャクソンをお茶の間に誘導した一曲だ。作曲は筒美京平さん。1982年1月リリースの8枚目のシングル「君に薔薇薔薇…という感じ」を皮切りに、筒美京平さんは田原俊彦さんに10曲のシングル曲を提供した。「シャワーな気分」は、筒美京平さんが田原さんに書いた4枚目のシングルだ。

筒美京平さんの作品に対して、田原さんは歌う立場として「田原俊彦サウンド、見せるソウルフルな曲。ジャニー喜多川が求める田原俊彦はこうなんじゃないか、パーンとキラキラした感じの楽曲が多い」と2021年2月27日NHKBSプレミアムで放送された『田原俊彦 “還暦前夜” スペシャルワンマンライブ』にて語っている。

近田春夫さんによると、「筒美京平さんのカセットにはリアルタイムの洋楽のヒット曲が詰まっているんだけど、全曲、イントロから一番のサビまでしか入ってない」と証言している(出典:文春オンライン、2021年2月11日付記事)。また原宿の有名レコード店には筒美京平さん向けの新譜が段ボールで用意されていたとも言われている。その中にはマイケル・ジャクソンクインシー・ジョーンズもクイーンもヘアカット100も含まれていただろう。

デジタルなファンカラティーナ的サウンドメイキング

1982年12月発売のマイケル・ジャクソン『スリラー』に収録されたクインシー・ジョーンズとジェームス・イングラムのペンによるファンキーな「P・Y・T」や、ダンサブルに路線変更したクイーンの「バック・チャット」をヒントに筒美京平さんがメロディを仕立て上げ、アレンジャーの大村雅朗さんがヘアカット100「ボーイ・ミーツ・ガール」をヒントにしたギターを添えて、デジタルなファンカラティーナ(ファンク×ラテン)的なサウンドメイキングを施す。

テンポは「バック・チャット」のライブ盤とほぼ同じ、マイケルの「P・Y・T」にヒントを得た “シュッ・ブンブンブン” と聴こえるEVEのコーラス(「♪SHAKE IT BOOM BOOM BOOM」と歌っている)が、汗がほとばしる躍動感を強調する。

ちなみに、マイケル・ジャクソンとクイーンは親交があり『スリラー』制作時にクイーンのフレディ・マーキュリーマイケル・ジャクソンの共演作品(公式未発表)の録音も行われている。そして奇しくも『スリラー』リリース直後の1983年に、当時のマイケルとクイーン両者をマッシュアップしたような作品「シャワーな気分」が制作され、マイケル・ジャクソンを敬愛する田原俊彦さんがパフォーマンスしたのである。これは偶然なのだろうか、それとも必然なのだろうか。

作詞は三浦徳子、戸惑いと憧れが交叉するなかなか過激な歌詞

このサウンドに、ファンの女の子たちの妄想を掻き立てる言葉を三浦徳子さんが載せ、22歳のトシちゃんが甘さを残すヴォーカルと華麗で躍動感溢れるパフォーマンスを見せたのが「シャワーな気分」。

この詞はなかなか過激だ。アイドル歌手の楽曲に載せられる言葉は、ほぼどこかで「I Want You」に結実する。「シャワーな気分」では、その果実が結実する寸前が描かれる。このコラムを書くために聴き直した当初、そのあけすけさに私は思わず耳を赤らめた。

金八先生でトシちゃんのファンになった中学生の女の子も、デビューから3年が経過し、そろそろ生身の男の子と肌を重ねる場面が有り得る、あるいはそういう話題を見聞きする時期でもある。彼女たちがトシちゃんからこんな言葉を囁かれたら、ちょっと「え、わたしどうしたらいい?」という戸惑いと憧れが交叉する。彼女たちをソワソワさせつつ、トシちゃんは彼女たちに自らのパフォーマンスを通してマイケルの洗礼を与えた。

黒の薄地にダイヤのようなキラキラした装飾、手袋の着用、光る靴下という衣装は、リリース前の1983年3月に行われたモータウン・レコード創立25周年記念番組『MOTOWN25』でのマイケル・ジャクソンの衣装を彷彿させる。振り付けも「ビリー・ジーン」や「今夜はビート・イット」を意識した踊りで、田原俊彦さんは傾倒するマイケル・ジャクソンになろうとしていた。はじめてムーンウォークを披露したのも、この曲で出演した『夜のヒットスタジオ』だった。ジャニーさんが1976年にマイケルを目指すように田原さんにアドバイスしてから7年近くの歳月が流れていた。

素晴らしい歌とダンスを見せるパフォーマー田原俊彦

2019年のNHKあさイチ』でも会いたいひとは? の問いに対して「もしも会えるなら、マイケル(ジャクソン)」と熱く語った田原俊彦さん。高校1年生の秋にジャクソン5の「I Want You Back」で衝撃を受けて以来、田原さんはマイケルをずっと追いかけていた。

マイケルの衣装やムーンウォークを真似、マイケルの日本でのショウは全部行った田原さんは「マイケルだけは何度見ても楽しい。盗めないものは彼の動き、異常。膝から下の動きが尋常じゃない。浮いてるかのように軽やかに16(ビート)を刻んで踊るのは天性のもの。いまはYouTubeやネットで当時の映像がリアルに観れるので、世界一僕はマイケルのコンサートツアーを見ている、夜な夜なマイケルを見ているとすぐ朝になっちゃう」(『田原俊彦 “還暦前夜” スペシャルワンマンライブ』)にてマイケルのことを熱く語っている。

表現者として、還暦を迎えた現在でも激しく歌い踊り続ける田原さん。世間では田原俊彦さんがここまでマイケル・ジャクソンに傾倒し素晴らしい歌とダンスを見せるパフォーマーだということを知らないひとがあまりにも多い。

「足が動かなくなるまで続ける」

… という田原さんを、わたしはこれからも応援したい。

参考文献:
田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018」(2018年 青弓社

※2021年8月19日に掲載された記事をアップデート

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