大船渡国保監督と花巻東佐々木監督の決定的違い!

野球に限らず、どんなスポーツと言わず、文化部活動でも、エースやリーダーらの育成に於いて、心身の鍛練バランスが大事だと思う。カラダや実技力を鍛えるコトはもちろんだが、チームを支える/引っ張るというエースメンタルが勝負処で大事な要因になる。

花巻東、大谷は3年春に甲子園出場したが右足を肉離れ、全くベストなピッチングができない状態だった。しかし、大阪桐蔭戦、カレは外野手で出場し、投手でも投げ140キロを超した。打撃でも藤浪からホームランを打った。夏は、あの疑惑のホームランに県予選準決勝で沈んだが、準々決勝に160キロを出し、注目を浴びた。

その数年前でも、花巻東は菊池で春準優勝、夏は菊池も腰に故障を抱えた。先発を回避したが苦戦、カレは登板を願い出た。カレは"今後投げられなくなっても、チームのためにマウンドに立ちたい"と言ってマウンドに上がった。負けたが、みんなで泣いた。

花巻東佐々木監督が育てたエースは、心身ともにキチンと育成されて来た。受け売りやお仕着せではない。チームのためにマウンドに上がるエース、それを信頼し守り打つバックという、チームを作ったのだ。

コレは話して作り上げるモノではない。場を繰り返し、チームのための自分、自分のためのチームを互いに認識しつつ、成果と共に強固になる。

大船渡国保監督、佐々木朗希とは関わりとしてもデキてなかったろう。バカデカいタマの速いコを抱え、このコの育成をしくじったら、自分の指導者としての将来は終わりだとプレッシャーにすら感じたろう。母校筑波大に育成プランを丸投げした大船渡国保監督、自らが勉強し大谷と高校での目標を対話しながらトレーニングを決めた花巻東佐々木監督との、選手個人への関わり方の違いを感じる。

勝てないチーム、勝ち抜けないであろうチームでカラダだけ育ったエースにはありがちな話だ。去年の日本シリーズ、勝ったヤクルトと負けたオリックスの差は、奥川と山本の日本一に対する意識、チームへの意識の差だと思う。山本は日本シリーズ中でも沢村賞授賞式に出て、抜け抜けと出番はあと1回と言っていた。日本一のために、先発中継抑えドコでも行くメンタルでないのは、伝わって来た。

エースメンタル、藤浪晋太郎大谷翔平にあって、佐々木朗希や山本由伸にないと感じるモノはソレだと思う。監督やコーチが言うから降りる、平気でそう言える。大谷翔平エンゼルスでもあと1回と言う。明日も打つと言う。

 

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「後悔していない」佐々木朗希を登板回避させた結果は大敗…勝利よりも「彼の未来」を選んだ大船渡・元監督のその後
8/11(木) 6:12 Yahoo!ニュース
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令和の怪物・佐々木朗希を育てた男は、今何を思うのか? ©藤岡雅樹
「決勝で投げたとしても、故障はしなかったかもしれない。だけど、故障リスクが最も高い日だったことは間違いありません。だから登板させなかったことは後悔していません」

【画像】登板回避後に退任…元監督・國保陽平の今

 2019年夏の岩手大会決勝で、エースの佐々木朗希の「登板回避」を選んだ結果、チームは大敗を喫することとなった國保陽平氏インタビュー。あれから数年経ち、大船渡高校の監督を退いた今、彼は何を語ったのか? ノンフィクションライターの柳川悠二氏の新刊『 甲子園と令和の怪物 』より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/ 後編 を読む)

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退任の理由
 千葉ロッテの佐々木朗希が完全試合を達成してから1週間が経過した2022年4月17日の北海道日本ハム戦でも、佐々木は8回までパーフェクト投球を続けた。ところが、球数が100球を超えていたこともあり、2試合連続完全試合まであとアウト三つの場面で降板した。

 試合後、偉業を目前に交代を指示した監督の井口資仁に対しては、好意的な意見が大半を占めた。2007年の日本シリーズで、中日の監督だった落合博満が8回まで完全投球を続けていた山井大介を降板させ、猛批判を浴びた時とは大違いであろう。

 目の前の勝利を求めつつ選手個人の将来にも目を向ける――。野球界にそうした意識改革をもたらしたのは、佐々木を擁しながら彼の身体を守るという理由で、岩手大会決勝の登板を回避させた國保の決断の衝撃が大きかったからに他ならない。

 國保が佐々木を無傷のままプロの世界へ送り出そうとしたように、20歳とはいえ身体がまだまだ出来上がっていない佐々木に千葉ロッテも配慮し、「今は無理を強いる時ではない」と判断したのだ。野球ファンもまた令和の怪物が、さらなる飛躍を遂げるまで温かく成長を見守っている。投球障害予防を念頭において、成長を見守る状況を生み出したのが、國保とも言える。

 もし國保が甲子園出場を宿命づけられるような強豪私立の監督で、甲子園出場に自身のクビを賭しながら戦うような監督であれば、大エースにケガの心配があるからといって、甲子園切符の懸かった地方大会の決勝で投げさせないという判断は下せまい。公立高校の体育科教員である國保だからこそ、全国的に議論を呼ぶような決断が下せたはずだ。

 にもかかわらず、佐々木が完全試合を達成したあと、國保はメディアに対して口を開いていなかった。20年夏に逡巡の日々を告白した國保だが、佐々木が偉業を成し遂げたことを受けて、改めて聞きたいことが私にはたくさんあった。

 佐々木の完全試合の後に、私は國保が大船渡の監督を退いていたことを知った。まったく報じられていないその真相も知りたかったし、野球人・國保のバックボーンについても改めて質問をぶつけたかった。登板回避の決断の正しさは佐々木の偉業によって証明されたような形だが、なぜその判断ができたのか。詳しく語られてこなかった國保の米国独立リーグ時代の経験に起因しているように思えてならなかった。

 そして、國保の第一声を報じるのは、逡巡の日々を告白した相手である私の役目だという勝手な使命感にも駆られていた。

待ちに待った國保と会うチャンス
 2022年4月、私は大船渡に滞在し、國保と会うチャンスを待っていた。國保とは個人的な連絡はとることができず、学校も國保に取り次いではくれなかった。ならば、アポなしであっても、國保がいるかもしれない場所に向かうしかない。私は大船渡が練習試合をすると聞けば試合会場に足を運んだ。

 これまで対面するなかで、國保が私のSNSを見ていることは勘づいていたため、「今、大船渡にいる」「今、駅前の○△という店で食事している」などと発信し、それを見た國保が急に姿を現してくれることを密かに期待していた。でも、待ち人は現れなかった。

 ようやく再会を果たせたのは、4月29日の春季岩手大会沿岸南地区予選が行われた平田公園野球場だった。

「去年(2021年)の夏に、監督を退任して副部長となりました。僕は毎日、自宅から片道3時間かけて大船渡に通勤しているんです。(盛岡第一)高校時代に僕自身が、監督が3人交代する経験をしている。それは生徒にとって、不幸でしかないですよね。

 高校野球の現場は、しっかり腰を据えて指導ができる教員こそ監督に相応しいと思っています。新しい(新沼悠太)監督は学校の近くに住んでいて、生徒たちの練習にもずっとついてあげられますから適任です」

 騒動の直後、学校には苦情の電話が殺到した。甲子園を目前にしながら、佐々木を登板させず、敗退してしまったことから、野球部のOB会からは解任を求める動きもあった。

 そうした声によって、國保自身が野球から離れたくなったのではないか――。あの騒動が監督退任の引き金となったのなら、これほど不幸なことはない。

「『野球が嫌いになりました』と言ってほしいのかもしれませんが(笑)、それはまったくありません。苦情の電話に関しては、学校は大変だったと思いますが、僕自身を守ってくださいました。解任の動きについても、母校が負けて喜ぶOBはいません。だから、僕自身はさほど気にしていませんでした。

 OBの方々も、勝ってほしいから、応援してくださっている。同じ指導者が同じ指導方針で選手を育てて勝てないのなら、指導方法を変えるか、監督を代えるか、どちらかになると思います。それは会社の経営と同じだと思います」

正しかったかはわからない
 國保は副部長となった2021年夏から2022年の3月までは指導から離れていたという。新年度を迎えるにあたって、転勤がなかったことから、改めて部長職に就き、4月から再び指導の現場に戻っていた。

「一度、指導を離れたからこそわかる選手の成長もある。それを学びましたね」

 佐々木の完全試合のニュースは、練習試合後に携帯電話で確認した。その感想はと問うと――拍子抜けするぐらいに淡々と言葉にした。

「ふーんという感じ。ああいう大きいことをやるとも、やらないとも思っていなかったから意外とそんな感想ですよ。もちろん、活躍は嬉しいですよ。それはもう。NPB(日本プロ野球機構)の世界に慣れて、落ち着いて自分のボールを放れている。160キロを投げられたとしても、それを打ち返すのがプロの世界。スピードガンの表示以上に大事な要素が投球にはある。他の投手が投げないようなボールを投げられれば必ず打ち取れる。そうしたボールをこれからも追求してほしいです」

 高校時代からの成長についても言及した。

「高校に入学した頃は、投げ方にしても走り方にしても、動きがカクカクしていて、ぜんぜん滑らかじゃなかったんです。2年生、3年生になるにつれ、少しずつ滑らかになっていきました。プロに入ってからの投球フォームも、だんだんとロスなく力がボールに伝わるような感じに良くなってきている。アップデート、レベルアップを繰り返している印象を受けます」

 朗希を投げさせなかったことが本当に正しかったのか――そう自問自答する日々は3年の時を経ても変わらない。完全試合が達成されたことで、國保の決断は英断だったと考えるのは短絡的だろうか。國保は言う。

完全試合をプロで達成したからといって、あの決断が正しかったのかどうかはわかりません。(花巻東との)試合に負けたということは、正解の戦い方ではなかった。結局、朗希が登板しなくても、勝てるようなチーム作りを僕ができなかった。他に打つ手はなかったのか。それをずっと考えてきました。ひとつだけ言えることは、たとえあの日に時間が戻ったとしても、同じシチュエーションなら僕が朗希を花巻東との決勝に起用することはないということです。

 当時、私が一番恐れたのはヒジの故障です。ピッチング時、右腕は廻旋運動をして、遠心力が生まれる。登板が重なり、かなりの球数を放ってきた疲れた状態の朗希のヒジのじん帯や上腕二頭筋などの筋肉が、160キロ超のボールに耐えられるのか。そこを懸念しました。決勝で投げたとしても、故障はしなかったかもしれない。だけど、故障リスクが最も高い日だったことは間違いありません。だから登板させなかったことは後悔していません」

 一方で、2019年の岩手大会の戦い方において悔いているのは、194球を投げた4回戦の盛岡四戦で降板させなかったことだという。

「9回に追いつかれて延長に入り、球数がどんどんと増えていった。降板させるべき球数の目安というのは、投手それぞれ、異なると思うんです。人によって70球かもしれないし、120球かもしれない。同じ一球でも直球とカーブとでは肩肘への負担は異なります。選手の疲労度、ケガのリスクというのは、球数だけで単純に推し量れるわけではなく、結局は、選手の状態を見て判断するしかない。あの試合はやはり、途中で降ろすべきだったんでしょうね……」

「お答えできないチームの事情があった」
 また、決勝の前日となる準決勝の一関工戦を129球で完投させたことについても話が及んだ。

「ベンチにはベンチの考えがあり、お答えできないチームの事情があった。盛岡四戦は降ろすべきだったと思うけれども、この試合はそうは思っていません。まず勝たないことには次に進めない。矛盾するお答えになるかもしれませんが、トーナメントである以上、ひとりの投手で勝ち上がることはできない。『1』を背負った投手しか投げさせないとなると他の投手のモチベーションも上がりません。そういったことも含めて、決勝では朗希を登板させなかった。真夏のトーナメントを勝ち上がるということは本当に難しいです」

 もしかしたら2番手以下の投手に、肩やヒジの故障があった選手がいたのかもしれない。そういう裏事情を一切明らかにせず、言い訳をしないところが國保らしい。

 監督を退任して肩の荷が下りたということもあったのか、2020年夏に話を聞いた時よりもさらに丁寧に、時間をかけて國保は言葉をつないでいった。

 話の途中で、入学したばかりの1年生たちが國保の指示を仰ごうと勢揃いする場面があった。中座した國保は、冗談を言いながら試合までの時間に昼食を摂るように指示していた。球児たちの表情はなんとも柔和だ。球児から慕われているのが伝わってきた。2年前の國保とこの日の國保のどちらが体育教師・國保の素顔なのか、考えるまでもなかった。

「ひ弱な選手が多いような印象は受けます」PL学園伝説のスカウト(86)が語った「軟式出身・硬式出身選手の優劣」 へ続く
柳川 悠二

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