M・シューマッハ、逆風下の初タイトル!

90年開幕戦にA・セナとトップ争いしたJ・アレジほどではなかったが、91年中盤のエディージョーダンからM・シューマッハのデビューもインパクトあった。スパフランコルシャンで予選6位グリッドについた。スタートでクラッチを壊し、1コーナー前でレースは終わったが、次戦ホッケンハイムではベネトンに移籍し、6位のN・ピケより上の5位に入賞したハズ。

当時、グループCメルセデスにはJ・L・シュレッサーらのシニアチームと、K・ベンドリンガーとH・H・フレンツェンとM・シューマッハのジュニアチームがあった。先にF1デビューした2人よりもインパクトあった。

92年からは、ベネトンのエースとして、ウィリアムズのN・マンセルにブッちぎられたマクラーレンのA・セナを煽った。93年もN・マンセルがA・プロストに変わっただけだった。

94年、A・セナはウィリアムズに移籍した。2ndはD・ヒル。N・マンセルとA・プロストに続き、楽に勝てるとタカを括っていた。しかし、給油レギュレーションがF1の展開を変えた。フォードV8のベネトンは軽い燃料で走れた。給油戦略は、Cカー育ちのシューマッハに一日之長があった。ピットワークで差がついた。後続車に弾きだされたり、3戦勝てずに4戦目のサンマリノに来た。ベルのヘルメットを規格違反の薄肉に変え、ヒザに当たるとステアリングシャフトを切断、細いパイプで再溶接させた。接続ピンすら省いた。あの左高速コーナー、セナは左にステアしたがフロントタイヤはステアしていなかった。バリアにヒットし、折れたフロントサスペンションアームが薄肉ベルのメットごとセナのアタマを串刺にした。

A・セナが死に、FISAはM・シューマッハにブッちぎりチャンピオンを許さず、トラコン疑惑やドライビングに難癖をつけた。止めはシューマッハに出場停止を負わせ、遂には最終戦アデレード次第なトコまで陥れた。

アデレードシューマッハはタイヤバーストに見舞われ、3輪走行状態だった。ヨコを抜きに行ったヒルにブツけた。シューマッハのブツけはハッキネンビルヌーブらにもやったが、上手く行かなかった。このヒルの時だけは正当だと思った。

 

 

 

*****************************

疑惑のマシンB194で才能を疑問視されていたシューマッハ。だがその実力は本物だった
7/22(金) 12:00 Yahoo!ニュース
  46
ベストカーWeb
 7回ものワールドチャンピオンシップを保持しているミハエル・シューマッハ。この記録は現在メルセデスルイス・ハミルトンに並ばれているものの、シューマッハベネトンで2度のワールドチャンピオン、フェラーリで5回連続のワールドチャンピオン獲得している。そして、ハミルトンとの大きな違いはチームの結束力を固め、チャンピオンチームを作り上げていったことだ。

【画像ギャラリー】当時の貴重な写真で振り返るシューマッハ伝説(2枚)

文/津川哲夫
写真/池之平昌信

最初に立ちはだかったのは伝説のドライバーアイルトンセナ
 その最初の強力なライバルはセナ。93年シーズンのセナ・カスタマーHB と シューマッハ・ワークスHBの対決は見ものだった。シューマッハはこの年セナに敗れはしたが、その後デーモン・ヒル、ジャック・ビルニューブ、ミカ・ハッキネンキミ・ライコネンフェルナンド・アロンソ……。数々のライバル達と対戦しこれを下してきた。

悪夢の94年シーズンは悪役となるがその実力は本物であった
 94年アデレードでのウィリアムズのデーモン・ヒルとの対決では、なんとシューマッハヒルのマシンに接触しクラッシュ。こんな強引なレースの仕方や、この年のマシンB194はラウンチコントロール疑惑、電子スタートシステム疑惑(驚異的なスタート加速が可能になる)……等々の疑惑もあったことで、94年シーズンのシューマッハは悪役の烙印を押され、さらにその才能も疑問視されていた。

  しかし、優勝後の失格、黒旗、出場停止……これらの異常なほど重いペナルティにより、シューマッハは数十点のポイントを失いながら、また、F1コミュニティの全てを敵に回しながらも、シューマッハベネトンは94年チャンピオンを獲得してしまったのだ。これは好き嫌いの問題ではなく、ベネトンシューマッハの実力は本物だったということ。

フェラーリの復活とチャンピオン獲得にはシューマッハが必要だった
 シューマッハは96年にベネトンを去り、フェラーリへと移籍を果たした。元チャンピオンの肩書きを持つトップドライバーがフェラーリで成功した例は近年皆無に等しい、このシューマッハを除いては。現実にシューマッハ以前では79年のジョディー・シェクターにまで遡らなければならない。

  シューマッハの移籍はフェラーリの壮大な計画によって推し進められた。その指揮者はジャン・トッド、のちのFIA会長である。

 壮大な計画とはもちろんここまで長期間低迷を続けてきたフェラーリの復活とチャンピオン獲得のことだ。現実にフェラーリは2度にわたるジョン・バーナード時代にチームのエンジニアリング部門が崩壊してしまった。ジャン・トッドはその再建も含めてチャンピオンチームの構築を任されたのだ。

ベネトンチャンピオンチームをそのままフェラーリへと移植
 トッドとシューマッハは密なる関係を築き、彼らはチーム構築のためにシューマッハのチャンピオンチームであるベネトンから大量に引き抜きを行っている。チームの現場指揮官にロス・ブラウン、デザイナーにローリー・バーン、それどころかバーンの配下たるベネトン・エンジニアリングチームのシニア達の多くをヘッドハンティングしている。

  つまりベネトン・チャンピオンチームをそのままフェラーリへと移植してしまったのだ。

 翌年アレジ、ベルガーが移籍したベネトンチームには、まだローリー・バーンとロス・ブラウンがいたがチームは下降線をたどっていた。意識はすでにフェラーリ再構築であったのだろう。そして97年スタッフの大量の離脱により、ベネトンは優勝できるチーム体制ではなくなっていた。

フェラーリシューマッハ驚異の連続5回のチャンピオン獲得
 シューマッハはこのプロジェクトの柱となり、スクーデリアのゼロからの構築に身を捧げてゆく。実際、96年には全く走らないバーナードマシンF310で多くのリザルトを作り上げ、翌年ローリー・バーンが改良を加えたマシンF310Bでタイトル争いに絡んできた。この97年からベネトンで、シューマッハを育てたブラウンとバーン。そして気心の知れたスタッフ達と協力してチャンピオンチームを作り上げていったのだ。

 97、98、99年……、スクーデリア・フェラーリは確実にポテンシャルを上げてきた。トッドはフェラーリに就任した93年、マニクールの会見で「私はオーケストラの指揮者、力のあるスタッフから最高の力を引き出すのが役目、その成果は5年後ぐらい」と語っていた。そして西暦2000年にシューマッハ達が押し開けた扉の向こうには、連続5回のチャンピオンが待っていた。

 デジタル時代の先鋒、ミハエル・シューマッハ。そのF1での足跡を追えば彼のF1へのコミットメントの偉大さに気付かされる。

 現在シューマッハはスキーでの事故以来、その容体は不明でありニュースは全て憶測でしかない。願わくば再び元気なレジェンドの姿を拝みたいものである。

 津川哲夫
1949年生まれ、東京都出身。1976年に日本初開催となった富士スピードウェイでのF1を観戦。そして、F1メカニックを志し、単身渡英。
1978年にはサーティスのメカニックとなり、以後数々のチームを渡り歩いた。ベネトン在籍時代の1990年をもってF1メカニックを引退。日本人F1メカニックのパイオニアとして道を切り開いた。
F1メカニック引退後は、F1ジャーナリストに転身。各種メディアを通じてF1の魅力を発信している。ブログ「哲じいの車輪くらぶ」、 YouTubeチャンネル「津川哲夫のF1グランプリボーイズ」などがある。

*****************************