早見優(56)、世間が舘ひろしのコト忘れたと思ってる?

早見優(56)、こちらが忘れてると思ってるから出て来るのか?

この辺の世代は、色々あった。

河合奈保子が消えたのは、例のジャッキー・チェンに連れ込まれ、貪り尽くされた事件だった。早見優の場合は、舘ひろしに連れ込まれ、膣ケーレン起こして騒ぎになったせいじゃん!だから、アイドルとしてやって行けなくなって、ひっそり一線から退いたじゃん!他にも、堀ちえみ後藤次利河合その子工藤静香と三巴で取り合い、河合その子に負け、「ボロボロです。」と言いながら退いた。松田聖子田原俊彦近藤真彦らとの話もありながら、郷ひろみと婚約、婚約破棄、神田正輝と結婚、神田沙也加出産、神田正輝と離婚、ハタ坊と再婚離婚、後は医師系と2連チャンじゃなかった?柏原芳恵は、浩宮に目を着けられたせいで大っピラに脱ぐコトもデキずに沈んだ。岡田有希子水谷麻里もそのすぐ下の年代だ。岡田有希子の自殺は峰岸徹の話の陰で、テレビ局キャスティングスタッフへの枕営業やレーサー萩原光と話や自身の教育や活動への意見相違による両親離婚の話もあった。水谷麻里は、マンガ家江口寿史に身請された。

オトコでも、田原俊彦ジャニー喜多川性加害でも名前が挙がり独立し、妻子取材に絡んだ芸能マスコミのツギハギ報道で葬られた。近藤真彦中森明菜に散々貢がせて棄て、自宅で彼女に自殺騒動を起こされた。また、沖田浩之みたいに自殺した者もいた。同性マネージャーとのもつれで俳優沖雅也が自殺した時期でもある。

 

 

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私は昭和のアイドルでよかったのかも――早見優が50代を迎えて振り返る、超多忙だった10代の日々 #昭和98年
5/31(水) 10:30 Yahoo!ニュース
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撮影:殿村誠士
ラジオが大好きだった14歳の少女は、当時ハワイからたった一人で来日した。「『これからどうなるんだろう?』ってワクワク。寂しさはありませんでした」。『夏色のナンシー』から40年、早見優(56)は相変わらずハッピーオーラ全開だ。アイドルとして駆け抜けた“昭和”は、早見優にとってどんな時代だったのか。あの頃を振り返りながら、今も輝き続ける秘訣を聞いた。(取材・文:山野井春絵/撮影:殿村誠士/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)

海外留学中の娘が、友達から勧められた音楽が早見優
 
撮影:殿村誠士
「留学中の長女が、アメリカ人の友達に『この日本のアーティスト、知ってる? 最近気に入ってるんだけど』とSpotifyで聴かされたのが、なんと私の曲だったんですって。『これ、私のママだよ』って娘が言ったら、不思議な顔をしたそうです。写真は17歳の頃の私ですから、混乱しちゃったみたい(笑)」

ティーポップ・ブームが定着した今、日本の若者にとって、今や昭和は「憧れの時代」だ。

「一時はジェネレーションギャップを感じることもあったんですけど、最近、娘たちも昭和にすごく興味を持っているんです。話が合うポイントが多くて、楽しいですね。それにしても、みんなどうしてこんなに昭和に興味があるのかしら。逆に知りたいです」

そう語る早見優(56)がデビューしたのは、バブル景気目前の1982年。デビュー曲はCMに起用され、「恋コロン、髪にもコロン、ヘアコロンシャンプー」と語りかける早見の初々しい姿がお茶の間を魅了した。翌年、最大のヒット曲となる『夏色のナンシー』をリリース。「NHK紅白歌合戦」にも出場した。

 
撮影:殿村誠士
それから40年。50代になった早見は、今も精力的に活動を続けている。2021年にYouTubeチャンネルを開設し、昨年はベストアルバムをリリース。今後はソロライブも予定している。

SNSで、ファンの反応やメッセージをすぐに見ることができるので、嬉しくて。デビューした頃は、ファンクラブを介してファンレターをいただき、それを読んでお返しして……って、コミュニケーションを取るのにもかなり時間がかかっていたので、これはすごいことだなと改めて思います。情報過多だとも思いますし、そこからどう選択をするかという難しさもありますけど、アナログ時代を知っている者としては、素直に面白いです」

事務所の社長の家でリクエストはがきを書いた
 
撮影:殿村誠士
3歳でグアムへ。7歳からはハワイで育った。14歳の時、単身日本へ。

「不安はなかったんですよね。やっぱり若いから、ワクワク感のほうが強かったんです。『え?歌?』『何、今日はコマーシャルのオーディション?』みたいな。もう毎日が楽しくて」

山口百恵の大ファンだったので、日本での芸能界デビューが嬉しくてたまらなかった。

「私がハワイでスカウトされたのが1980年の8月の終わりか9月で、もう10月の終わりには日本に行き、初めは叔母の家にお世話になりました。すぐに『ヤンヤン歌うスタジオ』という番組のなかの、近藤真彦さん主演の5分間の青春ドラマに転校生役として出演して。あれよあれよといううちにデビューとなって、もっと歌のレッスンもしっかりしておきたかったんですけど」

 
撮影:殿村誠士
当時、デビュー前にレコード会社の重役宅などで修業したアイドルも多かったが、早見はどうだったのだろう。

「私は2週間だけ社長宅にお世話になりましたね。『松田聖子さんもここにいたんだよ』と言われて。『ザ・ベストテン』を見て、終わったら『みんなで応援しよう!』ってリクエストはがきをせっせと書きました。あの頃は、はがきがとても大事だったんですよね。あとはアイスクリームを食べて、すごく太った記憶があります(笑)」

『明星』『平凡』『近代映画』……当時、アイドルのグラビアが充実した芸能雑誌は大人気だった。

「各雑誌、担当の方が決まっていて、『何がしたい?』って聞いてくださるんです。『原宿でクレープ食べたい』と言ったら、『OK!』。<早見優、休日はクレープを食べる>とか、そういう感じのコーナーを作ってくれて。しばらくすると、すごく撮影時間が増えて、『どうして?』って聞いたら、『カラーグラビアだから。もうモノクロ写真じゃないよ』と。やっぱり曲が売れると、雑誌の中でのポジションも変わるんだ、って子どもながらに驚きました」

夏色のナンシー』のヒットで、早見の人気は爆発。超多忙アイドル時代が始まった。

大学進学、合コンに憧れた
 
撮影:殿村誠士
当時、売れっ子アイドルは3カ月に1枚、シングルレコードをリリースしていた。忙しすぎて、当時の記憶は断片的だ。

「ここに(松本)伊代ちゃんとか(堀)ちえみちゃんがいると、記憶を補い合えるんですけど(笑)。もう、忙しすぎて、寝る時間もほとんどありませんでした。『夏色のナンシー』がチャートインしてバタバタしている時には、もう次の『渚のライオン』のプロモーションで地方へ。その間にアルバムも録音しなきゃいけない。2時、3時まで仕事して、朝5時に始発でどこかへ行って、とか。もう電車や車の中でしか寝られなかったんですよね。一度倒れて入院した先で、久しぶりに8時間寝たな……と考えたことをおぼえています」

現在、大卒のアイドルは珍しくないが、当時は10代前半から芸能界に入り、そのまま活動を続けるというパターンが多かった。そんななか早見は、上智大学国語学比較文化学科に進学する。

 
撮影:殿村誠士
「高校を卒業する頃、ちょっと疲れてしまって。年齢的にも、アイドルは続けていけないだろうし、今後就職活動をするにあたって、いろいろと学び直しておこうと思ったのがきっかけです。でも、大原麗子さんと連続ドラマのお仕事もあったりして、意外と順調だったんですよね。歌も歌いながら、仕事を続けていました。だから、大学3年生の時かな。周りの友達がみんな就活をして大変そうだった時、言われたんです。『優ちゃんはいいよね、仕事があるから』って。その時に、あ、そうか、この仕事は一生続けていけるんだ、と思って」

合コンに誘われたこともある。

「10代、青春の時期はずっと仕事だったので、合コンに行くのは憧れでした。楽しみで、スケジュールにも書いておいたんですけど、仕事が入ってしまって。結局、合コン体験はできずでした(笑)」

40歳を過ぎて図太くなった
 
撮影:殿村誠士
20歳を過ぎた頃、事務所から「もうレコードが売れない年齢になるから、路線を変えてお芝居を中心にやっていこう」と言われ、早見は大きなショックを受けた。

「『えっ、もう大好きな歌を歌っちゃいけないの?』って、すごく落ち込みました。ジャズシンガーだった父に相談したら、『レコードが売れるばかりが歌手じゃないよ。あなたの歌を聴きたいという人が一人でもいたら、歌い続けるべきだ』と励ましてくれたんです。母も『お父さんにジャズを習ってきなさい』と背中を押してくれて、そこからですね。ちょうどその時に、ミュージカルのお仕事もいただいて、こういう形でも歌は続けていけるんだ、と自分でも目からうろこでした。そうそう、当時流行していた女子プロレスに転向しませんかというオファーもありましたね(笑)」

自分には何ができるのか。この先どうなっていくのか。いつもはつらつとして、悩みとは無縁に見える早見だが、悩み多き20代を過ごしたと振り返る。

「こう見えて、私はとっても人見知りだったんですよ。なんだかずっと悩んで、グジュグジュして。……クヨクヨしなくなったのは、たぶん、子育てをしてから。子どもに、自分の落ち込む姿を見せるのが嫌だったんですね。すぐに解決策を見つけようって、母親になってすごく強くなったと思います。40歳を過ぎると、いろんな意味で図太くもなります。老け込むのは嫌ですけど、年を重ねることで、精神的な安定を見つけられるのはいいことですよね」

 
撮影:殿村誠士
今では、まさにイメージ通りの「ウキウキ性格」。50代も折り返しだが、抜群のスタイル、つやのある髪と肌を保ち、その美しさはとても自然だ。秘訣は、よく歩くこと。時間があれば何キロでも歩いて移動する。ジムに通い、睡眠もしっかりと取る 。

「何か楽しいことを探すと、毎日が楽しくなりますよね。相変わらず音楽は大好き。K-POPにもはまって、ダンスクラスに通ったりしてるんですよ。最近、80年代のラジオをテーマにしたCDの中でラジオ番組に電話リクエストをするラジオ大好きな女の子役として出演したのですが、これも最高にウキウキでした! 若い頃から大好きだったカマサミ・コングさんや小林克也さんも参加されていて、私は本当にラジオ世代ですから、嬉しくて。昭和にはまっている娘たちも、発売を楽しみにしてくれてます」

好きな食べ物は焼き肉なのにクリームソーダと言っていた
 
撮影:殿村誠士
今を思い切り謳歌しているとほほえむ早見に質問をしてみた。自由にSNSで情報を発信できる現代と、アナログだった昭和、もしも選べるとしたら、どちらでアイドルになりたいと思うか?

「うーん、どうなんだろう。昭和のアイドルって、どこかすべてイメージを周りから決められていたという面はあるんですよね。例えば、私は当時焼き肉が好きだったんですけど、『イメージがよくないからクリームソーダにしなさい』と言われました。取材では、『本当はカルビが好きなんだけどな……』と思いながら、そう答えてました(笑)。今はそんなこと言ったら、逆に不自然。だから、現代のほうが、自分らしくいられるのかな……と思う。でも、やっぱりあの頃を生きて、ここまでたどり着いた現在なので、私は昭和のアイドルでよかったのかも」

芸能界で長く仕事を続けてこられたのは、周りの人たちに恵まれたからだ、と早見は言う。
20年以上の付き合いを続けるスタッフも多い。

「私はきょうだいもいないですし、最愛の母も私が20代の頃に亡くなってしまいました。でも皆さんに、家族のような気持ちで長く付き合っていただいて、あまり孤独を感じることなく、ここまでやってこられました。どの世界でもそうだと思いますけど、孤独感が一番つらいから」

モットーは、「面倒だと思ったその時に、もう一歩前進すること」。

龍村仁さんの映画『地球交響曲』の中で、佐藤初女さんという福祉活動家の女性が言っていたことがすごく印象的で。彼女は、『面倒くさい』とか『もうこれでいいや』という言葉が嫌いなんですって。『もうこれでいいや』と思った時に、もう一歩自分にできることはないかと前進すれば、何かが見つかる、と言うんです。20代の頃に、この言葉がとても印象に残って、私ももともと面倒くさがり屋だから、肝に銘じて、これをモットーにしていこうと。でも、何もしたくない日には、もう一日中、大の字で寝てますよ(笑)。そんなメリハリが大切なのかな、と思います」

早見優(はやみ・ゆう)
1966年日本生まれ。歌手、俳優、タレント。3歳から14歳までをグアム、ハワイで育つ。14歳でスカウトされ、1982年に『急いで!初恋』で歌手デビュー。1983年にNHK紅白歌合戦に出場。堀越高等学校を卒業後、上智大学に進学。1992年、ブラジルで行われた「地球サミット」に参加。1996年結婚、2女の母。昨年デビュー40周年を記念してベストアルバム『Affection』を発売。BS-TBS昭和歌謡ベストテンDX」のMCを担当するなど、テレビ、ラジオを中心に活躍。また絵本の翻訳や英語CDのプロデュース、エッセーの執筆など多彩ぶりも発揮する。7月12日に発売されるコンピレーションCD『FM STATION8090 ~GOOD OLD RADIO DAYS~ DAYTIME CITYPOP by Kamasami Kong』ではDJのカマサミ・コングにリクエスト電話をかける16歳のナンシー役で登場する。オフィシャルサイト:https://seishun-jpop.com/news/detail.php?id=110774

「#昭和98年」は、Yahoo!ニュースがユーザーと考えたい社会課題「ホットイシュー」の一つです。仮に昭和が続いていれば、今年で昭和98年。令和になり5年が経ちますが、文化や価値観など現在にも「昭和」「平成」の面影は残っているのではないでしょうか。3つの元号を通して見える違いや残していきたい伝統を振り返り、「今」に活かしたい教訓や、楽しめる情報を発信します。

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最終更新:5/31(水) 11:22Yahoo!ニュース オリジナル 特集(c) Yahoo!ニュース

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