巨人背番号15、2や5と並ぶ不遇の系譜!

巨人の背番号15、背番号2や5と並ぶ、不遇の系譜だ!不遇と言うからには、選手の状況と遇したフロントや指導者がいるのだ。

15は、城之内や横山や山倉や河原や澤村など、指導者と上手く行かなくなったり、地位を築いた気になり向上心なくなったり、個人トラブルや故障頻発したり、トレーナーの施術ミスなど、呪われてると言ってもいい。

2は、広岡や上田や松本匡や元木や松本など、2に変えてスタメン落ちが増えたりした。

5は、黒江やD・ジョンソンやリンドや清原らの番号、安定して働いたとは言い難かった。

高卒系指導者、巨人で言う川上や王や堀内、今なら中日の立浪など、チームがどうこう以前に自分の大人げない信念が優先し、選手を飼い殺しにしたり閑々干しにした。

城之内だったら、今だったら退団してMLB挑戦デキたかも知れない。似た投げ方をしていた水野は、MLBキャンプ参加後にドミニカやメキシコに行ったハズ。

巨人フロントもバカではないだろうに、そういうハズレ背番号を平気で渡している。

期待だけで背番号渡すからこうなる。伝統のチームと言うなら、ホントに活躍するまで軸になる背番号は空きにすれば良いのだ。

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巨人V9の功労者 城之内邦雄は川上監督に嫌われ“当て馬”に…「おかげで辞める踏ん切りがついた」
7/10(月) 9:06 Yahoo!ニュース
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11年で141勝を挙げ一時代を築いた「エースのジョー」(城之内邦雄投手=1968年9月)/(C)共同通信社
プロ野球名選手 心に響くひと言】#7

 城之内邦雄(元巨人投手)

  ◇  ◇  ◇

【写真】元ヤクルト鈴木康二朗 世界記録の756号を浴びた投手の意地「王さんに打たれて頑張れた」

 1965年から73年までの巨人V9に欠かせない投手のひとりが城之内邦雄だった。

「9連覇の始めの4連覇は俺がやった」

 確かに城之内の力投がなければ、9連覇は成し得なかったはずだ。

 千葉県の佐原一高から日本麦酒(現サッポロビール)を経て62年入団。オープン戦で4勝0敗、33回投げて自責点1、防御率0.27の驚異的な成績を挙げて新人ながら開幕投手に抜擢され、この年24勝12敗で新人王に。以降も勝ち星を量産して入団5年で100勝を達成した。

 そんな城之内に入団3年目ごろ、「エースのジョー」のニックネームがつけられた。

 当時は日活映画の全盛期で宍戸錠をエースのジョーと称していたことから城之内のジョーにひっかけ、人は城之内もエースのジョーと呼ぶようになったのだ。

 しかし、67年の17勝を最後に成績が急降下。71年には1勝しか挙げることができず、この年限りで現役を引退した。

 城之内が急激に成績を落とした原因は、大きく腰を回転させ打者に背中を向けながらサイドスローで投げ込むという、後年の野茂英雄を彷彿させるトルネード投法にあった。特に負担がかかる腰を痛め、同時に右肩も故障したことで、生命線とも言えた切れ味鋭いシュートの威力が半減してしまったのだ。

 しかも、当時の監督・川上哲治との折り合いの悪さも凋落に拍車をかけた。本人によれば、こんなことがあったという。

■オールスター戦への推薦を断った途端、態度が急変

 ある年、川上からオールスター戦に推薦するとの打診があった。

 しかし、もともと職人肌で目立つことを好まず、オールスター期間中はいい休養になると考えていた城之内は、川上の申し出を理由も説明せず断った。すると、川上は途端に冷たい態度を取り始めたのだという。城之内はトレードに出してほしいと球団に申し入れたこともあったようだが、それも、

「よそで投げられて活躍されたら困る」

 との川上の一言でかなわず、現役最終年の71年には当て馬(試合に出場する予定のない選手を偵察メンバーとして先発させる作戦)をほとんど使わなかった川上が城之内を当て馬に起用している。

「6番、ライト、城之内」

 球場に響き渡ったアナウンスを城之内はどんな思いで聞いていたのか。

「あの時は本当に頭にきた。しかし、あれがあったおかげで辞める踏ん切りがついた」

 後年の城之内の述懐だ。

(清水一利/ライター)
 
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