近鉄と合併してもリーグ優勝すらデキなかったオリックス!

近鉄身売り宣言に始まり、1球団消滅なら1リーグかと言われ、ホリエモンが名乗り出て2リーグ維持に戻った。当時ヤクルト古田会長はストもチラつかせたし、オーナー側交渉相手は何故かロッテの重松サンじゃなかった?近鉄身売りに際して、解散になればナベツネ密約の1リーグ運営にされるトコだった。当時は交流戦もなく、パ・リーグ球団は1リーグ運営になりたかったみたい。近鉄戦力は、オリックスに吸収される手筈だった。

そんな中、近鉄買収に手を挙げたのが当時ライブドア社長だったホリエモンだった。ホリエモン並びにライブドアの審査が通れば、近鉄を丸々ライブドアバファローズにし、フランチャイズを引き継ぎすれば良かったのだ。

しかし、何故か近鉄主力選手達をオリックスブルーウェーブに渡す前提がデキていた。しかも、近鉄が使っていた大阪ドームや日生や藤井寺は使えないコトになっていた。要は、オーナー連中は11球団1リーグにコソコソ動いていたのだ。それでも新球団として作るなら、宮城県仙台しかないコトになっていた。本来、球団経営の移動の便や気候を考えれば、岡山や静岡が良いハズなのに。

ライブドアを弾き出すため、ナベツネ楽天を引っ張り出した。ライブドアニッポン放送&フジテレビ買収を狙っていたが、楽天は横浜の株主たるTBS買収を狙っていたため、三木谷社長近鉄買収に乗り気ではなかった。ナベツネの寝技で、楽天三木谷に持たせた。

しかし、新球団扱いの楽天には、オリックスに大半の1軍選手を渡した出涸らししかいなかった。唯一、オリックス行きを拒否した岩隈久志しかいなかった。監督は、縁もゆかりもない田尾だった。近鉄2軍ばかりだが、場を与えられて頑張るかと思ったら、果てしなく負け、岩隈ですら2ケタ勝てず負け越した。翌年から肩を故障して、数年離脱した。田尾監督は、たった1年しかやらせてもらえなかった。岩隈からも数年を奪った。

本来、オリックス近鉄という2球団の1軍選手を揃えたのに、イチローでの日本一以降四半世紀、オリックスはリーグ優勝すらデキなかった。阪神オリックス2球団に跨がりダメにした、横浜高田繁とNPB最低GMを争った中村勝も一因だが。

 

 

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分配ドラフト後も頑なだった岩隈久志オリックスではプレーできません」【平成球界裏面史】
7/16(日) 9:01 Yahoo!ニュース
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結団式でも岩隈(左)に入団を渋られ苦い表情の仰木監督(2004年11月)
【平成球界裏面史 近鉄編(11)】平成16年(2004年)9月23日にNPBサイドと労組選手会の労使交渉が行われ、近鉄オリックスの合併を事実上受け入れる最終決断がなされた。

【写真】ドジャースに移籍した中村紀

 これにより、05年以降の12球団制の維持が決まり、楽天イーグルスが誕生する流れとなった。楽天が当たり前に存在する現代では想像できないかもしれないが、ここからのチーム編成はまさにドタバタ。それは当然で、近鉄バファローズを楽天イーグルスが買収するのとはまったく話が違った。

 あくまでオリックス近鉄を合併し、1球団が消滅した上で新規球団を再編成するわけだ。ライブドアとの新規参入合戦を楽天が制し、11月2日のオーナー会議で楽天球団が誕生。そこから8日にオリックス楽天に選手を振り分ける分配ドラフトが行われたのだが、すんなりとはいかなかった。

 戦力均衡を図るためのドラフトではない。近鉄オリックス両軍の選手からまず、オリックスがプロテクト25選手を優先的に選択。続いて楽天が20人を指名する形のルールでチームが編成されていった。

 オリックスは合併のメリットとして戦力補強も意図だとしていた。確かに最初に25人を選択できるわけで、両軍の主力を指名でき優位な編成を画策することはできた。

 だが、主力打者の中村紀洋分配ドラフト前の11月3日にポスティングでのメジャー挑戦を表明(オリックスのプロテクト枠にはオンリスト)。若きエースだった岩隈久志はプロテクトされながら、オリックスへの加入を拒否した。岩隈は「事前に(オリックスに)行きたくないという選手は楽天に行けると選手会から伝えられていた」とし、長期にわたって処遇が決まらないという異常事態も発生した。

 岩隈はオリックス新監督に決まった故・仰木彬氏や、小泉隆司球団社長と会談を重ねた。小泉氏との会談後の会見では「合併が決まった6月以降のシーズン、ずっとつらい思いで野球をやってきた。オリックスではプレーできませんと伝えた」とストレートに思いをぶつけた。

 パ・リーグ小池唯夫会長が05年シーズンのオリックスでのプレーを進言する動きも見せたが最後まで平行線。世論の反発もあり、最終的にはオリックスが折れる形で楽天に金銭トレードという決着をみた。

 礒部は自らの意思が尊重され、最初から楽天へ分配された。だが、社会人・三菱重工広島からプロ入りした際はブルーウエーブ志望だった。結果は近鉄の3位指名。当時の佐々木恭介監督が、いの一番でヘリコプターで現地入りし礒部を説得に当たり、入団となった経緯もあり「俺はプロ入り前もそうやったし、合併後にしてもそうやけど、ことごとくオリックスさんにはご縁がなかったんやろうなあ。ほんま、不思議なもんやで」としみじみ語っていた。

 ポスティングシステムを利用しての米大リーグ移籍を表明していた中村紀洋は、名門のドジャースに落札された。02年オフにはメッツからメジャー契約でオファーを受けた。それが近鉄に残留し、わずか2年後にド軍とマイナー契約。「もう俺には帰る場所(近鉄)はないから」と話した言葉が、当時の近鉄ナインの心情を代弁していたように感じた。
楊枝秀基
 
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