ボウズアタマや選手管理、悪か?バカ論理じゃないの?

高校野球、関わったり、ちゃんと観てないの?慶応?タマ~に甲子園に出たからって、テング?

何故、ボウズアタマか?炎天下に、バカ長い練習するのョ!長髪や染髪?そんなモノ、気にしていられないだろ!髪が乱れたとか言って、ノックや打撃練習のインターバル長くなるの、バカじゃん!

長時間の練習?長時間のタマ拾いはイヤだろうが、野球の練習、色々やれば時間かかるョ!NPBキャンプの練習時間長いだの、練習時間短縮だの言ってるが、今の日本の野球選手が中継プレーと言わず内野外野ヘタクソになってるの、バントやバスターヘタクソなのも、練習不足じゃん!高校がプロを見倣って、練習ハショって高校野球でもお粗末なプレーが出たりもする。

対暑対候やあらゆるグラウンド状況など、ちゃんと練習してないと、本来は困るんじゃないの?

バカ私立はちゃんと整備されたグラウンドいくつもあるから、整然と練習デキるのか?グラウンド整備も、有り余る部員をパシって使えば良いのか?

過剰な選手管理?野球は団体スポーツだョ!必要なコトを伝えず放置してるのを、飾ってるだけじゃない?

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「坊主頭を強制する文化」「過剰な選手管理」慶應高・森林貴彦監督が問題視する“高校野球の常識”「高校野球は許される範囲が極端に狭い」
8/11(金) 6:02 Yahoo!ニュース
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神奈川大会では東海大相模、横浜を打ち破り、甲子園出場を決めた慶應。そのチームを率いる森林貴彦監督の野球論をお届けする photograph by Toyokan Shuppansha
 神奈川大会準決勝で東海大相模を下し、決勝では横浜高校を撃破と、強豪ひしめく“戦国”神奈川から夏の甲子園出場を決めた慶應高校。「髪型自由」「長時間練習なし」という従来の高校野球とは一線を画する方針でチームを率いるのが森林貴彦監督だ。その考えを著書『Thinking Baseball ――慶應義塾高校が目指す"野球を通じて引き出す価値"』(東洋館出版社、2020年10月発行)から抜粋して紹介する(全3回の1回目/#2、#3へ続く)

【画像】「坊主頭が1人も…いない!」ショートカットの清原Jrの姿も、慶應高校、甲子園出場を決めた選手たちの写真を見る

過剰な選手管理、不正行為、同調圧力……
 高校野球の本来あるべき姿とは一体、どのようなものでしょうか。

 毎年、春と夏に甲子園で行われる高校野球の全国大会は、日本中に生中継され、華々しさに包まれています。しかしその実態は、高校生たちが大人のエゴに巻き込まれ、高校野球の価値そのものが年々、大きく低下しているのではないかと危惧しています。

 過剰なまでの選手管理、勝利を追求し過ぎるあまりに蔓延る不正行為、高校生を大人が理想とする型にはめ込もうとする同調圧力……。列挙していくと切りがありませんが、さまざまな問題が華やかな舞台裏には潜んでいるのです。

 夏の甲子園は2018年度に記念すべき第100回大会が開催されましたが、このままでは200回大会を迎えることなく、高校野球は衰退してしまうかもしれません。だからこそ、いま一度、高校野球がもつ価値を見直していくべきではないでしょうか。

高校野球がもつ価値とは何か
 では、高校野球がもつ価値とは何なのでしょうか。それは、高校生が野球を通して何を身に付けられるかにかかっていると思います。

 その一つとして挙げられるのが、困難を乗り越えての成長というプロセスを経験できること。どんなチーム、どんな選手にも悩みや苦労はあります。そうした困難に正面から立ち向かい、いかなる方法で乗り越えて自分自身を成長させていくか、そしてチームとしても成長できるか。そのプロセスを経験することに大変な価値があると、私自身は実感しています。

 これは野球でもサッカーでも、スポーツであれば同じことが言えるかもしれませんが、高校生が部活動をするということは、やはり教室だけではなかなか手に入らない「果実」を得られるのです。現在、部活動は厳しい視線にさらされ、授業の優先や教員の負担の緩和が重視されるようになり、縮小傾向にあります。「部活動はやるものではない」といった風潮が広がりつつありますが、それでも教室では得られない人間的な成長を経験する価値が部活動にはあると考えています。

慶應野球部では「手取り足取り指導」はしない
 そして二つ目の価値は、自分自身で考えられることの楽しさを味わえることです。自分で考えるのは難しさも伴いますが、その分やりがいも得られます。そうしたところを野球を通して感じてほしい、経験してほしいと思いながら、日々の指導にあたっています。

 そのため慶應義塾高校野球部では、1から10まで教えることや、手取り足取り指導するといったことはしていません。それよりも、選手自身がどのように打ちたいのか、どのように守りたいのか、どのように投げたいのかを自分で考えたほうがいい。自分なりの課題を見いだし考えていく中でコツをつかみ、自分なりの答えを見つけていくことに価値があるのです。

 もちろん、打ち方や投げ方、守り方を細かく教え込んだほうが正しいという考え方も理解できます。すぐに結果を出すには、そのほうが近道かもしれません。しかし、その選手自身が何かをつかんだかと問われると、「監督やコーチの言う通りにしていたらできました」という答えしか返ってこないでしょう。それでは、もし仮に将来プロ選手になったとしても、何か問題に直面したときに自分で考える力や習慣が身に付いていないため、大成することはおろか、一定の結果を残すことさえも難しいと言わざるを得ません。

何でも教えることがよいことなのか
 私は慶應義塾幼稚舎で小学校の教員も務めていますが、そこでも同じことを感じています。現代は習い事社会ということもあって、子どもたちは何でも「教えてください」と聞いてきます。野球も同じで、習い事化しているために、物心つく前からボールの持ち方やバットの握り方、構え方から打ち方に至るまで何でも教えてしまいます。これでは、“自然と自分でつかむ”という経験ができません。大人や親は子どもにいろいろなことを経験させたい、学ばせたいと思ってそうさせているのでしょうが、大人が子どもに対して何でも先回りしていくことが本当によいと言えるのでしょうか。

 私が子どもの頃は、空き地さえあれば、手打ち野球や三角ベースなど、子ども同士の関係の中で自然と遊びが生まれていました。さらに5年生と1年生が一緒に遊ぶ場合は、「1年生が高学年の子と同じルールではかわいそうだから」と、少し前から打ってもかまわないなどのハンディを与えるなどということが、子ども同士のやり取りの中で自然とできていました。

高校野球は許される範囲が極端に狭い
 逆説的に言えば、こうした子どもだけの行動には責任も伴い、場合によっては判断の間違いが起こる可能性も否定できません。しかし、それも含めて、子どもは子どもでその年齢なりに自分で考えているのです。例えば、5歳の子どもが生活のすべてを自分で考えるのは難しいとしても、その年齢なりに自分で考える余地は作ってあげなければいけません。本来はそうであるべきにもかかわらず、いまは大人が敷いたレールに子どもを乗せるだけという、まったく逆の方向に進んでしまっています。これでは、そのレールがなくなったときに、子どもはどの道に進んでいくべきか迷うだけです。

 もちろん人それぞれのコーチングスタイルがあるので、手取り足取りで個別指導をしていくという方法があってもよいのですが、少なくとも私はそういう哲学ではありません。特に高校野球の世界は、他のスポーツに比べてコーチングスタイルの幅がかなり狭く、その「常識」とされている範囲からはみ出したときに、「そんなものは高校野球ではない」「高校野球の世界ではそれは許されない」といった排除意識が生まれがちです。坊主頭を強制する文化の問題とも絡まりますが、高校野球は許される範囲が極端に狭いのが特徴だとも言えます。

 だからこそ、高校野球、部活動を通じて、高校生なりに自分で考える習慣を身に付けてもらいたいのです。

<「不正行為」編へ続く>
(「Number Ex」森林貴彦 = 文)

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