準備?落合博満のロッテ時代を見ていたの?

落合博満セ・リーグに来て、急速に落ちた。内田順三サンが見たのは、中日と巨人でのキャンプ?このヒトは元オリックスイチローのコーチだよネ?ロッテ時代のキャンプは見てたの?

落合、高校や社会人でもマトモにやり抜いてなくて、カラダがデキてはいなかった。ロッテでデビューまで、確か3年かかっている。本来は一塁手だったが、リーや有藤や水上いたから二塁手しか空きがなかった。あの独特のアッパースイングは、山内監督から嫌われてなかなか使ってもらえなかった。

3年目に1軍デビュー、日ハム島田と西武石毛と三つ巴の首位打者争いを制したが、水上とのコンビエラーでプレーオフを落とした。以後は稲尾監督下、リー引退で一塁手になり三冠王を2度獲り、有藤引退で三塁手でも三冠王獲った。

ロッテでは割と調整自由で、1軍と2軍キャンプの扱いや施設に大差なかったから、2軍側でゆっくりカラダ作りして、じっくり打ち込みを行ない、自分のバッティング作りに専念、オープン戦参加も中盤以降だった。

3度目の三冠王を獲り、いよいよ年俸1億超えるかという時に、有藤ロッテ⇒星野中日にトレードされた。中日でのキャンプ、1軍と2軍で扱いや環境や施設に差が大きく、星野にも1軍で手本になるコトを要求された。カラダがデキてない内から、1軍での打撃や守備や走塁練習に入れられ、カラダ作りに時間を使い打撃をじっくり仕上げるコトがデキなくなった。

中日移籍以降、シーズンに向けたカラダの準備が足りなくなって行った。そのツケは、カラダつきや守備に如実に表れた。

その結果が、巨人との開幕戦、西本のシュート攻めに苦しみ、デキ上がらないカラダで以降のシーズンをインコース対策に費やすコトになった。また、デキ上がらないカラダは守備にも影響した。巨人への移籍が実現したが、カラダを戻せず、中日との最終戦決戦では一塁ゴロをキチンと腰を落とさず捕りに行き股裂き、肉離れを起こした。リーグ優勝し日本一にはなったが、清原加入と入れ替り巨人退団を発表、ヤクルトと日ハムを天秤にかけ、日ハムに移籍した。

もう、130キロのストレートすら打てなくなっていた。

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落合博満はとにかく準備を大事にしていた」内田順三氏が見た“密室キャンプ”
2/13(日) 16:30 Yahoo!ニュース
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落合博満 1994年3月27日、対近鉄オープン戦=宮崎
 プロ野球は春季キャンプ真っただ中。若手にとってはアピールが必要となるが、実績を積んだ選手にとっては調整の期間でもある。過去、3度の三冠王を獲得した落合博満氏は独特な練習方法で入念に準備を行っていた。落合氏が巨人時代、選手とコーチの間柄だった内田順三氏(デイリースポーツウェブ評論家)が当時の様子を振り返った。

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 オチが巨人にいた頃は別格扱いで、当時の長嶋監督も調整は本人に一任していた。午前中にチームで行う守備練習、サインプレーの確認にはいたけど、あとのメニューは本人任せ。打撃練習も別で、午後になると、エアーテントにこもってバットを振っていた。

 その理由はマスコミをシャットアウトとして、より集中して行うため。落合係の後輩がパンと、コーヒーとタバコを用意して、あとは13時から17時頃まで出てこなかった。どんな練習をしているんだろうとのぞきに行くと、20分くらい打つと休憩、そのサイクルを繰り返していたね。

 練習方法は独特。打撃マシンをスローカーブに設定し、ホームベースをまたぐように正対して構える。そして、自分の体に向かってくる球を見事なハンドリングで打ち返す。ミスをしたら体に当たってしまうけど、一球も当たらない。時にはインサイドからバットを出してみたり、下からすくってみたり、様々なバットコントロールを駆使して体に染みこませていた。後ろに立つよう言われ、「内田さん、後ろの肘が後ろに入ったら教えて下さい」と言われたこともあった。

 彼がケガをしたとき、一緒に夜間の素振りを見たこともあったが、イチ、ニー、サンという柔らかい間合いの取り方やバットコントロールなど、彼の引き出しの多さは自分にとってもすごく勉強になったね。カーブマシンの練習は広島のコーチになった時、当時の若手選手にも試してみたけど、体に当たる子もいた。緩い球だからケガをすることはないんだけど、マスクを付けて練習させた。

 当時、オチの練習を見た若い子なんかは「楽をして打っているな」と思った選手もいたかもしれない。オープン戦では間合いを確認するために4打席全て見逃し、なんてこともあった。でも、それが落合スタイル。感覚で打つだけではなく、とにかく、準備を大事にしていたし、それにかける時間も多かった。

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