長嶋茂雄、初年度最下位について

川上哲治監督はV10を逃し、長嶋茂雄に監督を譲った。王貞治は2年連続三冠王にあったが、投手層と長嶋の抜けたクリーンアップは最低でも補強が必要なポイントであった。一方で、長嶋が引退した以上、次ぐ年代のV9戦士の後継者達を急ぎ用意する必要があった。中畑や篠塚らを地獄の伊豆キャンプでシゴいたが、結局シーズンには間に合わず、D・ジョンソンは本来二塁手なのに三塁手をやらされ、守備にも打撃にもブレーキになった。あの時期にムリヤリでも中畑を三塁手に据え、河埜が定着するまで土井が遊撃手やっていたら、どうだったか?いや、篠塚が遊撃手やっていたら、巨人の歴史は変わっていたのではなかった?長嶋にとって、高田繁左翼手三塁手へのコンバートは、この1年経ないと浮かばなかったのか?いや、後楽園の間は、塀際の魔術師は輝き続けたハズ。

堀内はピッチングの壁に当たり、5回以降崩れるコトが増え、大きく負け越した。高橋一も目立たず、翌年張本勲獲得のトレード要員になってしまった。小川邦や新浦は中継などでよく使われたが如何せん経験不足、小川はメジャーに留学し新浦は翌年に大ブレークできた。横山は結局出きれず、以後の背番号15ジンクスを始めた。

この1年を経て、張本勲⇔高橋一&槌田&富田、浅野⇔倉田、K・ライト獲得、D・ジョンソン二塁手固定、高田レフト⇒サード、堀内スライダー習得、新浦&小林繁ブレークと、翌年&翌々年優勝への足掛りを作った。

新巨人の星で、星飛雄馬が背番号3をつけて、左打者&代走&右投手復活したストーリーになったのもこの時期だった。テレビでは翌々年日本シリーズ終戦、右で大リーグボール1~3号&蜃気楼を使い、日本シリーズ完全試合達成、日本一を達成した。メジャー留学して終わった。

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巨人史上唯一の「最下位シーズン」 思っていたより“暗黒感”が漂っていた〈dot.〉
3/13(日) 18:00 Yahoo!ニュース
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球団唯一の最下位となった1975年シーズンにチームを指揮した長嶋茂雄
 常勝軍団・巨人は、優勝回数38回、日本一22回と両リーグ通じてトップの実績を残している(2位は西鉄時代を含む西武の優勝23回、日本一13回)。

【写真】「平成で最もカッコいいバッティングフォーム」はこの選手!

 そんな栄光の数々の一方で、球団史上初の最下位に沈んだ1975年は、2リーグ制以降5位以下が3度しかない球団史(79年、05年に5位)の中でも、唯一の暗黒期と言えるだろう。

 この年は、前年限りで現役を引退した長嶋茂雄が新監督に就任。高度なテクニックを駆使し、ファンを魅了する“クリーン・ベースボール”をスローガンに掲げた。

 だが、長嶋とともに“V9戦士”の捕手・森昌彦、遊撃手・黒江透修も引退。トレードは一切行わず、ドラフト1位も高校生の定岡正二という端境期のチームで、2年ぶりのV奪回を目指すには、大きなプラスアルファが必要だった。

 そこで、“ポスト長嶋”を担う助っ人を獲得することになった。これまで“純血主義”を貫いてきた巨人が、現役大リーガーを入団させ、王貞治とクリーンアップを組ませる新構想は、伝統にとらわれず、新たな常勝チームをつくり上げようという前向きな姿勢の表れでもあった。

 リストに挙がったのは、ドジャース三塁手、ケン・マクマレンとエクスポズの捕手、ボブ・スティムソンだった。しかし、いずれも交渉は失敗に終わり、ONのNが抜けた打線に大きな不安を残した。さらに頼みの王まで左足ふくらはぎ肉離れで離脱と計算違いが続く。

 シーズン前の予想では、セ・リーグは前年の覇者・中日を中心に6チームとも実力が拮抗。投手力の良い巨人は、王が3年連続三冠王を実現すればV奪回も可能というシミュレーションだったが、開幕戦の大洋戦では、王が前記の故障でスタメン落ち。エース・堀内恒夫も6失点KOされるなど、投打とも歯車がかみ合わず、連敗スタートとなった。

 その後、引き分けを挟んで4月8日の広島戦でシーズン初勝利を挙げ、4位に浮上したのもつかの間、ここから3連敗し、再び最下位に転落する。

 苦境にあえぐチームにひと筋の光明をもたらしたのが、4月18日、ブレーブス二塁手で、73年に43本塁打を記録したデーブ・ジョンソン入団決定のニュースだった。

「狭い日本の球場なら50本以上は打てる」と期待されたが、ジョンソンは本来中距離打者で、本塁打数も73年以外はいずれも20本に満たなかった。

 はたして来日後、大砲の役割を求められたジョンソンは、日本の投手の変化球に手こずり、不慣れな三塁を守らされたことも打撃に影響を及ぼすという悪循環。5月13日のヤクルト戦では、1点を追う8回1死一、三塁でスクイズを命じられたが、外角球にバットを引いてしまうチョンボを犯し、敗戦の元凶となった。

 7月26日のヤクルト戦では、NPB歴代野手ワースト(当時)の8打席連続三振を記録。直近20打席で無安打12三振の惨状に、「ジョン損」の造語まで生まれた。

 打率.197、13本塁打に終わったジョンソンは「これ以上迷惑をかけたくない。来年は巨人でプレーする気はない」と一時は退団をほのめかすほど自信をなくしていた。

 一方、ONから“片翼飛行”となった王は開幕こそ出遅れたが、スタメン復帰後は徐々に調子を上げ、8月上旬までに23本塁打を記録していた。

 だが、ライバル・田淵幸一阪神)に10本差をつけられ、チームの成績同様、タイトル争いも大苦戦とあって、8月12、13日の直接対決では、田淵に本塁打を打たせないための変則シフトもお目見えした。

 走者がいるときは勝負を避けて歩かせ、無走者の一発狙いの場面で田淵が打席に立つと、レフトがラインギリギリ、センターがレフトの定位置、ライトが右中間を守るという“田淵シフト”で対抗したのだ。

 ところが、そんなときに限って、打球は人のいないところへ飛ぶもので、まさかの2試合連続三塁打を献上。足が遅く、ランニングホームランは至難の業であることから、漫画の中で「あり得ないこと」を意味する“タブラン”なる新語も生まれた田淵に2試合続けて余計な進塁を許したのも、暗黒期を象徴するような珍事だった。

 同年、田淵は43本塁打で初タイトルを獲得し、王のキング独占は13年で終止符を打った。

 そして、10月10日、巨人は打たれても打たれても長嶋監督が辛抱強く使いつづけた新浦寿夫の7回2失点の好投で阪神に勝利したものの、5位・大洋が中日に勝ったことから、球団創設以来初の最下位が決定。同15日には本拠地・後楽園で、球団史上初Vを達成した広島の胴上げを目の前で見せつけられる屈辱も味わった。

 最終的に47勝76敗7引き分けで、広島に27ゲーム差の最下位。にもかかわらず、観客動員は過去最高の283万人を記録するなど、ファンはけっして見捨てていなかった。

 そして、数々の試行錯誤の末、「何をすべきかが目の前に見えてきた」長嶋監督も翌76年、“チャレンジ・ベースボール”をスローガンに、トレードで張本勲加藤初を獲得したのをはじめ、高田繁の三塁コンバート(ジョンソンは本職の二塁へ)、新浦の一本立ちなど、打つ手打つ手が奏功し、最下位から優勝というミラクルを達成する。

 結果的に新時代の扉を開ける転換期となった75年。球団史上たった1度の“汚点”も、けっして無意味なシーズンではなかったと言えそうだ。(文・久保田龍雄)

●プロフィール
久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍プロ野球B級ニュース事件簿2021」(野球文明叢書)。

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