江川卓だけでなく、中尾孝義も!

あの当時、目立った特別推薦はなく、大学側の任意選抜だった。慶大は、"陸の王者"を標榜していた。(この頃のマンガ、水島新司「男どアホウ甲子園」でも、慶大は東京六大学野球制覇に迫った東大・藤村甲子園の最後のライバルだった。)

江川卓中尾孝義ら、高校野球で目を引いた選手達、勉強などしているワケでもなく、内々に「受験に来たら、合格させるから。」と言われていたから、信じて受験に行った。しかし、慶大内部でクーデターとも作為(F教授か?阪急1位指名を蹴った、江川を落とした大学だとアピールできる。)とも言われている。江川卓中尾孝義も不合格。江川卓は法大へ、中尾孝義プリンスホテルへ行った。

江川卓は、大学時代に肩を故障しながらも大活躍し、慶大や早大の前に立ちはだかった。中尾孝義は、プリンスホテルで活躍した。

 

 

 

 

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ドラ1蹴ってプリンスホテル入り 「野球部1期生」だからこその超VIP待遇だった(中尾孝義
4/7(木) 9:06 Yahoo!ニュース
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堤義明氏(C)日刊ゲンダイ
【「革命捕手」中尾孝義が見たプロ野球】#50

 兵庫・滝川の3年だった私は同学年の作新学院江川卓(元巨人)と慶大の入試に挑んだ。しかし、結果は不合格。江川は法大へ、私は1浪後に専大へ進んだ。

西武・森がマスクに“八つ当たり”指骨折の大失態 「捕手としての所作」の欠落を名球会OB指摘

 専大にスポーツ推薦で入学する新1年生は2月に入寮する。一般入試組の私は3月に入部。推薦組より1カ月ほど遅かった。後で聞いた話では「2死満塁でも敬遠されたスゲーヤツが入ってくるらしい」と部内で話題になっていたそうだ。

 ある時、足の速いレギュラー選手が盗塁の練習をすることになり、「キャッチャーをやってくれ」と頼まれた。ヨッシャーと捕手に入り、全て二塁でアウトにした。「おまえ、肩強いな」と一軍の全体練習に入れることになった。

 社会人チームとのオープン戦に出場すると、本塁打を含む3安打。4年生のレギュラー捕手が君臨していたため、開幕マスクはかぶれなかったが、2試合目の九回に同点2ランを放つと、次の試合から正捕手として試合に出られるようになった。

 東都通算13本塁打、59打点、打率3割をマークして、1978年春には25年ぶりに優勝。MVPに選ばれた。法大・江川卓東海大原辰徳(元巨人)らと出場した日米野球では、日本代表の正捕手として全試合に出場した。

■タクシー通学、レストラン、洗濯すべてタダ

 大学4年になると、「関西の社会人で頑張るのもええやないか」と言っていた父が「プロへ行け」と繰り返すようになった。中日が最も熱心でスカウト部長に「1位指名」を約束されたが、社会人チームを立ち上げることが決まっていたプリンスホテルからも「大学からプロ顔負けのメンバーを集める。一緒にやろう」と誘われていた。当時は飛ぶ鳥を落とす勢いだった西武グループの会社。第1期生というのも魅力だった。高3時に一緒に慶大を受験し、1浪後に入学して活躍した堀場秀孝(元広島など)、駒大の石毛宏典(元西武など)も入ると聞いた。私はプリンスホテル入りを決断した。

「ドラ1を蹴るなんて、おまえはアホか!」

 怒った父と大ゲンカになったものの、中日側には「とりあえずプリンスホテルに2年間お世話になります。もし2年経った時に中日さんがボクを指名してくださるなら、その時は必ず入団します」と頭を下げた。

 秋のリーグ戦が終わると、専大の寮を出ないといけない。すると、入社が決まった専大の3人には、新宿プリンスホテル内に部屋が用意され、無料で泊まっていいという。さらにホテルから川崎・生田キャンパスまでのタクシーチケットが渡され、往復の通学で使うことができた。ホテル内のレストランでの食事は全てタダ。洗濯物はクリーニングに出していいという。当時の支配人には頻繁に食事に連れていってもらった。もちろん、普通に入社する社員ではあり得ないことで、「野球部1期生」だからこそのVIP待遇だった。

中尾孝義/元プロ野球選手)

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