このヒト、高齢者向けの枯葉マークを四つ葉マークに変えさせたんだっけ?「新車情報」も見ていたが、各スペースの寸法設定とかは色々突っ込み入れていたが、日本の規格に最も関わる車幅や全幅や全高らには殆どノータッチだったハズ。
80年代終盤から続出した、動力5ナンバー程度の車幅3ナンバー車両、製造元は日本自動車メーカーに決まっている。しかし、ワザと触れずにスルーし新車のお囃子立てていたコトは、モータージャーナリスト達の見地不足ないしはユーザーに対する情報欠落だったと思う。
日本のモータージャーナリスト、元レーサーもいれば、タダのカネ持ちコレクターも多い。日本のクルマ雑誌も、そういうヒト達とばかり関係をズルズル深めて行くから、規格商品としてのクルマ、規格を損ねたコトでのマイナスをキチンと伝える切り口を持たない、自動車メーカーヨイショ記事ばかりになった。
ハッキリ言うべきだ。日本自動車モータージャーナリストの老害の1人がいなくなっただけだ。このヒト1人いなくなったくらいで、ダメな日本自動車マスコミは変わらないし、日本自動車メーカーに提言する者もいない。
日本自動車メーカー堕落への放置プレイは、まだまだ続く。
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巨星堕つ…日本自動車ジャーナリズムの創成期を築いた三本和彦氏追悼記
8/30(火) 20:00 Yahoo!ニュース
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ベストカーWeb
2022年7月16日、日本における自動車ジャーナリズムの黎明期に先頭を歩み、その礎を築き上げた偉大なる功労者、大先輩の三本和彦氏が天国へと旅立たれた。享年91。氏の足跡とベストカーが知る氏の姿をここにお伝えしたい。
【画像ギャラリー】その眼差しは常に「使う人の立場に立って」。三本さんの歩んだ道のりをギャラリーで辿る(10枚)
※本稿は2022年8月のものです
文/ベストカー編集部、写真/ベストカー編集部 ほか
初出:『ベストカー』2022年9月10日号
■三本さんはまさに、日本のモータリゼーション進化の歴史の証人だった
本誌でも舌鋒鋭く、自動車業界に活を入れた三本さん
三本さんが自動車業界に与えた影響はあまりにも多大で、特にTVK(テレビ神奈川)で1977年から2005年まで28年間にわたって放送された「新車情報」での歯に衣着せぬ評論は、自動車メーカー関係者に大きな影響を与えたが、ご本人に言わせれば「ボクはね、自動車ジャーナリストではないんです。あくまでも"ジャーナリスト"。使う人の立場に立って物を見れば、当然気になるところや改良すべき点は指摘することになる」ということになる。
ベストカーでも古くからお付き合いをいただいていたが、特に2010年代に入ってからは、80歳代という年齢にもかかわらず、精力的にベストカーの取材にお付き合いをいただき、クルマそのものに対する批評はもちろんのこと、自動車業界に対する提言や、さらには経済、産業界に対する、幅広い視点での提言をいただいた。
三本さんとの取材はいつも時間が大幅に押した。ご本人は「忙しいから1時間だけしか時間が取れない」などと言うのだが、お伺いしてお話を伺っていると、本題もそこそこに、あらぬ方向に話が広がり、気が付けばあっという間に2時間、3時間と時間が経過しているのだ。
肝心の話に軌道修正をするのだが、その脱線した余談がまた、三本さんとのお話の楽しみでもあった。
誌面には書けないような、三本さんの長年のジャーナリスト人生ならではの秘話、裏話などもたくさん伺うことができたのが楽しかった思い出だ。
■自動車との出会い、盟友 故・小林彰太郎氏との出会い
この写真は1968年、東京新聞社を退社したあとのもの。「中南米大陸都市環境調査遠征隊」に参加した三本和彦氏(左から三人目)。向かって右隣りが小林彰太郎氏だ
三本和彦氏は1931年(昭和6年)12月22日生まれとされているが、ご本人の弁によれば、戦火で戸籍原本が散逸し、戦後父親が書き間違えて1年若くなってしまった、という。つまりご本人の認識では1930年生まれだということになる。
生まれは東京の品川で、土木建築業を家業とした父親が自動車を購入したことで、初めて自動車に接することになった。戦後16歳で小型車免許を取得し、高校生の頃には時折ハンドルを握ることもあったという。
高校卒業後は國學院大學に進み、卒業後は上智大学で1年間語学を勉強。さらに東京写真短期大学(現在の東京工芸大学)に学士入学をして写真を本格的に学んだ。
これがのちに東京新聞時代のフォトジャーナリストへとつながるのだが、何よりもこの学生時代に経験した数々のアルバイトのなかで後々盟友となる小林彰太郎氏との出会いが三本さんの大きな転機となったことは間違いない。アメリカ大使館で外交官を相手に日本語を教える、というアルバイトであった。
小林彰太郎氏とは言うまでもなく、「カーグラフィック」誌を創刊した、あの小林彰太郎氏で、まだまだマイカーなどという概念もなかった時代の日本に、欧米のような自動車ジャーナリズムをいち早く取り入れようとしていた。
マイカーを手に入れるためにアルバイトをしていた小林氏に対し、三本さんは「スピードグラフィック」というアメリカ製のカメラが欲しくてアルバイトをしていた。報道カメラマンを目指していたのだ。
■新聞社で写真記者として自動車に触れる
[関連写真]
東京新聞を退社する直前の三本氏。手にするカメラは、学生時代に憧れたスピードグラフィック、通称「スピグラ」だ。当時取材で愛用したカメラ
その後、東京新聞に見習い写真記者として入社した三本さんは、次第に写真記者として自動車記事にかかわるようになっていく。
ちょうどこのころ、小林氏は創刊メンバーとして「カーグラフィック」を立ち上げた。自動車そのものを評論する雑誌に対し、三本さんは新聞記者として自動車を取り巻く経済や産業、さらには自動車と人とのかかわりなどを中心に取材をし、写真を撮り、記事を書いていった。
この時代の経験や人脈などが、その後の「モータージャーナリスト」三本和彦の基礎を固めていったことは間違いない。
その東京新聞時代の1964年、プリンス自動車が送り出したスカイライン2000GT-Aに対し「羊の皮をかぶった狼」と記事で表現。
「この言葉を最初に使ったのは、たぶんボクだと思う」と三本さんは言っていたが、この表現が、最初はプリンス自動車の副社長を激怒させた。
一生懸命作ったクルマを狼などとは何事か、というのが理由だったので、三本さんがこれは最大級の賛辞であることを説明。
その後、この言葉が「スカG」のイメージを的確に表現していることから広く浸透し、プリンス自動車側から歓待を受けたというエピソードも教えてくれた。
三本さんが東京新聞を退社したのは1967年のことだった。その少し前に東京新聞社が中日新聞社との関係を持つようになり、職場の雰囲気が変わり、息苦しさを感じていたのだという。
こうしてフリーランスのモータージャーナリストとなった三本さんは、持ち前の好奇心、探求心で次々と自動車業界の中心に切り込んでいくのだが、ここから先は皆さんがよく知る三本和彦さんである。
クルマそのものはもちろんだが、それ以上に三本さんが大切にしたのが人との出会いだ。
エンジニアや経営者を知ることで、なぜその商品(自動車)が生まれてきたかを理解することができる。もちろん、おかしいと思えば思ったことを提言する。そうして深い関係を築き上げ、三本さんの提言が新車開発に反映されたことも少なくない。
こうした骨太なジャーナリスト魂で日本のモータリゼーションの発展をともに歩み、伝え続けたのが三本和彦さんなのだ。
長年にわたり先頭を走り、多大なる功績をあげた功労者、三本和彦さんに感謝を申し上げるとともに、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
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