見た目きっかけ悪い?実力や知名度なければ仕方なくない?

このヒト、おかしくない?チュートリアル徳井義実が、このヒトの名前挙げたから注目浴びたんじゃなかった?確か、徳井とデートも撮られて、その注目に更に点火したんじゃなかった?

卓球でも、小さい頃から注目浴びてた福原に対して、四元などは奇抜なカッコして注目引こうとしてなかった?

ビーチバレーでも、浅尾&西堀とか、注目引こうと面積小さめの水着着てプレーしてなかった?

人気ないスポーツや知名度低い間、誰でもそういう努力をしてるんじゃない?こういう努力、オンナだから、美人だから、効果あって、報われているんじゃないの?

それが、まんまと上手くハマって良い結果に転んだと思ったら、ソレをディスるって、恩知らずとしか言い様なくない?

そういう知名度で、仕事やダンナを得てるんじゃないの?

 

 

 

 

 

 

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「見た目をきっかけにアスリートを見るのはおかしい、と言いにくい」オグシオ潮田玲子が現役時代苦しんだ”美しいアスリート特集”を全否定しない理由
8/29(月) 6:02 Yahoo!ニュース
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オグシオ”として多くの注目を集めた現役時代、2008年北京五輪までの道のりは本人にとって「苦しい時期」だったという photograph by Asami Enomoto
 女子ダブルスで2008年北京五輪出場、2012年ロンドン五輪にはミックスダブルスで出場――潮田玲子は日本バドミントンの歴史に確固たる足跡を残し、一時代を牽引した。
 その功績は成績だけでなく、バドミントンの認知向上にも大きな役割を果たした。小椋久美子と組んでいた女子ダブルス「オグシオ」はスポーツの枠を超えた関心を呼び、2007年の流行語大賞にもノミネートされるなど社会現象となった。
 潮田はその渦中にあって、見た目や私生活に着目するメディアの報道やSNSなどによる誹謗中傷といった近年クローズアップされてきた問題を現役時代に体験したアスリートでもある。
 引退後はスポーツキャスターを務めるなど幅広く活動する潮田に、注目を集め続けた現役当時の心境を、現在の視点も交えつつ語ってもらった。<全3回の1回目/続きは#2、#3へ>

【当時写真】「孤独でした…」 23歳、プレッシャーを感じながら頂点と目指し続けた“オグシオ”時代から混合ダブルス“イケシオ”時代、そして2児の母となった現在の様子までを写真で見る

 2000年代後半、「オグシオ」は熱狂的とも言えるブームになった。事例には事欠かない。2006年に日本で開催された世界国別対抗戦「ユーバー杯」では、バドミントンでは異例の1万人の観客が詰めかけ、入場制限がかけられた。日本リーグの試合は相次いで完売。多くのオファーを受けてCMに複数出演し、写真集やDVDも発売された。2枚目のDVDは女性スポーツ分野では歴代2位の売り上げを記録(当時)。これらは2人への注目を示す一端だ。潮田がその端緒となったタイミングを振り返る。

美女アスリート特集に「違和感ではないですけど…」
「2005年のヨネックスオープンでベスト4になったとき、初めて新聞の記事に『オグシオ』という言葉が載りました。オグシオというワードで認識されたのがその年だったと思います」

 ブームの予兆は高校を卒業して三洋電機に入社した2002年の時点ですでにあった。

三洋電機に入社した年に、週刊誌の美女アスリート特集に載りました。違和感ではないですけれど、初めて競技そのものとは違う角度で捉えられたのを覚えています」

 その後も、成績に優先する形で注目を集めつつ、競技生活を送り、やがて国内外の大会で好成績をあげるとともに、人気は飛躍的に高まっていった。

 渦中にあって、それをプラスにも捉え、一方で葛藤や苦悩も抱えた。

「いい意味では、モチベーションになりました。社会人1年目のときの全日本総合選手権はベスト8、次の年は決勝で負けて準優勝。それが最高成績でした。日本一でもないのに取材されたり注目されるのが申し訳ない気持ちというか、結果があるから注目されるんだと胸を張りたい、成績を事実として作りたいというのが2人のエネルギーになっていました」

日本バドミントン協会の戦略でクローズアップされていた
 実は2人がクローズアップされた背景には、日本バドミントン協会の戦略もあった。競技の認知向上を図るため、協会が主導して2人を大会時のポスターに起用し、バラエティー番組出演を受けるなどしていたのだ。写真集も協会の監修という形での出版であった。当時、潮田はそれを知らなかった。

「のちに『バドミントンの人気につなげたかったから』と聞きました。協会の登録選手で三洋電機の社員という立場ですし、『明日何時から取材だから』と言われて、『分かりました』と自分の意志はあまりなく、取り組んでいた感じです」

 競技そのものとは関係ない、アイドルと見紛う記事も掲載され、そうした視点から切り取られた写真もしばしば載ることにもなった。

注目されて苦しい部分はありましたし、でも…
 あらためて、潮田に考えを聞く。

「ほんとうに難しいと思っています。注目されて苦しい部分はありましたし、でも見かけをきっかけに私自身に興味を持ってもらって応援してもらったりバドミントンを好きになったり、子どもたちに『潮田さんみたいになりたい』と言ってもらえるのも大きな喜びとしてモチベーションになりました。だから、そういうふうにアスリートを見るのはおかしいというのは言いにくいというのは正直あって。私自身、冬季オリンピックを観ていて、『あの選手かっこいいよね』というところからこんな面白いスポーツなんだと知ったりするのも少なからずあったので、全部が全部否定するのは違うようにも思います。強くて美しいアスリートとして取り上げられるのはうれしいけれど、セクシャルに撮られるのは嫌だという葛藤はたしかにあったので、モラルがあって成立するのかなと思います」

 当時の潮田は「たくさんの人に応援してもらいたいという思いはずっと根底にあること」だったから、意図せず背負った役割にも懸命に取り組んだ。

 2007年の世界選手権では銅メダルを獲得。翌年に北京五輪を控えた折、「メダル候補」として期待を集めるだけの実力もつき、注目はさらに高まる中、目指していた北京五輪代表もつかんだ。

負けたらどうしよう、結果が出なかったらどうしよう
 でも「辛かったです」と潮田は言う。

「負けたらどうしよう、結果が出なかったらどうしようという気持ちも少なからず生まれるようになりました。特にオリンピックのシーズンは取材量も多かったし、頑張ると言ってメダルを獲れなかったときどうなるんだろうと心の中で抱えていました。今振り返ればそんなに背負うこともなかったのにな、と思うけれど、当時の感覚としては、大げさに言うと国民の皆さんの期待を裏切ってしまったらどうしよう、というくらいでした」

 注目されるとともに、誹謗中傷も少なからず受けるようになった。

「メディア対応やバラエティに出るとか競技外のこともあったじゃないですか。私たちにとっては海外遠征や合宿の合い間の短い時間、休日返上で受けているような感覚なんですけど、結果が出ないと『競技に集中せずテレビに出ているからだろう』『もっとコートだけに集中しろ』という声がありました。『セクシャルに撮られるのが嫌だ』と言ったら、『そういう恰好をしているのが悪いんだろう』とも」

北京五輪前は本音を言えず孤独だった
 北京五輪を前にした時期は「孤独だった」と当時の心境を説明する。

「プレッシャーや焦りをコーチに打ち明けることもなかったし、経験した人も周りにいなかった。相談できないのも苦しいところではありました」

 何よりも孤独を深めたのは小椋と本音を共有することができなかったことにあった。

「当時、全然話せなくなってしまっていました。それぞれがプレッシャーを感じていたり、お互いがお互いの焦りを感じていたり、うまく気持ちをあわせてかみあってない状態がオリンピックのシーズンはけっこう続いていました。1月、2月、3月、4月、5月、6月……ときが近くなればなるほどです。おぐっちも怪我に苦しんだりとかコンディションが整わなかったり、5月のユーバー杯おぐっちは怪我で参加できなかったんですね。その中で『苦しいよね』というのが私の中で逃げている感じがして。弱音を吐くってけっこう難しいじゃないですか。しかもオリンピックという舞台を前に弱音なんてはいてられないよねという気持ちのほうが大きかった感じですかね。励まし合いはするけど、本音の部分で私すごい不安なんだよね、怖いんだよねというのはお互い言えなかったのはあります」

ぜんぜん楽しめなかった北京五輪
 迎えた北京五輪をこう振り返る。

「早く終わってほしいような、この苦しみから解放されたいという気持ちと、コンディションが上がってこなくて、『よし、行くぞ』と思うほどの覚悟が決まらないところもあって。アスリートが『楽しみたい』という表現をすることがありますけど、北京を楽しむ感覚がまったくなくて、ぜんぜん楽しめなかったのが悔いとして残っていますね」

 準々決勝で地元中国のペアに敗れ、大会を終えた。

「そのときは正直、競技から離れたかったです。おぐっちと一緒に取材も受けるので、その中で大変だし苦しいけど北京まで頑張ろうという感じが合言葉みたいにあったんですね。通過点と考えてなくて、どこかゴールという感覚ではありました。メダルが獲れなかったショックと、準々決勝の内容がよくなかったので、こんなに努力してこんなに思いをかけて毎日練習をしたけれど、かなわない夢ってあるんだなと心を打ち砕かれてしまったんですね。競技そのものを続ける気力がないみたいな感情だったと思います。オリンピックが終わって1カ月くらいは家から出ないくらい、ふさぎ込んでいました」

北京から14年。『お互いに苦しかったね』
 北京五輪前から抱えていた心中を小椋と話せたのは、実は今年になってからだった。

「北京から14年ですね。14年ぶりに北京のことを話したんですけど、彼女も同じような思いを持っていて苦しんでいたんだなと感じました。『お互いに苦しかったね』と初めて振り返ることができた。あのときに2人で話し合ったり、苦しみを共有できていたらもうちょっと状況がかわったんじゃないかな、そういうことを思いました」

 14年。その数字に、格別の重さがあった。

 2人は8月22日に開幕したバドミントンの世界選手権で応援キャスターをともに務めた。

「久しぶりに一緒に過ごす時間が増えました。当時の阿吽の呼吸みたいなのが今もあって、『この感じ、久しぶり』と感じます。2人でやることに意味があると信じています」

<つづく>
(「オリンピックへの道」松原孝臣 = 文)

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