広島の背番号1

広島の背番号1、印象深い選手は多い。

古葉サンの現役時代は知らなかったが、初優勝の時の背番号1たる大下は三村との1・2番で印象ある。

山崎は高橋慶との1・2番で、その後のカープの核弾頭だった。でも、意外と短かった気がする。背番号2の高橋慶の方が、松田オーナーと揉めて出されたし。

問題はその後、前田・・・カレは背番号1になってから、故障頻発したのではなかった?同時ではないにしても、左右アキレス腱断裂は身の毛もよだつ。そんな状況だった前田が、その割に重鎮的位置付にあったコトは、あの当時のカープの育つと出て行く人材難や定着難の元ではなかった?野村と前田のコトで、江藤以降金本や新井や黒田の流出が止まらなかったのでは?前田がいなくなったから、カープに新井と黒田が戻って来たのでは?

広島とヤクルトは、背番号1をリーダー的位置付の選手に継承させる感じだ。

鈴木に背番号1は個人的に悪いとは思わないが、前田の印象で広島の背番号1が巨人のインケツ背番号2や15みたいにならないか、少し不安。もちろん、カレの活躍がそのイメージを塗りツブしてくれるかも知れないが。

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孤高の天才打者から侍ジャパンの主砲まで。カープの“準永久欠番”とも呼ばれた番号の歴史
7/28(水) 11:01 Yahoo!ニュース
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1994年~2013年まで20年間、背番号「1」をつけた前田智徳氏。
 背番号は時に選手の代名詞として語られるなど、アスリートにとって大きな意味を持つことも少なくない。ここではカープの選手に特化し、時代を彩った名選手の足跡を背番号と共に振り返る。

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 1950年の球団創設時、やはり背番号「1」は重要な番号だった。この番号は巨人で活躍し、地元での新球団創設を聞いて駆けつけた白石勝巳(移籍にあたって登録名を本名の「敏男」から「勝巳」に変更)に与えられた。当時の広島では唯一のスター選手と言われた白石は、期待通りの活躍でチームを引っ張り、1953年のシーズン途中からは監督を兼任。これを機に背番号「1」を譲り、自らは「30」を着けた。

カープを初の日本一に導いた古葉竹識

 1959年から4人目として「1」を着けたのが、「29」から変更した古葉毅だ。この表記よりも、1964年から改名した「古葉竹識」のほうが多くのファンに馴染み深いだろう。そう、後に監督に就任し、カープを初のリーグ制覇と日本一に導いた、“あの古葉”である。実業団でもプレーし、前述の白石が監督を務めていた1958年に入団した古葉は、初年から88試合に出場。翌年から「1」を着けた。

 尻上がりに成績を上げていった古葉は、1963年に長嶋茂雄首位打者争いを繰り広げたが、死球で大ケガを負い戦線離脱。この年はベストナインを獲得したが、この負傷が後の選手生活にも変化をもたらした。以後、盗塁王を2回獲得するなど走攻守に活躍し、1969年限りで南海に移籍。

 その後、1975年シーズン途中にカープの監督に就任し、初年からリーグ制覇、そして1979年には初の日本一。翌1980年と1984年にも日本一となり、カープ黄金時代を築き上げた。

 1975年には日本ハムから移籍してきた大下剛史が、1967年のデビュー以来着けてきた「1」をそのまま使用。プロ9年目のカープ初年は盗塁王を獲得する活躍を見せ、1978年まで4シーズンをプレーして現役生活に幕を下ろした。

◆超高校級と評され入団した山崎隆造

 その後、投手の大久保美智男を挟んで1983年、「23」から変更して「1」を背負ったのが山崎隆造。山崎は地元・広島の崇徳高で甲子園に2度出場し、1997年にカープからドラフト1位指名を受けた。古葉監督の指導でスイッチヒッターに転向し、徐々に成績を上げていくと、「1」に変更した1983年には初めて出場試合数が100を超え、打率も3割を超えた。

 翌1984年以降は6年連続でフル出場。以後ベストナインを3回、ゴールデングラブ賞を4回受賞する活躍で野手を牽引した。90年代は三塁手としても出場し、1991年のベストナイン三塁手として受賞。1993年限りで現役を引退するまで「1」を着け、以後は2011年までコーチや二軍監督などを歴任した。

◆孤高の天才・前田智徳

 山崎の後を継いだのが、「31」から変更した前田智徳だ。「1」以前の前田についてはこちら「31」・「51」を参照されたい。ここでも述べているように

 1992、1993年の2年間で飛躍した前田は、球団から背番号「1」への変更を打診されるも、一度は固辞したのだという。再度の説得で応じ、「1」を着けた前田は、ここから球団の「顔」と言っていい存在となっていく。

 初年の1994年は前2年に続いてベストナインゴールデングラブ賞を受賞(後者は4年連続)。1995年にはアキレス腱断裂の負傷を乗り越え、2000年には同じ個所の手術に踏み切った。その後、2002年には打率3割に復帰し、カムバック賞を受賞。寡黙な人柄で、まさに「背中で見せる」姿は多くの選手たちの指針となった。2013年限りで現役を引退した後、背番号「1」は準永久欠番とされたことからも、その存在の大きさが分かるというものだ。

 「前田が認めた選手に与えられる」とされた背番号「1」は、前田の引退後、5年間にわたって使用者がいない状態だった。

カープの絶対的な存在となった鈴木誠也

 その沈黙を破ったのが、鈴木誠也だ。鈴木はドラフト2位指名を受けて2013年に入団。プロキャリアは前田と同じく背番号「51」でスタートしている。

 2018年には30本塁打を記録し、日本シリーズでも1試合2本塁打を放つなどの活躍を見せたことで2019年から晴れて「1」を着けた鈴木は、その年に首位打者と最高出塁率の2タイトルを獲得。同年にはWBSCプレミア12の代表メンバーにも招集され、8試合で3本塁打、打率.444と、こちらでも活躍。昨季まで5年連続で打率3割超え25本塁打を果たしており、今季も前半戦で打率.306、15本塁打と好調だ。

 鈴木誠也の背番号「1」には、前田智徳を超える活躍が期待されている。今、着々とその道を歩んでいる鈴木の姿に、カープファンは熱い視線を注ぎ続けている。白石勝巳から始まった背番号「1」の歴史は、鈴木によってどう塗り替えられるのだろうか。

【背番号『1』を背負った主なカープ選手】
白石勝巳内野手/1950年-1953年)
古葉毅〈竹識〉(内野手/1959年-1969年)
大下剛史内野手/1975年-1978年)
山崎隆造(外野手/1983年-1993年)
前田智徳(外野手/1994年-2013年)
鈴木誠也(外野手/2019年-)
※初めて背番号を付けたシーズンのポジションを表記。
広島アスリートマガジン編集部

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