オートバイ世界GP、それぞれのメーカーがらしくあった時代

85年~90年代オートバイ世界GP、それぞれの年に味があった。それは、ライダーもメーカーもそれぞれの味を存分に発揮していた時期だったと思う。パワーのホンダ、ハンドリングのヤマハ、機転のスズキという感じだ。

日本人ライダーがスポットからフル参戦し始め、500は鈴鹿阿部典史が有名だが、250は80年代から平忠彦や小林大らが優勝していた。500はホンダのF・スペンサーとW・ガードナーの間に、E・ローソンがヤマハとホンダで獲り、以後はK・ロバーツの配下でW・レイニーがロバーツ以来のV3を達成した。93年もリードしていたが、V4目前のミサノで半身不随の事故に遭い、スズキのK・シュワンツにタイトルを獲られた。同年、原田哲也岡田忠之青木宣篤が、ヤマハとホンダから250にフルエントリーした。その時期はヤマハロバーツとケンカ別れしたコシンスキーがスズキから250にエントリーして、本命視されていた。原田が2戦、最終ラップでコシンスキーを抜き、原田はランキングトップを走り、コシンスキーはスズキを去った。原田はハンドリングは優れるがパワーに劣るヤマハで、シーズン終盤ホンダのカピロッシに抜かれた。しかし、最終戦で抜き返し、チャンピオンを獲得した。その後は、アプリリアが250で台頭し、M・ビアッジやV・ロッシをチャンピオンにした。原田哲也アプリリアに移籍したが、カピロッシの妨害と裁定により2度目のタイトルはならなかった。

94年からはM・ドゥーハンのホンダが連覇、事故負傷で引退するとA・クリビーレが引き継いだ。その翌年、スズキに移籍したK・ロバーツジュニアが獲った。レギュレーション変更により500最終年は、V・ロッシが飾った。

そんな中、オートバイメーカーは相次いで2サイクル250ccの販売をやめ、オートバイ世界GPも4サイクル大排気量のレースに様相を変えた。

2サイクル250cc、車検もなく、4サイクル400cc近いトルクを持つ効率高いオートバイだった。ワタシは、NSR250ばかりを20年乗り継いだ。用事・仕事場の下見・休日出勤・走りにと、常に一緒だった。

原田哲也くらいのヒトが、2サイクル250ccの復活を叫んでくれないかな?

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世界GP王者・原田哲也のバイクトーク Vol.61「YZR250 ジョン・コシンスキー号の衝撃」
2021/07/29 10:00 WEBヤングマシン6

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岡田忠之さんに勝てなかった日々が世界で生きた

1993年、デビューイヤーにいきなり世界GP250チャンピオンを獲得した原田哲也さん。虎視眈々とチャンスを狙い、ここぞという時に勝負を仕掛ける鋭い走りから「クールデビル」と呼ばれ、たびたび上位争いを繰り広げた。’02年に現役を引退し、今はツーリングやオフロードラン、ホビーレースなど幅広くバイクを楽しんでいる。そんな原田さんのWEBヤングマシン連載は、バイクやレースに関するあれこれを大いに語るWEBコラム。第61回は、全日本ロードレースでチャンピオンを獲った経験など。

連載:世界GP王者・原田哲也のバイクトーク【独占Webコラム】

10回目のチャンピオンを獲得した中須賀克行くん

MotoGPはタイGPの中止が発表されましたね。とても残念ですが、世界的にもまだ新型コロナウイルスが猛威を振るっている状況なので、仕方ないのかな、と思います。マレーシアGPはまだどうにか開催の可能性を探っているようです。今年はペトロナスヤマハSRTに所属しているバレンティーノ・ロッシですが、同チームはマレーシアが基盤。どうにかチームの母国で「最後の雄姿を見せたい」、という思いもあるのでしょう。

ただ、ここモナコでも再び新型コロナウイルスの感染が広がっていて、また外出時にはマスク着用が義務付けられてしまいました。普段通りの生活を送ることはできていますが、やはり今まで以上に気を使うところはあります。コロナ禍もこんなに長引くとは……。いろいろな意味で大変な思いをされている方も多いと思いますが、頑張って乗り切りましょう!

そんな中、二輪モータースポーツ界の明るいニュースといえば、全日本ロードの最高峰・JSB1000クラスで中須賀克行くんが第5戦鈴鹿で通算60勝目を挙げ、なんと10回目のチャンピオンを獲得しました。本当にすごいことです。僕なんか全日本では1回しかチャンピオンを獲っていませんからね(笑)。この偉業は彼の頑張りの賜物だと思います。本当にスゴイ!

―― ハンドリングで勝負できるマシンに仕上がっているYZF-R1と、それを手足のように操る中須賀克行選手。 [写真タップで拡大]

YZF-R1も非常によく曲がっているように見えました。ホンダCBR1000RR-Rが圧倒的なエンジンパワーでストレートスピードを武器にしていたのに対して、R1は明らかにハンドリングで勝負するマシンになっています。中須賀くんはその特性をうまく使いこなしながら、彼自身のライディングにもさらに磨きをかけていますね。スプーンカーブなどではライン取りがコンパクトで、タイヤにも負担がかかっていません。トラクションのかかり方も抜群で、特に低速シケインからの脱出が速いのは、電子制御を含めたマシンセットアップと、ライダーのテクニックがピタッと合わさってのことだと思います。

39歳の中須賀くんを始め、47歳の加賀山就臣くん、38歳の清成龍一くんらが今も上位につけています。ST600で優勝した小山知良くんも38歳。年齢をとやかく言うつもりはありませんが、ベテラン勢、頑張ってますね(笑)。若手も、JSB1000では25歳の亀井雄大くんや24歳の名越哲平くん、ST600では19歳の荒川晃大くんや20歳の埜口遙希くんらが台頭してきて頼もしい限りです。

ライダーは育てる? 育つ?

それにしても、こうして今の全日本で目立っているライダーの名前を挙げると、期せずしてSP忠男レーシングチームの出身者が多いですね。実は僕もそうですが(笑)。哲平くんや埜口くんは、(やはりSP忠男出身の)中野真矢くんの56レーシングから羽ばたいたライダーでもあります。坂田和人くんもMFJロードレースアカデミーの校長を務めていますよね。ライダーを育成するっていうのもすごく素晴らしいことだと尊敬しています。

皆さんそれぞれの考え方で育成に取り組んでいると思いますが、一方で、僕の中には「放っておいても、出てくるヤツは出てくるだろう」という思いもあります。今はロードレースで真剣に上をめざす子が少ないから、ひとりひとりを大切に育てるのは本当に価値のある重要なことです。でも、まわりがあまりいろいろやってあげすぎると過保護になってしまい、世界で通用するライダーにまでは至らない、なんていうこともあり得ます。自分の力でなんとかする、という経験も非常に大事なんですよね。道筋作りと放置のバランスは、すごく難しいところだと思います。

―― [左]全日本ロードレース第5戦 第53回 MFJグランプリ スーパーバイクレース in 鈴鹿 JSB1000のレース1で2位、レース2では4位に入った名越哲平選手。[右]同グランプリ ST600で3位入賞した埜口遥希選手。ともにSP忠男レーシングチームのDNAを受け継ぐ“目玉ヘルメット”を被る。JSB1000チャンピオンの中須賀克行選手も同じく目玉ヘルメットだ。 [写真タップで拡大]

僕の経験で言えば、全日本ジュニアからヤマハファクトリー入りできたのは、間違いなくSP忠男の鈴木忠男社長のおかげだったと思います。自分自身としてもジュニアで全戦全勝してチャンピオンを獲ったり最大限の努力はしましたが、ファクトリー入りにあたっては社長が道筋をつけてくれたから、という面は大きかったはずです。でも、ファクトリー入りしてからは放置(笑)。それが社長のスタイルなのでしょう。

だからいざファクトリー入りしたら、自力でベテランのライバルたちを乗り越えていかなければなりませんでした。もちろんヤマハには偉大な先輩たちがいたし、アドバイスをもらうこともありましたが、基本的には「プロなんだから自分でどうにかしろ」という世界です。来年の契約もどうなるか分からないという緊張感の中、ひたすら結果を出さなければなりませんでした。

そして当時の僕の目の上には、岡田忠之さんというたんこぶがいました(笑)。僕が全日本250にステップアップしたのは’89年でしたが、その年から岡田さんは3年連続で全日本チャンピオンを獲得します。ということは、僕は3年連続で岡田さんに負け続けた(笑)。岡田さんをなかなか越えられず、本当に苦労させられたんです。

どうにか岡田さんを倒すために徹底的に研究しました。自分でも「生意気な若造だったな」と思いますが、自分が理想とする走りができるように「こういうマシンが欲しい」としっかり主張して、開発をイチから見直してもらいました。そしてついに岡田さんに勝ってタイトルを獲れたのは、4年目の’92年。大変だったんですよ(笑)。でも、こういう苦労が世界に出た時に大いに役立ちました。

少し余談になりますが、全日本250で僕が走らせていた’90TZ250は、かなり極端にリヤ下がりの姿勢でした。TZの開発をしていた難波恭司さんや、SP忠男の先輩にあたる塩森俊修さんには「哲也のマシンに乗ると空しか見えない」なんてからかわれたものです(笑)。でも、どんなに言われても変えませんでした。というのも、当時の僕はリヤが高いとブレーキングが怖くて突っ込めなかったんです。フロントが高いと基本的には曲がりにくくなるので、ブレーキをコーナーの奥まで引きずったり、引きずり量をかなり繊細にコントロールしたりと、なかなか大変でした。「変だよ~」と言われても、「まぁでもこれで速く走れてるんだからいいでしょ」と(笑)。

’91年はTZM250になりましたが、まだリヤが低くて曲がるには操作が必要な仕様でした。僕が要求していたから当然です(笑)。でも確か’91シーズンも終盤に差しかかった頃、ジョン・コシンスキーが’90年に世界チャンピオンを獲得した時のYZR250に乗らせてもらう機会があって、これが大きな転機になりました。ジョンのYZR250はリヤが上がっていて、本来なら怖くて乗れないはずなのに、とても乗りやすかったんです。内部構造から見直されていたオーリンズ製サスペンションとの相乗効果で、ブレーキングは不安なく突っ込めて、しかも勝手に曲がってくれるという仕上がりでした。

簡単に言えば、僕のTZMよりもピッチングモーション(加減速などによるマシンの前後の動き)がしっかり発生していて、それがブレーキング時の安心感や旋回性の高さにつながっていました。ヤマハのテストコースでも、僕仕様のTZMではアクセルを戻してブレーキをかける必要があったコーナーを、ジョン仕様のYZR250はアクセル全開のままヒザを擦って曲がっていけたんです(笑)。

さっそくTZMのサスペンションも内部からチューニングしてもらい、車体セッティングも変えました。僕自身にも、新しいことにトライする柔軟性があったんだと思います。それがTZMでは2年目の’92年。そう、僕が岡田さんに勝ってタイトルを獲った年です。ジョンのYZR250に乗っていなければ全日本でチャンピオンは獲れず、世界にも行けず、世界チャンピオンにもなっていなかったかもしれません。ライダーのテクニックとメンタル、そしてマシン。すべてが揃わなければ、結果には結びつかない。これがモータースポーツの奥深さですね。

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