ドラゴンズに来てくれて、ありがとう?

高校時代は、横浜高という伝統ある強豪校で、エース育成されるべく、ハードメニューを課された。松坂はイヤイヤながらもソレらをこなし、高2までに苦い経験も積み、悔しさも力に積み重ねて成長した。

そして、高3春夏甲子園、ビッグマウスを展開した。春はストレートと2種類のスライダーで制した。夏の灼熱の連戦を一人で投げ抜くため、ストレートとカーブの組み立てに戻した。ただ、ストレートとカーブの違いを読まれた準々決勝PLには大苦戦、再試合は間逃れたが、翌日準決勝明徳戦は先発できず、大量リードを奪われた。それを8回、レフトからリリーフ登板、マウンドでスパイラルテープを剥がした。6点ビハインドをひっくり返して決勝に勝ち上がった。決勝の相手は春に続いて京都成章、松坂に疲労があると思われた。それでも松坂は決勝前に「準々決勝のPLよりレベル低いと思う。」と噴いて見せた。

決勝では、ストレートとカーブに加えて、本来持っていて封印していたシュートやスライダーやチェンジアップを使い、ノーヒットノーランをやって見せた。

春夏甲子園を殆ど1人で投げ抜いた。春夏甲子園を1人で投げ抜いた例は、この松坂と藤浪、古くは石井毅だろうか。PLの時は野村・岩崎・橋本のリレーだった。鍛えられ、ちゃんと育ったエースだった。

それが、プロで、当時王者陥落した西武のユルい練習でナマり始めた。東尾監督には優勝を争う戦力はなく、登板もエースの火曜ローテではなく営業目的の日曜ローテだった。高校時代の貯金で3年連続最多勝はしたが、4年目以降は故障も頻発した。唯一の日本一は伊東監督の時。シーズン1位はソフトバンクに譲ったが、CSを勝ち抜き、日本シリーズ石井貴のおかげで獲った。西武でのヌルい練習、特にランニングの減少、柴田スキャンダル以後の上体肥りで、下半身主導のピッチングがデキなくなり、キレよりパワー(単に力任せ)に変わった。年を経ても、下半身の安定しないフォームとメジャー志向を謳う割に向上しない意識で、コントロールはむしろ悪化した。

メジャーに移籍し、ワールドシリーズ制覇の2年目までは活躍、3年目開幕前のWBCまでは、その力任せはキューバにも通用した。しかし、メジャー移籍後、更にタマ数制限まで含めて練習しないコトで、益々足腰は弱り、安定しないコントロールで信用されなくなった。レッドソックスからメッツにトレードされ、ヒジに手術も受けた。ヒジに手術を受けても、カレのピッチングに関する意識は変わらず、ボールボールボールのピッチングは厭きられた。結局、辣腕代理人ボラスを以てしてもメジャー契約がなくなり、日本に戻る破目になった。

メジャー最後の年は、殆ど投げていなかった。だから、ちゃんと投げられるのか、不明だった。それをソフトバンクは年4億で3年抱えた。ほぼ2軍ですら投げず、2度のWBC恩給と揶揄された。

ソフトバンク自由契約になり、森が監督を務める中日に拾われた。しかし、この期に及んでカレのピッチングへの意識は全く変わらず、上体をユスって力感を絞り出したが、タマは御辞儀していた。それでも、1年投げ続け、何とか中盤までもった試合でいくつか勝った。1年投げ続けて、少しは翌年に向けて上体を肉落としするなり、下半身強化するかと思ったら、翌年キャンプは更に肥って現れた。そのキャンプで、オバチャンに触られたくらいで、インネンつける時のチンピラみたいに痛がりゼスチャーし、キャンプを離脱した。挙げ句、アメリカ市民権問題で中日に無断でキャンプ中リハビリ中にアメリカへ行った。また1年、2軍に潜りっ放しで寛いだ。

本来、最後のチームとして西武と再契約した。カレのカラダは、中日最終年より更にデブっていた。もう、投げられないだろうと思った。日米野球の時にパワーピッチを見せつけたバニスターが、晩年ヤクルトに来た時よりも悲惨だった。

ホントに中日ファンって、そんなにおめでたいのか?

********************************

「ドラゴンズに来てくれてありがとう」中日ファンが綴る松坂大輔投手の記憶
8/13(金) 11:12 Yahoo!ニュース
 38
中日時代の松坂大輔 ©文藝春秋
 7月7日、あの松坂大輔投手が今シーズン限りで現役を引退すると発表された。

 日米通算170勝を挙げ、長年日本のエースとして活躍した平成の怪物。横浜高校から西武、メジャーへと数々の伝説を残している。ただ今回、私が書きたいのは多くの人が想像する華麗な伝説についてではない。私はいち中日ドラゴンズのファンとして、松坂投手が中日ドラゴンズに在籍した2018年から2019年について、心からの感謝を伝えたい。

【写真】この記事の写真を見る(4枚)

 2018年1月。ソフトバンクを退団した松坂大輔投手が入団テストを受け、プロ20年目のシーズンを中日ドラゴンズでスタートさせるというニュースが入った。

 私はもちろん一般常識のレベルで、松坂投手が西武やメジャーで活躍した凄い選手だとは知っていたが、野球ファン歴も浅かったため、どんな球を投げてどんな勝ち方をしてきたのかは正直よく知らなかった。横浜高校での甲子園決勝ノーヒットノーランも、当時8歳だったのでリアルタイムでは覚えていない。

 そんな私ですら「あの松坂が中日ドラゴンズに入る」ということに相当な胸の高鳴りを覚え、絶対に球場で松坂投手を見たい! と思った。前所属のソフトバンクでは3年間で一度しか一軍のマウンドに上がらなかったことで、獲得についてはドラゴンズファンの間にも賛否の声があった。それでも私のように中日ドラゴンズで投げる松坂大輔が見たいと思ったドラゴンズファンは多かっただろう。

現地で見て印象的だった試合
 2018年4月30日、松坂投手はナゴヤドームでのDeNA戦に先発し日本球界でおよそ12年ぶりの勝ち投手となる。日本での久しぶりの勝ち星が中日ドラゴンズで、とは誰が想像しただろうか。

 私が初めて球場で松坂投手の登板を観たのは、5月13日の東京ドームでの巨人戦。松坂投手がマウンドに上がる時、ドラゴンズファンはもちろん、ジャイアンツファンからも大きな歓声が上がった。ミーハーな私はしっかり背番号「99」の松坂ユニフォームを着て、松坂大輔タオルを手にしていた。

 松坂投手は右ふくらはぎがつるトラブルに見舞われて3回途中で降板したが、あの降板を知らされたドームのザワザワというどよめきも経験したことがないものだった。それだけ両チームのファンが松坂投手の登板に大きな期待を持ち楽しみにしていたのだと実感する。いつもは肩身が狭い東京ドームの客席にも、心なしかいつもより多くのドラゴンズファンがいるような気がした。普段球場に行かないドラゴンズファンをも球場に向かわせるだけの力が松坂投手にはあった。

 また、大きな期待を時に裏切るお騒がせ投手でもあった。6月の西武対中日の交流戦、関東のドラゴンズファンとライオンズファンが大いに期待したメットライフドームでの先発登板。試合直前に急遽登板回避が発表され、ドアラが深々と頭を下げる姿があった。

 球場のファンたちはさぞガッカリしたと思うが、私は「なんて面白いんだろう。松坂投手はいつでも主役だな」と彼の大御所ヒーローぶりを楽しく見ていた。

 その試合、緊急登板をした藤嶋健人投手は6回9安打2失点でプロ初勝利を挙げる。それから他球団のファンの友人に藤嶋投手について聞かれると、私は「松坂が回避した時、緊急登板したピッチャーだよ」と言っていた。「ああ! 良いピッチャーだったね」と言われることが多く、注目度の高さから藤嶋投手を印象付ける試合でもあったと思う。

 もう一つ私が現地で見て印象的だった試合は、横浜DeNAベイスターズ後藤武敏選手の引退試合だ。試合後のセレモニーを横浜スタジアムの三塁側のベンチで1人見守る松坂大輔投手、そしてDeNA小池正晃コーチと共に花束を渡す姿は感動的だった。

 横浜高校での甲子園春夏連覇を共に戦ったチームメイトが再び横浜の地で集い、引退を見守る巡り合わせも、このタイミングで中日ドラゴンズに在籍しなければ実現しなかった。そう思うと、松坂投手が中日ドラゴンズにいた2年間も必然だったのだなと思う。

今、松坂投手の背中を見た若手選手たちが成長し活躍している
 ご存知の方も多いと思うが2018年、松坂投手は11登板・6勝を挙げ見事カムバック賞に輝いた。この年、中日ドラゴンズの1番の勝ち頭は現在メキシカンリーグでプレーしているガルシア投手の13勝。実は松坂投手の勝利数は、笠原祥太郎投手と並び、ガルシアに次ぐ2番目だったのだ。

 今、中日を支えるエースの大野雄大投手はこの年0勝、柳裕也投手も2勝と、投手陣が怪我や不調に苦しんだ時期でもあった。振り返ってみれば、そんな苦しい時期を支えてくれた投手でもあった。

 全盛期とは違う勝ち方だったかもしれない。それでも、あれだけのスーパースター松坂大輔が必死に一つ一つ勝ちを積み重ねていく姿は、その背中を見る若い選手たちはもちろん、私たちファンにも大切なことを教えてくれたと思う。松坂投手の後を投げる後輩投手には「松坂さんの勝ちを消す訳にはいかない」とプレッシャーがあっただろうことも容易に想像出来る。

 2019年は背番号「18」をつけたが、一軍での登板はわずか2試合。ただ、その分二軍の若い選手も松坂投手との時間を共有することが多かっただろう。選手の多くが松坂投手の引退を受けて「ドラゴンズで一緒にプレー出来た貴重な経験」に感謝を述べている。そして今、松坂投手の背中を見た若手選手たちが成長し活躍している。

 以前、文化放送の番組でご一緒した森繁和・元監督が松坂大輔投手を中日ドラゴンズに招き入れた当時について話してくれた。

「(自分がいる中日ドラゴンズで)最後の花道にしてあげたいという思いがあって引き受けることにした。1勝はしてくれるかなあ~というくらい。肩肘の故障もあったし。ただ、本人が野球を続けたいという強いものは見えた。それとあの時の中日の若い選手が、大輔が来たことによって良い経験をしてもらえると思い球団に交渉して獲った。それがカムバック賞を取ってくれるくらい活躍して良い結果になった」

 結果的に最後の花道にはならなかった。森繁和さんと友利結さんの中日ドラゴンズ退団を受け、松坂投手は中日ドラゴンズを去り、そして古巣の埼玉西武ライオンズへと帰っていく。森さんは「ここまで来たらとことんやれ」と声をかけたという。

 これまで共に戦った戦友たち、かつてのライバル、後輩たちなどたくさんの人が引退についてコメントしているが、本人から引退についてまだ直接言葉は出ていない。長きにわたって日本球界を支えた松坂投手は、今どんな気持ちなのだろう。

 あれだけドラゴンズの松坂フィーバーに沸きたった私も、結局、多くの人が言うように松坂大輔には西武のユニフォームが似合うと思う(個人的にはドラゴンズのユニフォームもかなり似合っていたと思うが)。

 できれば最後にもう一度、埼玉西武ライオンズ松坂大輔としてマウンドにあがる姿が見たい。どんな形であれ、最後の花道をしっかりと目に焼き付け、「松坂大輔投手、中日ドラゴンズに来てくれてありがとう」とドラゴンズファンからも感謝を伝えたい。

◆ ◆ ◆

※「文春野球コラム ペナントレース2021」実施中。コラムがおもしろいと思ったらオリジナルサイト http://bunshun.jp/articles/47201 でHITボタンを押してください。
舘谷 春香

********************************