山口高志が藤川球児の師匠なのは知ってるけど・・・。

藤川球児がギプスを着けてって、単に、フォーム矯正用の固定具みたいなヤツで、とても巨人の星星飛雄馬が使ったような、強いスプリングで筋肉の動作を妨げるモノではないじゃん!ちゃんと見て言ってるの?幼少期に上半身に着けたモノも、右投手復活用で足腰に着けたモノも、星一徹が作り上げたモノだったっけ?

山口高志は、背が172センチくらいしかなかったから、それほど低く前に出る感じではなく、大きく背伸びするような形から足腰を土台に上体のターンと肩を中心にした腕の振りを活かした投げ方だった。

藤川球児は、山口高志より背が高いし手も足も長いから、前へのステップも速く長いし、腕の振りもより大きく速かったから、スピン型のボールリリースでもあのスピードが出た。

ただ、メジャー行ったのは全くムダだった。というか、トミー・ジョン手術しに行っただけだった。北京五輪や第1回WBCで、MLBの粗悪使用球ローリングスではダメだと理解デキて然るべきだった。具体的には、重く滑りやすいため、リリースまで肩ヒジにかかる負担が増え、スピンがかかりにくく、ライジングファーストボールは全く効かなかった。そして、ストレートが威力半減した分をフォークで補おうとしたのか、キッチリ握ろうとヒジへの負担を増やした。

 

 

 

 

 

 

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藤川球児は「巨人の星」のようなギプスを装着して投球練習をしていた(中尾孝義
2/26(土) 9:06 Yahoo!ニュース
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改造後の2005年の投球フォーム(藤川球児)/(C)日刊ゲンダイ
【「革命捕手」中尾孝義が見たプロ野球】#29

 2004年から阪神の二軍でコーチを務めた3年間で印象的だったのは、「火の玉」と称された直球を最大の武器に、日米通算245セーブを挙げた藤川球児である。

岡田彰布さんから阪神二軍コーチの打診 中日時代の恩人・星野仙一さんが推薦してくれた

 私が就任した03年オフ、星野仙一監督に代わり、1985年の日本一メンバーでもある岡田彰布監督が就任した。藤川は98年ドラフト1位入団の期待の右腕だったが、03年までの5年間で主に先発として2勝6敗。直球は145キロ前後で右肩や右肘に不安を抱えており、球団に「構想外」の烙印を押されていた。ヤクルト、広島からトレードの打診があると聞いた。最速156キロの「火の玉ストレート」はまだ誕生していない。

 それを「球児は使える」と差し止めたのが、2000年から3年間、二軍監督を務めた岡田新監督だった。先発すると、序盤は良くても中盤に打たれる傾向があったため、「リリーフで短いイニングで使う」と宣言。九死に一生を得た藤川はしかし、04年春のキャンプで右肩を痛めて離脱した。岡田監督は阪急時代に剛速球投手だった山口高志二軍投手コーチに再生を託した。山口コーチは藤川にこう言ったそうだ。

「ケガばっかりしとるのは投げ方が悪いからやないか。上から叩くように投げたらどうか」

■ボールの軌道は江川卓と重なる

 そこから右膝が折れない投球フォームへの改造に取り組んだ。

「右膝に土をつけてはダメ」と右膝、さらには股関節をロックするギプスを装着して投球練習する姿を見た。まるで漫画「巨人の星」さながらで、徐々に指に掛かる球を投げられるようになっていった。スピンが利いた元巨人・江川卓の球と重なる軌道だった。「火の玉」が誕生するきっかけは山口コーチとの出会いで間違いない。この年は自己最多の26試合に登板した。

 背番号を22に変えた05年は「20、30球なら素晴らしい球を投げる」という岡田監督によってセットアッパーに固定された。同級生で抑えの右腕・久保田智之、セットアッパー左腕のジェフ・ウィリアムスと3人の頭文字を取った「JFK」と呼ばれる強力リリーフ陣を形成。主に七回担当で当時の日本記録となる80試合に投げ、リーグ優勝に貢献した。06年には第1回WBCの日本代表に選出。

 この年、久保田が故障離脱すると、抑えに抜擢され、07年には46セーブで初の最多セーブに輝いた。

 私が阪神のコーチになった03年オフ、まさかこんな投手になるとは想像もできなかった。といっても、山口コーチと藤川の鳴尾浜(二軍練習場)でのマンツーマンレッスンの印象はあまりない。山口コーチは後に「球児とは密着した師弟関係ではない。彼の分岐点にたまたま私がいただけ。阪急コーチ時代は教え過ぎて失敗したから阪神では選手の『鏡』になろうと思っていた」と語っていた。選手が困った時だけ手を差し伸べる。教え過ぎない指導は非常に勉強になった。私は07年から「球団本部・編成部」への異動を命じられた。

中尾孝義/元プロ野球選手)

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