松井裕樹、最初で最後だった2年夏甲子園!

2年で耀いた投手は、意外と3年で出て来ないコトが多い。済美の福井や前橋の高橋光などの2年生優勝投手や、この松井裕樹もだ。

高橋光や松井は、高卒でプロにドラフト上位指名されたから良かったが、福井は巨人に4位指名、入団方向から辞退に変わった。恐らく、思いの外評価の低さや育成方針の熱のなさを感じ取ったのだろう。早大AOの日程に間に合わず、勉強してないのに一般受験に通るハズもなく一浪した。辞めたアイドルらを通して、こういう選手を落とすAO、ダメだと思う。

松井裕樹、3年春夏とも甲子園には行けなかったが、高校選抜には選ばれ、エース的に起用された。しかし、国際式の高いストライクゾーンではあの低めスライダーを取ってもらえず、右打者インハイ/左打者アウトハイにストレート/スライダーを投げ分けるしかない、苦心の投球だった。

カレは、楽天でドラ1指名、高卒入団。投手として、旧近鉄鈴木啓示以来の背番号1になった。その割に、入団してから、高2夏甲子園のややスリークォーター気味でカラダの回転含めて強く腕を振るフォームから、ムリヤリ真上から投げ下ろすオーバースロー、下半身もホームベースへ踏み出さず、ムリヤリ二枚腰になった。あの高2夏甲子園の、超キレスライダーは見られなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

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大会新22奪三振 87年ぶりに記録を塗り替えたのは神奈川の2年生左腕【名勝負列伝その7】
8/22(月) 12:30 Yahoo!ニュース
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桐光学園vs今治西
 
高校時代の松井 裕樹(桐光学園
 これはもう、劇画の世界である。3回1死まで、7つのアウトすべて三振なのだ。いったいいくつ、三振を取るのか。主人公は、桐光学園(神奈川)のサウスポー・松井 裕樹。しかも、まだ2年生だ。

【トーナメント表】夏の甲子園の勝ち上がり

 2012年夏の甲子園桐光学園は1回戦で今治西(愛媛)と対戦した。先発の松井は、神奈川大会で46回3分の1を投げ、68三振を奪ったドクターK。145キロ超の直球と鋭いスライダーが武器だが、四死球が22、失点も11と粗削りで、今治西打線にもつけいるスキはありそうだ。愛媛大会準決勝で、最速148キロの1年生右腕・安樂 智大(済美)を打ち崩したのは、バットをふた握り余らせ、高めの直球を上からたたく打撃を徹底したから。神奈川での松井のビデオを見ると、対安楽同様、振り回さずにボールを見きわめれば攻略は可能、と踏んでいた。

 松井 裕樹。神奈川・青葉緑東シニアでは、3年時に全国大会で優勝した。その中学時代に対戦経験があり、桐光学園では1学年下の坂本 憲吾によると、「まっすぐは当たりそうになかったので、バントした」ほど、当時から球威は群を抜いていた。桐光学園では入学直後から主戦の一角に。徹底した走り込み、20球×10セットという200球の投げ込みで下半身を強化し、バランスの取れた体ができあがった。落差の大きいスライダーは、最初はカウント球として取り組み、改良を重ねた伝家の宝刀。「リリースだけに力を入れるように意識している」(松井)ことで、腕の振りは直球とほとんど同じ。となると打者は、速い直球に合わせて振りにいくから、スライダーにはおもしろいようにバットが空を切る。

 初回、先頭打者として見逃し三振を喫した今治西のキャプテン・池内 将哉。

「神奈川大会のビデオを見る限り、相手は松井君のボール球に手を出していました。そこをしっかり見きわめるつもりでしたが、実際に打席に立つと、スライダーはすごいキレで曲がってくる。左ピッチャーで、あそこまでのスライダーは見たことがありません。見きわめがむずかしければ、ストレートにしっかり対応したほうがいい。でも、そのストレートも浮いてくる感じで……」

 3回、7個目の三振のあと2、3アウト目はセンターゴロとけん制死だったが、その後も松井の三振奪取のペースは落ちない。4回、5回、そして初安打を許した6回と2個ずつ。6回終了で13個だ。その間、桐光学園は5回、松井自身が3ランをかけるなど、5対0と大きくリードしている。そして…。圧巻は、ここからだ。6回の2、3番を連続三振で仕留めた松井は、7回の4~6番、8回の7~9番となんと8者連続三振。この時点で連続三振、さらに1試合最多奪三振の記録(19)に並ぶと、9回の1、2番も連続三振。1925年、森田勇(東山中)が達成した19三振(以後4人あり)を87年ぶりに塗り替えるとともに、10者連続三振の新記録もあっさりと達成した。

 9回2死から、2本目のヒットを許して連続三振は途切れるが、それでも「三振を取ることを目指してやっているわけじゃない」という松井は動じない。塁上に走者を置きながら、口元が何やら動いていたのは、「相手の応援を自分の応援だと思い、歌いながらリズムを取っていた」とは、堂々たるものだ。最後のバッターも三振で締め、なんと22三振。三振以外のアウトは5つだけという完封劇は、やっぱり劇画である。

 これだけ三振を取れば必然的に球数がかさむが、「もともと球数が多い投手だから、スタミナはある」(桐光学園・野呂雅之監督)と、球威はまったく落ちない。今治西・大野 康哉監督も、「終盤まで思い切って腕を振ってくるし、しかも直球とスライダーと腕の軌道がまったく同じ。低めには手を出すなと何回いっても、バットが止まらなかったのはそのせいでしょう」とお手上げだ。

 これは偶然かもしれないけれど……センバツの大会通算奪三振は1973年、江川 卓(作新学院)が記録した60。そのうち、準々決勝で20個を奪われ、完封負けしたのが今治西だ。もしかしたら、三振を恐れずにどんどん振っていけ、というチームなのかもしれない。この試合では、「バットを短く持って振り回さず、ボール球を見きわめる」はずが、思わずスライダーに手が出てしまう。そのとき、バットを短く持ったままでは届かないから、届かせようとすれば長く持たざるを得ない。結果として振り回すことになり、それが後半、松井の三振奪取ペースを押し上げたのだろう。

 松井はこの試合を皮切りに、続く常総学院(茨城)からは19、3回戦では浦添商(沖縄)から12、光星学院(現八戸学院光星=青森)との準々決勝は惜敗したが15三振を奪い、その試合では史上7人目の毎回&全員奪三振を記録している。また3度の毎回奪三振は史上初の快挙と、三振記録ずくめだった。合計では、4試合で68三振。大会最多奪三振は58年、現タレントの板東 英二(徳島商)が記録した83だが、これは延長18回引き分けを含む6試合で記録されたもの。こと三振奪取「率」に限れば、17に達した松井がたぶん、歴代1位だろう。

(文=楊 順行)

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