今のフェラーリに、エンツオのDNAはない!

フェラーリビジネスを支える創始者のDNA?この記事のライター、ちゃんとわかって書いてるのか?ドコに、エンツオのDNAがあるって?今のフェラーリフィアットの回し者、モンテゼモロの商魂しかないョ!

売らんがための、ハイブリッドやクロカンなど、エンツオが指示すると思うか?エンツオが生きていたら、そんなモノ作るくらいなら、F1や他のレースに勝つクルマを作れと言うョ!

イヤ、エンツオが生きていたら、F1にKERS導入されるコトに大反対したのではない?イヤ、F1にあの不細工なハイノーズ導入された時にも反対したのではない?12気筒禁止の時も、F1撤退すら振り回して反対したのではない?嘗て、10気筒禁止の時はBMWがF1撤退したのを放置したが、フェラーリがそうしたら放置できたか?

今のフェラーリ、FIAやFISAに対して、バカなレギュレーションに毅然とNOを突き付ける気概があるか?F1に於いても、メルセデスが脅かされない程度に勝たせてもらう存在に甘んじる存在のままで過ごすのか?

エンツオを祭り上げているのも、バカを引き付けるためのポーズでしかない。エンツオがマーケティングの天才?バカか?ワザと少なく供給する?どう頑張っても、そんな生産能力はサラサラない会社&工場に、虚勢を張っただけだ。フェラーリF40のように、稀少価値を煽って置いて値を釣り上げ、ユルユルといっぱい売ればそれ以上に儲かるのだ。逆に、いいタイミングでエンツオが死んだから、そうデキた。

こんな腐った状況、VWアウディーの言いなりに腐ったクルマ作りをするランボルギーニやポルシェらと変わりない。

 

 

 

 

 

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スーパーカーにまつわる不思議を考える】好調なフェラーリビジネスを支える創始者のDNA
2023.01.23 20:00掲載 カーセンサー 1
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マーケティングの天才、エンツォの言葉

近年は、スーパーカーの販売が絶好調だ。もちろんブランディングが確立したメーカーに限られる話だが、その筆頭はフェラーリだ。1947年創業という比較的若いメーカーであるにも関わらず、フェラーリには多くの「神話」が存在している。

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フェラーリの歴史におけるキーワードは創始者であるエンツォ・フェラーリの神格化だ。「エンツォ・フェラーリはレースに勝つことしか興味がなかった。レース活動の資金を得るために一般の顧客にスポーツカーを販売し、レーシングカーを作った。だからエンツォは顧客に売るスポーツカーにはこだわらず、儲けしか考えなかった。」とか「スポーツカーは欲しがる顧客の数より1台少なく作る。そうすれば、それを買えなかった1人が次はもっと欲しがるし、皆は競争して買う」

こんなエンツォのポリシーというか、ある意味フェラーリを買う顧客をやゆしているようなきわどい格言を聞いたことがある人は多いのではないか?

これらはマーケティングの天才とも言えるエンツォが自ら語った戦略である。そして没後35年経った今も、その戦略は色あせることなく生き続けている。

「レースに勝つことしか興味なかった」は本当か

今でも、エンツォが元気に部下を怒鳴りつけながら指揮をとっているように感じるから実に不思議だ。数ヵ月前、フェラーリSUVマーケットに参入する際も、「4ドアの車はフェラーリではないと考えていた」とエンツォは言っていた、という格言が自然と持ち出され、それによってよりプロサングエのニュースに注目が集まった。エンツォはまるで生きている人間よりも、多くを語っているかのようだ。

そんなエンツォの「言葉」だが、実は必ずしも真実ではない。

「レースに勝つことしか興味が~」という件はどう見てもリアリティがない。エンツォは、かつてモデナ中心部の自宅を出発すると、必ずマラネッロまでの道中にあるカロッツェリア・スカリエッティを訪れていた。そして顧客からの注文によるモデルのデザインに対して文句をつけ、納期を早めるようにプレッシャーをかけ煙たがられていたという。彼はフェラーリと名の付く車に対しては、そのカテゴリー問わずとんでもなくこだわった。

また、元会長であるモンテゼーモロがマラネッロに招かれる前、エンツォの片腕としてフェラーリのゼネラルマネージャーを務めたフサーロは筆者にこう語った。

「エンツォがロードカーに興味を持たないなんていうのは、彼一流のポーズだ。あれほどうるさい人物は他にいなかった。特に彼は『軽量化オタク』だったんだ(笑)。そしてすべての判断を自分で行った。彼の承認なしには何も動かなかったんだ」と。

これらの証言でもわかるように、エンツォはあえて偽悪的に振る舞い、それがトップの富裕層たちから喜ばれることを理解していた。そんな計算がしっかりできる人物であったのだ。

先日亡くなったフェラーリの名エンジニア、マウロ・フォルギエリもエンツォに評価され、同時に厳しい仕打ちを受けた人物である。

「そうです。彼にディスクブレーキの利点や、ミッドマウントエンジン・レイアウトがレースに勝つために必要であることを進言するのに、どれだけアタマを悩ませたか。私が言っても聞くわけがない。だから、彼が聞く耳をもっている限られたドライバーたちに協力してもらったのです」と苦労話を語ってくれた。

しかし、考えてみてほしい。レースに勝つだけならもっと効率的なやり方もあったはずだ。しかしエンツォは絶対にそんな考えを持たなかったし、レースに勝つよりも自らのポリシーを守る方が重要であったのだ。だから、レースに勝つことしか興味がなかったという逸話は、実は正しくないのである。

激動の時代を耐え抜いたフェラーリ

エンツォに関するエピソードは枚挙に暇がないし、フェラーリの歴史も波瀾万丈だ。カルロ・キティやジオット・ビッザリーニらを主役とする1961年の『宮廷の反逆』、フェラーリ、フォード、フィアットの関係性が演じた『フォードvsフェラーリ』。そして、エンツォ没後もジャンニ・アニエッリ会長との関係が噂されたルカ・ディ・モンテゼーモロ、さらにセルジオ・マルキオンネと、一癖あるカリスマたちがフェラーリの顔となり、世界の注目を集めた。そんな彼らのDNAがフェラーリという個性的な車を生み出し、キング・オブ・スーパーカーという地位を作ったのだろう。

しかし、フェラーリの経営は常に良好であったワケではない。1960年代終わりには自動車事業を取り巻く環境の変化から資金難となり、フィアット傘下となった。それから間もなくして、想定外の出来事、オイルショックにも襲われた。大排気量スポーツカー冬の時代の到来であり、フェラーリフィアットの下請け仕事を受けて雇用を確保することもあった。

そんな中でもエンツォが自ら作り上げた神話は生きていた。不景気の中でもトップ・オブ・ザ・トップの富裕層はフェラーリを見放すことはなかったのだ。

果たして年間生産台数を世界中均して見ると、モデナ地区のライバルたち、マセラティランボルギーニたちと違って、ある程度の水準を維持し続けることはできた。時代とともに経営者の顔とその方針が変わっていったブランドとは異なり、フェラーリはエンツォのフィロソフィーと、そこから生まれた我が道を行く姿勢が変わることはなかった。だから古くからのフォロワーは安心してエンツォの亡霊に心酔し続けることができたのだ。 フェラーリの物件を見てみる▼検索条件フェラーリ × 全国文/越湖信一写真/フェラーリ

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