M・フォルギエリ、安らかに!

フェラーリの伝説的エンジニア、M・フォルギエリが亡くなった。87歳だった。

K・キティーの後を受けテクニカルディレクターになり、312Tらを作り出した。180度V12をF1にも市販ミドシップにも搭載した。毎度、優秀な技術者達がエンツオとの仲違いに依りフェラーリを去ったのと同様、84年でテクニカルディレクターをハズれ、エンツオが亡くなる直前の87年にフェラーリを去った。

その後、ランボルギーニでV12を作り出し、F1のモデナ&ラルースに使用された。市販ランボルギーニはピッザリーニが作ったモノをディアブロまで、以後はVWアウディー主導に開発される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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フェラーリF1の伝説的エンジニア、マウロ・フォルギエリが死去。”158”・“312T”で黄金期築く
11/3(木) 8:34 Yahoo!ニュース 
マウロ・フォルギエリ(1970)
 フェラーリF1において数々のタイトル獲得に貢献してきた伝説的エンジニアのマウロ・フォルギエリが、11月2日(水)に亡くなった。享年87歳だった。

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 フォルギエリが1962年から1984年までフェラーリのテクニカルチーフを務め、その期間中には4度のドライバーズタイトル、7度のコンストラクターズタイトル、54勝に貢献してきた。

 彼はボローニャ大学で機械工学を学んだ後、1960年にフェラーリに入社。当時のチーフデザイナーだったカルロ・キティが退いたあと、創設者であるエンツォ・フェラーリから技術面の指揮を任される形でその任に就いた。

 その後の在任期間中、彼はF1において最も成功し、有名なデザインを生み出すことに貢献をした。

 1964年の「フェラーリ158」でジョン・サーティースの手によるダブルタイトル獲得を筆頭に、1975年に投入した「312T」でニキ・ラウダジョディ・シェクターらと黄金期を築き上げた。

 彼は1984年にテクニカルディレクターの職を離れ、コンセプトカーである「フェラーリ 408 4RM」の開発に従事。開発の完了後、1987年にフェラーリを去った。

 その後はランボルギーニへ移籍していたが、再編もあり退社。その後はBMWやブガッティ、アプリリアなどを顧客にするオーラル・エンジニアリング・グループの設立に関わり、最近までこのプロジェクトへの関与を続けていた。

 フェラーリ離脱後もフォルギエリはF1を注視しており、数年前にはDRSを認めている現行ルールがどれほど気に入らないかを表明していたことも、記憶に新しい。当時、彼は次のように語っていた。

「今のマシンのエアロダイナミクス全体が嫌いなんだ」

「なぜDRS無しで通常のオーバーテイクを可能にするために、空力を減らさないのか、理解できない」

「今は1秒以内に入られてしまうと、追い越されるのをただ観ていることしかできない……これは正しくないことだ」

「ワールドチャンピオンは何の助けも無しにオーバーテイクできるポジションにあることが必要だ。さもなければ、私の目にはワールドチャンピオンとしては写らない」
Jonathan Noble

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