7つの名を持つ原作者、結局盗作だったじゃん!

このヒト、極楽トンボ加藤らの「先輩、ロックユー」で出て来なかったっけ?名前に必ず"樹"の字を入れる。「金田一少年の事件簿」では、天樹征丸。売れっ子原作者としての出演だった。「ブラッディーマンデー」は三浦春馬、「サイコメトラー」は松岡昌宏、「神の雫」は亀梨和也でドラマ化された。個人的には柏原崇主演の「将太の寿司」の続きや完結を見たかった。小沢健二「ボクらが旅に出る理由」が主題歌だったハズ。確か、彼女役井出薫は結婚引退、父親役夏八木勲は亡くなってしまったっけ?

金田一少年の事件簿」で"盗作"の話が出て、週刊少年マガジンの連載がポツポツになった。

嘗て「サーキットの狼」や「リングにかけろ!」など読んでいた週刊少年ジャンプはすっかり"裸祭り"になって、読む気がしなくなった。ジャンプがダメになったのだ。当時の石原慎太郎東京都知事が、週刊少年雑誌も購読規制しようと言ったくらい。まあ、その後、五輪誘致や新銀行東京らでの使途不明金200億や豊洲不正の疑惑が出て、国政に逃げ、有耶無耶にされたが、アレで石原慎太郎が居座っていたら、週刊少年雑誌他のサンデーやマガジンやチャンピオンも割を食う危険があった。

********************************

週刊少年マガジン」が、王者「ジャンプ」を倒した日の話
8/10(水) 8:02 Yahoo!ニュース
  159
Photo by iStock
----------
少年週刊誌の中でトップをひた走る「週刊少年ジャンプ」。しかし過去には「マガジン」が王者「ジャンプ」を倒し、少年誌のトップに君臨した時代があった。『はじめの一歩』『将太の寿司』『金田一少年の事件簿』などヒット作が並んだ当時のマガジンの“勢い”を、新刊『「週刊少年マガジン」はどのようにマンガの歴史を築き上げてきたのか? 1959─2009』から紹介しよう。
----------

【写真】マンガの神様・手塚治虫がブチ切れた…連載中止、電撃移籍につながった事件

「マガジン」黄金時代の到来
 1994(平成6)年の年末、「少年ジャンプ」は日本の雑誌史上最大部数となる653万部を記録した。

 五十嵐隆夫編集長率いる「マガジン」もヒット作を連発して急速に部数を伸ばしており、「ジャンプ」「マガジン」「サンデー」の3誌を合わせれば、発行部数は軽く1000万部を超えた。この当時、JR山手線に乗れば、ひとつの車両の中だけで「ジャンプ」や「マガジン」を読んでいる者を何人も見かけたものだ。

 プレイステーションが発売されるのはこの年の12月。まだ誰もがパソコンを持っている時代ではなく、インターネットも普及していなかった。携帯電話を持っている者も少なく、まして小学生や中学生が持つなど考えられなかった。マンガこそがエンターテインメントの中心となるメディアだった。

 すでにバブルが弾けて数年経っていたが、マンガ誌業界に限っては全盛期と呼んでもいい時代だろう。

 発行部数がピークに達した94年を過ぎると、「ジャンプ」は下り坂に向かう。この年に『幽☆遊☆白書』、翌95年に『DRAGON BALL』、96年に『SLAM DUNK』と人気作品の終了が重なり、猛追する「マガジン」との差がぐんぐんと詰まっていった。

 後に第2次黄金時代と呼ばれる90年代の「マガジン」について、「コマがそろっていたんですよ」と、当時「マガジン」の編集者だった樹林伸は説明する。

 「20本あまりの連載中、3~4本しか読むものがなかったら、なかなか雑誌は買ってもらえない。五十嵐(編集長)さんは『読まれていない作品の数を減らす』ことを心がけていました」

 『はじめの一歩』『風のシルフィード』『カメレオン』『シュート! 』『特攻の拓』『将太の寿司』『金田一少年の事件簿』――。ヤンキーマンガの印象が強い90年代の「マガジン」も、こうして並べてみるとバラエティに富んだ連載陣だったことがわかる。

 そして、「金田一」に続く大ヒット作となる『GTO』(藤沢とおる)が始まった1997(平成9)年、ついに「マガジン」は長年の悲願を達成する。

王者「ジャンプ」を倒した日
 
写真:現代ビジネス
 7月28日、朝日新聞夕刊の一面にこんな大見出しが載った。

 「王者『少年ジャンプ』失速 『マガジン』と部数ならぶ 24年間の首位陰る」――。

 夕刊とはいえ、全国紙のトップ記事だ。新聞がマンガを「悪書」として叩いていた50年代には、とても考えられないことだろう。

 やがて、“その日”がやって来た。

 11月1日発売の「ジャンプ」407万部に対し、同5日に発売された「マガジン」97年49号は415万部。今度は毎日新聞が11月15日の夕刊一面で「少年マガジン王者復活」と大々的に報じた。

 翌98年、「マガジン」は史上最大部数となる445万部を発行。少年誌トップの座を守ったまま21世紀を迎えることになる。

 勤続12年、「マガジン」一筋で副編集長になっていた樹林が講談社を退社したのは99年のことだ。

 「妻には95年頃から『会社を辞める』と伝えていたんです。とはいえ、編集者として『自分の雑誌が日本一になる瞬間』を見届けたかった――。一生に一度、あるかないかの体験ですからね」

 フリーの原作者(兼・編集者)となった樹林は、多くのペンネームを使い分けながら、古巣の「マガジン」を中心に八面六臂の活躍を続けている。

 たとえば2012(平成24)年初頭には、「少年マガジン」に『エリアの騎士』『ブラッディ・マンデイ ラストシーズン』『探偵犬シャードック』の3本、「ヤングマガジン」に『サイコメトラー』、「モーニング」に『神の雫』、と講談社のマンガ誌だけで“5本の週刊連載”を抱えていた。恐るべき仕事量だ。

 仕事の場は講談社だけに留まらず、小学館の「ビッグコミックスピリッツ」に連載を持ったこともある。「ジャンプ」のような専属契約に縛られているわけでもない。フリーランサーとしては当然のことだろう。

 しかし、「マガジン」のライバルである「サンデー」や「ジャンプ」では、一度も仕事をしていない。

 「ジャンプの優れたマンガ家と仕事をしたいという気持ちはずっと持っています。でも、できない――。少なくとも、五十嵐さんの目の黒いうちはできませんよ」

 7つの名を持つ原作者・樹林伸は最後にそう言うと、穏やかな微笑を見せた。
伊藤 和弘(フリーライター

********************************